有島武郎 或る女54

背景
投稿者投稿者nyokesiいいね3お気に入り登録
プレイ回数839難易度(4.5) 5960打 長文 長文モード可

関連タイピング

問題文

ふりがな非表示 ふりがな表示

(そのばんじゅういちじをすぎたころに、まとめたにもつをじんりきしゃよんだいにつみのせて、くらちが)

その晩十一時を過ぎたころに、まとめた荷物を人力車四台に積み乗せて、倉地が

(そうかくかんについてきた。ようこはおかみのいれぢえでわざとげんかんにはでむかえなかった。)

双鶴館に着いて来た。葉子は女将の入れ知恵でわざと玄関には出迎えなかった。

(ようこはいたずらものらしくひとりわらいをしながらたてひざをしてみたが、それには)

葉子はいたずら者らしくひとり笑いをしながら立て膝をしてみたが、それには

(じぶんながらきがひけたので、みぎあしをひだりのもものうえにつみのせるようにしてその)

自分ながら気がひけたので、右足を左の腿の上に積み乗せるようにしてその

(あしさきをとんびにしてすわってみた。ちょうどそこにかなりよったらしいようすで、)

足先をとんびにしてすわってみた。ちょうどそこにかなり酔ったらしい様子で、

(くらちがおかみのあんないもまたずにずしんずしんというあしどりではいってきた。ようこと)

倉地が女将の案内も待たずにずしんずしんという足どりではいって来た。葉子と

(かおをみあわしたしゅんかんにはへやをまちがえたとおもったらしく、すこしあわててみを)

顔を見合わした瞬間には部屋を間違えたと思ったらしく、少しあわてて身を

(ひこうとしたが、すぐくしまきにしてくろえりをかけたそのおんながようこだったのにきが)

引こうとしたが、すぐ櫛巻きにして黒襟をかけたその女が葉子だったのに気が

(つくと、いつものしぶいようにかおをくずしてわらいながら、「なんだばかを)

付くと、いつもの渋いように顔をくずして笑いながら、「なんだばかを

(しくさって」とほざくようにいって、ながひばちのむかいざにどっかとあぐらを)

しくさって」とほざくようにいって、長火鉢の向かい座にどっかとあぐらを

(かいた。ついてきたおかみはたったまましばらくふたりをみくらべていたが、)

かいた。ついて来た女将は立ったまましばらく二人を見くらべていたが、

(「ようよう・・・へんてこなおだいりびなさま」とようきにかけごえをしてわらいこけるように)

「ようよう・・・変てこなお内裏雛様」と陽気にかけ声をして笑いこけるように

(ぺちゃんとそこにすわりこんだ。さんにんはこえをたててわらった。と、おかみはきゅうに)

ぺちゃんとそこにすわり込んだ。三人は声を立てて笑った。と、女将は急に

(まじめにかえってくらちにむかい、「こちらはきょうのほうせいしんぽうを・・・」といい)

まじめに返って倉地に向かい、「こちらはきょうの報正新報を・・・」といい

(かけるのを、ようこはすばやくめでさえぎった。おかみはあぶないどたんばでふみ)

かけるのを、葉子はすばやく目でさえぎった。女将はあぶない土端場で踏み

(とどまった。くらちはすいがんをおかみにむけながら、「なに」としりあがりにといかえした。)

とどまった。倉地は酔眼を女将に向けながら、「何」と尻上がりに問い返した。

(「そうはやみみをはしらすとつんぼとまちがえられますとさ」とおかみはこともなげにうけ)

「そう早耳を走らすとつんぼと間違えられますとさ」と女将は事もなげに受け

(ながした。さんにんはまたこえをたててわらった。くらちとおかみとのあいだにいちべついらいの)

流した。三人はまた声を立てて笑った。倉地と女将との間に一別以来の

(うわさばなしがしばらくのあいだとりかわされてから、こんどはくらちがまじめになった。)

うわさ話がしばらくの間取りかわされてから、今度は倉地がまじめになった。

(そしてようこにむかってぶっきらぼうに、「おまえもうねろ」といった。ようこは)

そして葉子に向かってぶっきらぼうに、「お前もう寝ろ」といった。葉子は

など

(くらちとおかみとをならべてひとめみたばかりで、ふたりのあいだのけっぱくなのをみてとって)

