夢野久作 押絵の奇蹟⑪/⑲

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問題文

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(わたしはこれからさきのことをかくにしのびませぬ。けれどもこれからさきのことを)

私はこれから先の事を書くに忍びませぬ。けれどもこれから先の事を

(かきませぬと、なにもかもぎもんのままになるとおもいますから、おぼえて)

書きませぬと、何もかも疑問のままになると思いますから、記憶(おぼ)えて

(おりますとおりにしるしとめさしていただきます。)

おります通りに記し止めさして頂きます。

(わたしがようやっと、おことのうえからおきなおりましたときには、たたみのうえにせいざして、)

私がようやっと、お琴の上から起き直りました時には、畳の上に正座して、

(りょうてをひざのうえにおいたまま、うなだれておいでになるおかあさまと、それにむかい)

両手を膝の上に置いたまま、うなだれておいでになるお母様と、それに向い

(あって、つったっておいでになるおとうさまのおすがたが、くらいおにわをはいけいにして)

合って、突っ立っておいでになるお父様のお姿が、暗いお庭を背景にして

(みえましたが、そのときにおとうさまは、みぎてにかたなをさげておいでになったはずでした)

見えましたが、その時にお父様は、右手に刀を提げておいでになった筈でした

(けれども、そのかたなはおとうさまのからだのかげになって、わたしのめにははいりません)

けれども、その刀はお父様の身体の蔭になって、私の眼には這入りません

(でした。ただ、おかあさまのうしろのかべに、あかいはなびらのようなしたたりが、いつつむっつ、)

でした。只、お母様のうしろの壁に、赤い花びらのような滴りが、五ツ六ツ、

(ばらばらととびかかっているのがみえましたが、そのときはなにやらわかりません)

バラバラと飛びかかっているのが見えましたが、その時は何やらわかりません

(でした。そのうちにおかあさまのしろいえりすじから、あかいものがずーうとながれだし)

でした。そのうちにお母様の白い襟すじから、赤いものがズーウと流れ出し

(ました。・・・とおもうとひだりのかたのあおいおめしもののしたから、しんくのかたまりが)

ました。・・・と思うと左の肩の青いお召物の下から、深紅のかたまりが

(むらむらとわきだして、いきたむしのようにおちちのしたへはいひろがっていきました。)

ムラムラと湧き出して、生きた虫のようにお乳の下へ這い拡がって行きました。

(おかあさまのひだりてにもあかいものがいとのようにながれだしていたようにおもいます。)

お母様の左手にも赤いものが糸のように流れ出していたように思います。

(それといっしょに、そのあおいおめしもののえりのところがさんかくにきれはなれて、ぱらりとたれ)

それと一緒に、その青いお召物の襟の処が三角に切れ離れて、パラリと垂れ

(おちますと、ちのあみにつつまれたようなしろいまんまるいおちちのかたっぽうがみえました)

落ちますと、血の網に包まれたような白いまん丸いお乳の片っ方が見えました

(けれども、おかあさまは、うつむいたままちゃんとりょうてをひざのうえにかさねてすわって)

けれども、お母様は、うつ向いたままチャンと両手を膝の上に重ねて坐って

(おいでになりました。わたしはそのときにむちゅうになって、おかあさまにとびついて)

おいでになりました。わたしはその時に夢中になって、お母様に飛びついて

(いったようにおもいます。それをおかあさまはおだきよせになったようにもおもいますが)

行ったように思います。それをお母様はお抱き寄せになったようにも思いますが

(はっきりとはきおくいたしませぬ。そのときに、わたしのせなかとむねへ、なにかひのようにあつい)

ハッキリとは記憶致しませぬ。その時に、私の背中と胸へ、何か火のように熱い

など

(ものがさわったようにおもいながら、おかあさまのうえへおりかさなってたおれたようにも)

ものが触ったように思いながら、お母様の上へ折り重なって倒れたようにも

(おもいますが、これとてもむちゅうになっておりましたのですから、どんなきもち)

思いますが、これとても夢中になっておりましたのですから、どんな気もち

(だったかはっきりとはおもいだしえませぬ。どちらにいたしましてもわたしは、それきり)

だったかハッキリとは思い出し得ませぬ。どちらに致しましても私は、それきり

(なにもかもわからなくなりましたので、きがつきましたときにはどこかのびょういんの)

