夢野久作 押絵の奇蹟⑩/⑲
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問題文
(わたしはなくにはなかれずに、ただ、こわいようなかなしいようなおもいでいっぱいになって、)
私は泣くには泣かれずに、唯、怖いような悲しいような思いで一パイになって、
(おとうさまのかおばかりみておりました。すると、おとうさまはなんとおおもいになりました)
お父様の顔ばかり見ておりました。すると、お父様は何とお思いになりました
(ことか、とつぜんにわたしをつきはなしざま、わたしのひだりのほおをちからいっぱいおうちになりました)
事か、突然に私を突き放しざま、私の左の頬を力一パイお打ちになりました
(ので、わたしはたたみのうえにひれふしたまま、わっとおおきなこえをたててなきだしました。)
ので、私は畳の上にひれ伏したまま、ワッと大きな声を立てて泣き出しました。
(わたしがおとうさまにうたれましたのはのちにもさきにも、これがはじめてのおしまいでした。)
私がお父様に打たれましたのは後にも先にも、これが初めてのお終いでした。
(「まあ・・・あなた・・・なにをなさいます」というこえがだいどころのほうからきこえて、)
「まあ・・・あなた・・・何をなさいます」という声が台所の方から聞えて、
(おかあさまがはしっておいでになるけはいがいたしました。それでわたしはおきあがっておかあさまの)
お母様が走ってお出でになる気配が致しました。それで私は起き上ってお母様の
(ほうへいこうとしましたが、いつのまにかわたしはおとうさまからおびぎわをとらえられており)
方へ行こうとしましたが、いつの間にか私はお父様から帯際を捉えられており
(まして、いきがとまるほどつよくたたみのうえにひきすえられました。そのひょうしにわたしは、)
まして、息が止まるほど強く畳の上に引き据えられました。その拍子に私は、
(あまりのおそろしさのためからなきやんでしまったようにおぼえて)
あまりの恐ろしさのためから泣き止んでしまったように記憶(おぼ)えて
(います。おかあさまはゆいあげたばかりのつやつやしいまるまげにうすげしょうをして、ごじぶんで)
います。お母様は結い上げたばかりの艶々しい丸髷に薄化粧をして、御自分で
(おそめになったあおいかたびらをきておいでになりました。そうしててをふいておられた)
お染になった青い帷子を着ておいでになりました。そうして手を拭いておられた
(かみをひだりてのたもとにいれながらおざしきのいりぐちでみつゆびをついて、「おかえりあそばせ)
紙を左手の袂に入れながらお座敷の入り口で三ツ指をついて、「お帰り遊ばせ
(・・・まあ・・・あなたはなぜそのようなおてあらいことを・・・」といいながら)
・・・まあ・・・あなたは何故そのようなお手荒い事を・・・」と云いながら
(わたしにちかよろうとなさいますとわたしのうしろから、おとうさまのおこえがたいほうの)
私に近寄ろうとなさいますと 私の背後(うしろ)から、お父様のお声が大砲の
(ようにきこえました。「・・・だまれっ。・・・そこへすわれっ」おかあさまは)
ように聞えました。「・・・黙れッ。・・・そこへ坐れッ」お母様は
(びっくりしたかおをなされながらすなおにおすわりになりました。そうしてりょうてを)
ビックリした顔をなされながら素直にお坐りになりました。そうして両手を
(つかえながら、「はい・・・」といいいいわたしのうたれたほおと、おとうさまの)
支(つか)えながら、「ハイ・・・」と云い云い私の打たれた頬と、お父様の
(おかおとをみくらべておいでになりました。けれどもまだなみだはおみせになりません)
お顔とを見比べておいでになりました。けれどもまだ涙はお見せになりません
(でした。「もっとこっちへよれっ」とおとうさまはおしつけるようにいわれました。)
でした。「もっとこっちへ寄れッ」とお父様は押しつけるように云われました。
(「はい・・・」とおかあさまはしとやかにおすすみになって、ちょうどじゅうじょうのおざしきの)
「ハイ・・・」とお母様はしとやかにお進みになって、丁度十畳のお座敷の
(まんなかちかくまできてまた、みつゆびをおつきになりました。おとうさまはだまっておかあさまの)
まん中近くまで来て又、三ツ指をおつきになりました。お父様は黙ってお母様の