倉地と女将とをならべて一目見たばかりで、二人の間の潔白なのを見て取って

(いたし、じぶんがねてあとのそうだんというても、こんどのじけんをじょうずにまとめようと)

いたし、自分が寝てあとの相談というても、今度の事件を上手にまとめようと

(いうについてのそうだんだということがのみこめていたので、すなおにたってざを)

いうについての相談だという事がのみ込めていたので、素直に立って座を

(はずした。なかのじゅうじょうをへだてたじゅうろくじょうにふたりのねどこはとってあったが、ふたりの)

はずした。中の十畳を隔てた十六畳に二人の寝床は取ってあったが、二人の

(かいわはおりおりかなりはっきりもれてきた。ようこはべつにうたがいをかけるというの)

会話はおりおりかなりはっきりもれて来た。葉子は別に疑いをかけるというの

(ではなかったが、やはりじっとみみをかたむけないではいられなかった。なにかのはなしの)

ではなかったが、やはりじっと耳を傾けないではいられなかった。何かの話の

(ついでにいりようなことがおこったのだろう、くらちはしきりにみのまわりをさぐって、)

ついでに入用な事が起こったのだろう、倉地はしきりに身のまわりを探って、

(なにかをとりだそうとしているようすだったが、「あいつのてさげにいれた)

何かを取り出そうとしている様子だったが、「あいつの手提げに入れた

(かしらん」というこえがしたのでようこははっとおもった。あれには「ほうせいしんぽう」の)

かしらん」という声がしたので葉子ははっと思った。あれには「報正新報」の

(きりぬきがいれてあるのだ。もうとびだしていってもおそいとおもってようこは)

切り抜きが入れてあるのだ。もう飛び出して行ってもおそいと思って葉子は

(だんねんしていた。やがてはたしてふたりはきりぬきをみつけだしたようすだった。)

断念していた。やがてはたして二人は切り抜きを見つけ出した様子だった。

(「なんだあいつもしっとったのか」おもわずすこしたかくなったくらちのこえがこう)

「なんだあいつも知っとったのか」思わず少し高くなった倉地の声がこう

(きこえた。「どうりでさっきわたしがこのことをいいかけるとあのかたがめでとめたん)

聞こえた。「道理でさっき私がこの事をいいかけるとあの方が目で留めたん

(ですよ。やはりあちらでもあなたにしらせまいとして。いじらしいじゃ)

ですよ。やはり先方(あちら)でもあなたに知らせまいとして。いじらしいじゃ

(ありませんか」そういうおかみのこえもした。そしてふたりはしばらくだまっていた。)

ありませんか」そういう女将の声もした。そして二人はしばらく黙っていた。

(ようこはねどこをでてそのばにいこうかともおもった。しかしこんやはふたりにまかせておく)

葉子は寝床を出てその場に行こうかとも思った。しかし今夜は二人に任せておく

(ほうがいいとおもいかえしてふとんをみみまでかぶった。そしてだいぶよるがふけてから)

ほうがいいと思い返してふとんを耳までかぶった。そしてだいぶ夜がふけてから

(くらちがねにくるまでこころよいあんみんにぜんごをわすれていた。)

倉地が寝に来るまで快い安眠に前後を忘れていた。

(にじゅうしそのつぎのあさおかみとはなしをしたり、ごふくやをよんだりしたので、ひが)

【二四】 その次の朝女将と話をしたり、呉服屋を呼んだりしたので、日が

(かなりたかくなるまでやどにいたようこは、いやいやながられいのけばけばしいわたいれを)

かなり高くなるまで宿にいた葉子は、いやいやながら例のけばけばしい綿入れを

(きて、はおりだけはおかみがかりてくれた、いもうとぶんというひとのうばぐろの)

着て、羽織だけは女将が借りてくれた、妹分という人の烏羽黒(うばぐろ)の

(ちりめんのもんつきにしてりょかんをでた。くらちはさくやのよふかしにもかかわらずそのあさはやく)

縮緬の紋付きにして旅館を出た。倉地は昨夜の夜ふかしにも係わらずその朝早く

(よこはまのほうにでかけたあとだった。きょうもそらはきくびよりとでもいううつくしい)