何もかもわからなくなりましたので、気がつきました時にはどこかの病院の

(しんだいのうえにねかされて、しろいきものをきたひとたちにとりまかれておりました。)

寝台の上に寝かされて、白い着物を着た人たちに取り巻かれておりました。

(おかあさまのかたをきられたあとで、おかあさまとわたしとをいっしょにつきさされたおとうさまの)

お母様の肩を斬られたあとで、お母様と私とを一緒に突き刺されたお父様の

(かたなは、わたしのはいをさけておりましたのでたすかったのだそうでございます。けれども)

刀は、私の肺を避けておりましたので助かったのだそうで御座います。けれども

(おかあさまはしんぞうをつらぬかれておいでになりましたので、そのばでぜっそくしておいでに)

お母様は心臓を貫かれておいでになりましたので、その場で絶息しておいでに

(なったそうですが、それでもかたてで、しっかりとわたしをだきしめておいでになった)

なったそうですが、それでも片手で、シッカリと私を抱き締めておいでになった

(ということでございます。また、おとうさまは、そのあとで、はかまをおめしになって、)

という事で御座います。又、お父様は、そのあとで、袴をお召しになって、

(なんどのおぶつだんのまえでみごとにせっぷくしておいでになったそうですがくわしいことは)

納戸のお仏壇の前で見事に切腹しておいでになったそうですが詳しい事は

(ぞんじません。あとあとのことは、なにもかもしばちゅうさんがしまつをしてくだすったそう)

存じません。あとあとの事は、何もかも柴忠さんが始末をして下すったそう

(ですが、そのときのことをだれがたずねましても、しばちゅうさんはにがいかおをしてへんじを)

ですが、その時の事を誰が尋ねましても、柴忠さんは苦い顔をして返事を

(なさらぬとのことでございますから、わたしもきをつけまして、しばちゅうさんにだけは)

なさらぬとの事で御座いますから、私も気をつけまして、柴忠さんにだけは

(りょうしんのことをたずねないようにいたしておりました。)

両親の事を尋ねないように致しておりました。

(わたしはおちちのしたのきずがなおりましてからのち、まるさんねんのあいだ、はかたおおはまのしばちゅうさんの)

私はお乳の下の傷が治りましてから後、丸三年の間、博多大浜の柴忠さんの

(おたくにおやっかいになっておりました。それからふくおかのしょうがっこうへかよわしていただいたので)

お宅にお厄介になっておりました。それから福岡の小学校へ通わして頂いたので

(ございますが、そのあいだのしばちゅうさんごふうふのごしんせつというものは、それはそれは)

御座いますが、その間の柴忠さん御夫婦の御親切というものは、それはそれは

(ふでにもことばにもつくされませんでした。わけてもわたしのおかあさまがあこやのおしえにんぎょうを)

筆にも言葉にも尽されませんでした。わけても私のお母様が阿古屋の押絵人形を

(つくっておあげになったおじょうさまには、もうごようしがおみえになっておりましたが、)

作ってお上げになったお嬢様には、もう御養子がお見えになっておりましたが、

(おふたりともわたしをしんみのいもうとのようにかわいがってくださいました。けれどもわたしはじゅうろくの)

お二人とも私を親身の妹のように可愛がって下さいました。けれども私は十六の

(としのはるにこうとうしょうがっこうをそつぎょういたしますとまもなく、おもいきってしばちゅうさんにおいとまを)

年の春に高等小学校を卒業致しますと間もなく、思い切って柴忠さんにお暇を

(ねがってとうきょうのおんがくがっこうにはいるけっしんをいたしました。それは、ちょうどそのころに、)

願って東京の音楽学校に入る決心を致しました。それは、ちょうどその頃に、

(おおはまからほどちかいいちこうじというまちにありますきょうかいで、おるがんというものを)

大浜から程近い市小路という町に在ります教会で、オルガンというものを

(ひきならいまして、せいようおんがくというものがおもしろくておもしろくてたまらなかったからで)

弾き習いまして、西洋音楽というものが面白くて面白くてたまらなかったからで

(ございましょうが、いまひとつには、もうこのうえにどんなにしんぼうしようと)

御座いましょうが、今一つには、もうこの上にどんなに辛棒しようと

(おもいましても、うまれこきょうのふくおかにはいられないようなきもちになったからでも)