(かおをにらんでおいでになるようでしたが、わたしはおかあさまのほうにむけられてあしを)
顔を睨んでおいでになるようでしたが、私はお母様の方に向けられて足を
(なげだしたまま、おびぎわをしっかりととらえられておりましたのでみえません)
投げ出したまま、帯際をしっかりと捉えられておりましたので見えません
(でした。おかあさまもいっしんに、おとうさまのかおをみておいでになりましたが、そのおおきな)
でした。お母様も一心に、お父様の顔を見ておいでになりましたが、その大きな
(うつくしいめでにどほどぱちぱちとまばたきをされました。「・・・き・・・きさまは)
美しい眼で二度ほどパチパチと瞬きをされました。「・・・キ・・・貴様は
(・・・な・・・なかむらはんだゆうとふぎをしたおぼえがあろう」というおとうさまのこえが、)
・・・ナ・・・中村半太夫と不義をした覚えがあろう」というお父様の声が、
(まもなくわたしのうしろからかみなりのようにひびきました。わたしのおびをつかんでおられる)
間もなく私のうしろから雷のように響きました。私の帯を掴んでおられる
(おとうさまのてがぶるぶるとふるえました。「あっ・・・まあ・・・」とおかあさまは)
お父様の手がブルブルとふるえました。「あっ・・・まあ・・・」とお母様は
(めをおおきくしておどろきさま、うしろでをつかれましたが、たちまちひざのまえにりょうそでを)
眼を大きくして驚きさま、うしろ手をつかれましたが、たちまち膝の前に両袖を
(かさねてわっとなきふしておしまいになりました。おとうさまはだまってそのすがたをみて)
重ねてワッと泣き伏しておしまいになりました。お父様は黙ってその姿を見て
(おいでになるごようすでしたが、しばらくしてまたこんどはひくいおしつけるようなこえで、)
おいでになる御様子でしたが、暫くして又今度は低い押しつけるような声で、
(しずかにいわれました。「おぼえがあろうの・・・」「ええっ・・・ぞんじがけも)
静かに云われました。「おぼえがあろうの・・・」「エエッ・・・ぞんじがけも
(ない・・・ゆめにも・・・まあ」とおかあさまはあおじろいかおと、あかくなっためをおあげに)
ない・・・夢にも・・・マア」とお母様は青白い顔と、紅くなった眼をお上げに
(なりました。「だまれっ」とおとうさまのおこえはまた、かみなりのようにわたしのうしろから)
なりました。「黙れっ」とお父様のお声は又、雷のように私のうしろから
(はためきました。わたしのみぎのみみがじいーんとなるくらいでした。「おぼえがないとて)
はためきました。私の右の耳がジイーンと鳴る位でした。「おぼえがないとて
(しょうこがあるぞっ」おかあさまはそういわれるおとうさまのおかおをじっとごらんになり)
証拠があるぞッ」お母様はそう云われるお父様のお顔をジッと御覧になり
(ながら、かすりのまえだれのうえにりょうてをちゃんとかさねて、むりにきをおちつけようと)
ながら、飛白の前垂れの上に両手をチャンと重ねて、無理に気を落ちつけようと
(しておられるようでしたが、そのなやましくもいたいたしいおすがたをわたしはしんでも)
しておられるようでしたが、その悩ましくも痛々しいお姿を私は死んでも
(わすれますまい。けれどもおかあさまのおこえはいつもとちがって、ふるえてかすれて)
忘れますまい。けれどもお母様のお声はいつもと違って、ふるえてカスレて
(おりました。「・・・ど・・・どのような・・・」「だまれだまれっ。どのような)
おりました。「・・・ど・・・どのような・・・」「黙れ黙れッ。どのような
(とはしらじらしい・・・あのくしだじんじゃのいぬづかしののおしえのかおはだれににせてつくったっ」)
とは白々しい・・・あの櫛田神社の犬塚信乃の押絵の顔は誰に似せて作ったッ」
(おかあさまはながいながいためいきをほーっとなされました。しずかにわたしのかおをみながら)
お母様は長い長い溜め息をホーッとなされました。静かに私の顔を見ながら
(いわれました。「そのとしこににせてつくりました」「そのとしこの・・・)
云われました。「そのトシ子に肖(に)せて作りました」「そのトシ子の・・・
(こやつのかおはだれににている」というなり、おとうさまはりょうてでわたしのおたばこぼんにゆって)
こやつの顔は誰に似ている」と云うなり、お父様は両手で私のお煙草盆に結って