横浜のほうに出かけたあとだった。きょうも空は菊日和とでもいう美しい

(はれかたをしていた。ようこはわざとやどでくるまをたのんでもらわずに、れんがどおりにでて)

晴れかたをしていた。葉子はわざと宿で車を頼んでもらわずに、煉瓦通りに出て

(からきれいそうなつじまちをやとってそれにのった。そしていけのはたのほうに)

からきれいそうな辻待ちを傭(やと)ってそれに乗った。そして池の端のほうに

(くるまをいそがせた。さだこをめのまえにおいて、そのちいさなてをなでたり、きぬいとのような)

車を急がせた。定子を目の前に置いて、その小さな手をなでたり、絹糸のような

(かみのけをもてあそぶことをおもうとようこのむねはわれにもなくただわくわくとせき)

髪の毛をもてあそぶ事を思うと葉子の胸はわれにもなくただわくわくとせき

(こんできた。めがねばしをわたってからつきあたりのおおどけいはみえながらなかなか)

込んで来た。眼鏡橋を渡ってから突き当たりの大時計は見えながらなかなか

(そこまでくるまがいかないのをもどかしくおもった。ひざのうえにのせたみやげのおもちゃや)

そこまで車が行かないのをもどかしく思った。膝の上に乗せた土産のおもちゃや

(ちいさなぼうしなどをやきもきしながらひねりまわしたり、ひざかけのあついじをぎゅっと)

小さな帽子などをやきもきしながらひねり回したり、膝掛けの厚い地をぎゅっと

(にぎりしめたりして、はやるこころをおししずめようとしてみるけれどもそれをどう)

握り締めたりして、はやる心を押ししずめようとしてみるけれどもそれをどう

(することもできなかった。くるまがようやくいけのはたにでるとようこはみぎ、ひだり、とほそい)

する事もできなかった。車がようやく池の端に出ると葉子は右、左、と細い

(みちすじのかどかどでさしずした。そしていわさきのやしきうらにあたるちいさなよこちょうの)

道筋の角々でさしずした。そして岩崎の屋敷裏にあたる小さな横町の

(まがりかどでくるまをのりすてた。いっかげつのあいだこないだけなのだけれども、ようこには)

曲がりかどで車を乗り捨てた。一か月の間来ないだけなのだけれども、葉子には

(それがいちねんにもにねんにもおもわれたので、そのかいわいがすこしもへんかしないでもとの)

それが一年にも二年にも思われたので、その界隈が少しも変化しないで元の

(とおりなのがかえってふしぎなようだった。じめじめしたこみぞにそうてねぎわの)

とおりなのがかえって不思議なようだった。じめじめした小溝に沿うて根ぎわの

(くされたくろいたべいのたってるちいさなてらのけいだいをつっきってうらにまわると、てらのかしじめんに)

腐れた黒板塀の立ってる小さな寺の境内を突っ切って裏に回ると、寺の貸地面に

(ぽっつりたったいっこだてのこいえがうばのすむところだ。もぎどうにあたまを)

ぽっつり立った一戸建ての小家が乳母の住む所だ。没義道(もぎどう)に頭を

(きりとられたこうやまきがにほんもとのすがたでだいどころまえにたって)

切り取られた高野槇(こうやまき)が二本 旧(もと)の姿で台所前に立って

(いる、そのにほんにほしざおをわたしてちいさなじゅばんや、まるあらいにしたどうぎがあたたかい)

いる、その二本に干し竿を渡して小さな襦袢や、まる洗いにした胴着が暖かい

(ひのひかりをうけてぶらさがっているのをみるとようこはもうたまらなくなった。)

日の光を受けてぶら下がっているのを見ると葉子はもうたまらなくなった。

(なみだがぽろぽろとたわいもなくながれおちた。いえのなかではさだこのこえがしなかった。)

涙がぽろぽろとたわいもなく流れ落ちた。家の中では定子の声がしなかった。

(ようこはきをおちつけるためにあんないをもとめずにいりぐちにたったまま、そっと)

葉子は気を落ち着けるために案内を求めずに入り口に立ったまま、そっと

(かきねからにわをのぞいてみると、ひあたりのいいえんがわにさだこがたったひとり、ようこに)