(いるあたまをがっしとつかんで、おかあさまのほうへおむけになりました。「ええっ・・・」)
いる頭をガッシと掴んで、お母様の方へお向けになりました。「エエッ・・・」
(というおかあさまのこえだけはきこえましたが、わたしのひだりのめに、おとうさまのどのゆびかが)
というお母様の声だけは聞こえましたが、私の左の眼に、お父様のどの指かが
(はいりまして、びくびくといたみましたのでわたしはめをあけることができなくなって、)
這入りまして、ビクビクと痛みましたので私は眼をあける事が出来なくなって、
(おとうさまのてをつかまえてもがいておりました。そのうちにおとうさまのこえは、なおも)
お父様の手を摑まえて藻掻いておりました。そのうちにお父様の声は、なおも
(つづきました。「おれはきょうがきょうまでしらなんだ。けれどもさいぜんあのくしだじんじゃの)
続きました。「俺は今日がきょうまで知らなんだ。けれども最前あの櫛田神社の
(がくをみながら、ひとのうわさをきいているうちに、あのいぬづかしののおしえのかおが、)
額を見ながら、人の噂をきいているうちに、あの犬塚信乃の押絵の顔が、
(なかむらはんだゆうのぶたいにいきうつしであることがわかった。そればかりでない。)
中村半太夫の舞台に生き写しであることがわかった。そればかりでない。
(きさまのつくったにんぎょうのかおがじょうものになればなるほど、なかむらはんだゆうににていることも、)
貴様の作った人形の顔が上物になればなる程、中村半太夫に似ている事も、
(そこにおったひとのうわさではじめてきがついた。こやつ(わたし)のめはなだちがなかむら)
そこに居った人の噂で初めて気が付いた。コヤツ(私)の眼鼻立ちが中村
(はんだゆうとうりふたつになっていることはきんじょのこもりおんなまでしっていることもあのえまどうで)
半太夫と瓜二つになっている事は近所の子守女まで知っている事もあの絵馬堂で
(はじめてきいた。・・・このとしつききさまにこがうまれぬわけもいまはじめてわかった。)
初めてきいた。・・・この年月貴様に子が生れぬわけも今はじめてわかった。
(・・・き・・・きさまは、よくもよくもこのながいあいだおれにはじをかかせおったな」)
・・・キ・・・貴様は、よくもよくもこの永い間俺に恥をかかせおったナ」
(こうしたこえがひびきわたるうちにおとうさまはかたほうのてをわたしのあたまからはなされましたので、)
こうした声が響き渡るうちにお父様は片方の手を私の頭から離されましたので、
(わたしはやっとめをあくことができました。おかあさまはたたみのうえにりょうそでをかさねて)
私はやっと眼をあくことが出来ました。お母様は畳の上に両袖を重ねて
(つっぷしておられました。そうしてこえをおさえてなきつづけておいでになりましたが、)
突伏しておられました。そうして声を押えて泣き続けておいでになりましたが、
(ふしぎとひとこともいいわけをしようとはなさいませんでした。わたしは、いつもおとうさまが)
不思議と一言も云い訳をしようとはなさいませんでした。私は、いつもお父様が
(かんしゃくをおおこしになったときのようにおかあさまはすぐにおわびになることとばかり)
カンシャクをお起しになった時のようにお母様はすぐにお詫びになる事とばかり
(おもっておりましたけれども、おかあさまはこのときばかりはどうしたわけかただおなきに)
思っておりましたけれども、お母様はこの時ばかりはどうした訳か只お泣きに
(なるばかりで、しまいには、そのこえさえつつまずにこころゆくばかりないておいでに)
なるばかりで、しまいには、その声さえ包まずに心ゆくばかり泣いておいでに
(なったようです。そのこえをじっときいておいでになったらしいおとうさまは、やがて)
なったようです。その声をジッと聞いておいでになったらしいお父様は、やがて
(ぶしらしいいげんのあるこえでこういわれました。「おれはかくごした。きさまのへんじ)
武士らしい威厳のある声でこう云われました。「俺は覚悟した。貴様の返事
(ひとつでは、そのばをたたせずにこのかたなでせいばいをしてくれる。せんぞのいはいをよごした)
一つでは、その場を立たせずにこの刀で成敗をしてくれる。先祖の位牌を汚した
(もうしわけにするつもりだ。さあ、へんじをせぬか」といいながらおとうさまはわたしのあたまから)
申訳にするつもりだ。サア、返事をせぬか」と云いながらお父様は私の頭から
(てをはなして、またおびぎわをおつかまえになりました。そのときにおかあさまはぴったりと)
手を放して、又帯際をお掴まえになりました。その時にお母様はピッタリと
(なきやんでしずかにかおをおあげになりました。うつむいたまま)
泣き止んで静かに顔をお上げになりました。うつむいたまま
(こんがすりのまえだれをしずかにといて、ていねいにたたんでよこにおおきに)
紺飛白(こんがすり)の前垂れを静かに解いて、丁寧に畳んで横にお置きに
(なって、それからはながみでおかおのみだれをなおして、ほおけかかったかみをまるくしで、)
なって、それから鼻紙でお顔の乱れを直して、ほおけかかった髪を丸櫛で、
(かきあげてから、やおらめをあげておとうさまをごらんになりましたが、そのときの)
掻き上げてから、やおら眼を上げてお父様を御覧になりましたが、その時の
(おかあさまのこうごうしかったこと・・・かなしみも、おどろきも、なにもかもなくなった、めがみの)
お母様の神々しかった事・・・悲しみも、驚きも、何もかもなくなった、女神の
(ようなせいじょうなおかたにみえました。おかあさまはそれからりょうてをちゃんと、たたみのうえに)
ような清浄なお方に見えました。お母様はそれから両手をチャンと、畳の上に
(そろえながらじっとおとうさまのおかおをみあげながらいわれました。)
揃えながらジッとお父様のお顔を見上げながら云われました。
(「もうしわけございません・・・おうたがいはごもっともでございます」という)
「申訳御座いません・・・ お疑いは御尤(ごもっと)もで御座います」と云う
(うちにあたらしいなみだがきらきらとひかってながいまつげからしろいほおにつたわりおちましたが、)
うちに新しい涙がキラキラと光って長い睫から白い頬に伝わり落ちましたが、
(おかあさまはそのままことばをおつづけになりました。「どうぞ、おこころのままにあそばし)
お母様はそのまま言葉をお続けになりました。「どうぞ、お心のままに遊ばし
(ませ。わたしはふぎをいたしましたおぼえは・・・」「なにっ・・・なにっ・・・」)
ませ。私は不義を致しましたおぼえは・・・」「何ッ・・・何ッ・・・」
(「ふぎをいたしましたおぼえはもうとうございませぬが・・・このうえのおみやづかえは)
「不義を致しましたおぼえは毛頭御座いませぬが・・・この上のお宮仕えは
(いたしかねます」「・・・・・・」「おなごりおしうとはございますが、あなたの)
致しかねます」「・・・・・・」「お名残り惜しうとは御座いますが、あなたの
(おてにかかりまして・・・」「なにっ・・・なんじゃと・・・」といいつつおとうさまは)
お手にかかりまして・・・」「何ッ・・・何じゃと・・・」と云いつつお父様は
(ぐいぐいとわたしを、おゆすぶりになりました。おかあさまははふりおつるなみだをはながみで)
グイグイと私を、おゆすぶりになりました。お母様はハフリ落つる涙を鼻紙で
(おおさえになりました。「ただ、そのとしこだけは、おゆるしくださいます)
お押えになりました。「ただ、そのトシ子だけは、おゆるし下さいます
(ように・・・。それはまさしくあなたさまの・・・」「なにをっ・・・またしても)
ように・・・。それは正しくあなた様の・・・」「何をッ・・・又しても
(ぬけぬけと・・・」「いいえ・・・こればっかりはまさしく・・・」)
ぬけぬけと・・・」「イイえ・・・こればっかりは正しく・・・」
(「ええっ・・・まだいうかっ・・・」「いえ・・・こればかりは・・・」)
「エエッ・・・まだ云うかッ・・・」「イエ・・・こればかりは・・・」
(「だまれっ・・・ならぬっ」とおとうさまがおっしゃるとたんにわたしを、おつきはなしになり)
「黙れッ・・・ならぬッ」とお父様が仰有る途端に私を、お突き放しになり
(ましたので、わたしはばったりとたおれて、おことのうえにひれふしました。それといっしょに)
ましたので、私はバッタリと倒れて、お琴の上にひれ伏しました。それと一緒に
(ことじがふたつかみっつたおれてぱちんぱちんとはげしいおとがしたように)
琴柱(ことじ)が二つか三つたおれてパチンパチンと烈しい音がしたように
(おもいます。)
思います。