垣根から庭をのぞいて見ると、日あたりのいい縁側に定子がたった一人、葉子に

(はしごきおびをながくむすんだうしろすがたをみせて、いっしんふらんにせっせとすこしばかりの)

はしごき帯を長く結んだ後ろ姿を見せて、一心不乱にせっせと少しばかりの

(こわれおもちゃをいじくりまわしていた。なにごとにまれしんけんなようすをみせつけ)

こわれおもちゃをいじくり回していた。何事にまれ真剣な様子を見せつけ

(られると、ーーわきめもふらずはたけをたがやすのうふ、ふみきりにたってこをせおった)

られると、ーーわき目もふらず畑を耕す農夫、踏み切りに立って子を背負った

(ままはたをかざすにょうぼう、あせをしとどにたらしながらさかみちににぐるまをおす)

まま旗をかざす女房、汗をしとどにたらしながら坂道に荷車を押す

(ともかせぎのふうふーーわけもなくなみだにつまされるようこはさだこのそうした)

出稼(ともかせ)ぎの夫婦ーーわけもなく涙につまされる葉子は定子のそうした

(すがたをひとめみたばかりで、にんげんりょくではどうすることもできないかなしいできごとにでも)

姿を一目見たばかりで、人間力ではどうする事もできない悲しい出来事にでも

(であったように、しみじみとさびしいこころもちになってしまった。)

出あったように、しみじみとさびしい心持ちになってしまった。

(「さあちゃん」なみだをこえにしたようにようこはおもわずよんだ。さだこがびっくり)

「定(さあ)ちゃん」涙を声にしたように葉子は思わず呼んだ。定子がびっくり

(してうしろをふりむいたときには、ようこはとをあけていりぐちをかけあがってさだこの)

して後ろを振り向いた時には、葉子は戸をあけて入り口を駆け上がって定子の

(そばにすりよっていた。ちちににたのだろういたいたしいほどきゃしゃづくりな)

そばにすり寄っていた。父に似たのだろう痛々しいほど華車(きゃしゃ)作りな

(さだこは、どこにどうしてしまったのか、こえもすがたもきえはてたじぶんのははがとつぜんそば)

定子は、どこにどうしてしまったのか、声も姿も消え果てた自分の母が突然そば

(ちかくにあらわれたのにきをうばわれたようすで、とみにはこえもださずにおどろいてようこを)

近くに現われたのに気を奪われた様子で、とみには声も出さずに驚いて葉子を

(みまもった。「さあちゃんままだよ。よくじょうぶでしたね。そしてよくひとりで)

見守った。「定(さあ)ちゃんママだよ。よく丈夫でしたね。そしてよく一人で

(おとなにして・・・」もうこえがつづかなかった。「ままちゃん」そうとつぜんおおきな)

おとなにして・・・」もう声が続かなかった。「ママちゃん」そう突然大きな

(こえでいってさだこはたちあがりざまだいどころのほうにかけていった。「ばあや)

声でいって定子は立ち上がりざま台所のほうに駆けて行った。「婆や

(ままちゃんがきたのよ」というこえがした。「え!」とおどろくらしいばあやのこえが)

ママちゃんが来たのよ」という声がした。「え!」と驚くらしい婆やの声が

(うらにわからきこえた。と、あわてたようにだいどころをあがって、さだこをよこだきにした)

裏庭から聞こえた。と、あわてたように台所を上がって、定子を横抱きにした

(ばあやが、かぶっていたてぬぐいをつむりからはずしながらころがりこむ)

婆やが、かぶっていた手ぬぐいを頭(つむり)からはずしながらころがり込む

(ようにしてざしきにはいってきた。ふたりはむきあってすわるとりょうほうともなみだぐみ)

ようにして座敷にはいって来た。二人は向き合ってすわると両方とも涙ぐみ

(ながらむごんであたまをさげた。)

ながら無言で頭を下げた。

問題文を全て表示 一部のみ表示 誤字・脱字等の報告

nyokesiのタイピング

オススメの新着タイピング

タイピング練習講座 ローマ字入力表 アプリケーションの使い方 よくある質問

人気ランキング

注目キーワード