思いましても、生れ故郷の福岡には居られないような気持ちになったからでも

(ございました。そのわけともうしますのは、ほかでもございませぬ。・・・あれは)

御座いました。そのわけと申しますのは、ほかでも御座いませぬ。・・・あれは

(しんぶんにでたふぎしゃのこよ・・・とうきょういちのおやまはいゆうと、ふくおかいちの)

新聞に出た不義者の子よ・・・ 東京一の女形(おやま)俳優と、福岡一の

(べっぴんふじんのあいだにできたなぞのこよと、ゆびさしめざしされております)

別嬪(べっぴん)夫人の間に出来た謎の子よと、指さし眼ざしされております

(ことが、せいちょういたしますにつれてわかってきたからでございました。がっこうのしゅうしんの)

ことが、成長致しますにつれてわかって来たからで御座いました。学校の修身の

(じかんなぞに、せんせいがなんのきもなくていじょのおはなしなぞをしておられまするうちに、)

時間なぞに、先生が何の気もなく貞女のお話なぞをしておられまするうちに、

(わたしのかおをごらんになるとふいとみょうなかおになって、くちをつぐまれましたときのこころぐるしさ。)

私の顔を御覧になるとフイと妙な顔になって、口を噤まれました時の心苦しさ。

(せつなさ。こどもながらにきゅうぜんたいのおともだちのしせんが、わたしのからだにやきついている)

切なさ。子供ながらに級全体のお友達の視線が、私の身体に焼きついている

(ようにおもって、うつむいてないておりましたときのなさけなさ。「こちらにはなかむら)

ように思って、うつ向いて泣いておりました時の情なさ。「こちらには中村

(はんだゆうのぶたいすがたにそっくりのむすめさんがいるそうですが、ちょっとみたいもの)

半太夫の舞台姿にソックリの娘さんが居るそうですが、チョット見たいもの

(ですねえ」というおきゃくのこえにたいしてしばちゅうさんが、「へえ。それはいまおちゃをもって)

ですネエ」というお客の声に対して柴忠さんが、「ヘエ。それは今お茶を持って

(きましょうから、そのときにようごらんなさいませ。ははははは」とちからなく)

来ましょうから、その時によう御覧なさいませ。ハハハハハ」と力なく

(わらわれるこえを、しょうじのそとでききまして、そのまま、おなんどにかくれてなきふし)

笑われる声を、障子の外で聞きまして、そのまま、お納戸に隠れて泣き伏し

(ましたときのくやしうございましたこと。それからまた、わたしはすこしおおきくなりますと、)

ました時の口惜しう御座いました事。それから又、私は少し大きくなりますと、

(からだのきずをひとにみられるのがはずかしくてたまらないようになりましたので、)

身体の疵を人に見られるのが恥かしくてたまらないようになりましたので、

(そっとおくさまにおねがいしまして、わざとよなかすぎに、おくのおゆにいれていただいて)

ソッと奥様にお願いしまして、わざと夜中過ぎに、奥のお湯に入れていただいて

(おったのでございますが、あるふゆのよのこと、きりどのそとで、)

おったので御座いますが、ある冬の夜(よ)の事、切り戸の外で、

(「みえようが・・・」「うん。みえるみえる。おそろしいおおきなきずばい。)

「見えようが・・・」「ウン。見える見える。恐ろしい大きな疵ばい。

(なるほど・・・」というようなげなんたちのささやきがきこえましたので、そのまま)

ナルホド・・・」というような下男たちの囁きが聞こえましたので、そのまま

(ゆぶねのなかにくびまでしずみながら、おゆがつめたくなるまでがまんしており)

浴槽(ゆぶね)のなかに首まで沈みながら、お湯が冷たくなるまで我慢しており

(ましたときのなさけのうございましたこと・・・あとでふるえながらやぐのなかに)

ました時の情のう御座いました事・・・あとでふるえながら夜具の中に

(ちぢこまって、よどおしねもやらずにないてないてなきあかしたことで)

ちぢこまって、夜通し寝もやらずに泣いて泣いて泣き明かした事で

(ございました。わたしのおかあさまにかぎってそんなことをなさるはずがない・・・といくたび)

御座いました。私のお母様に限ってそんな事をなさるはずがない・・・と幾たび

(おもいなおそうとしましても、わたしのめはなだちがなかむらさんぎょくさまのぶたいすがたににているという)

思い直そうとしましても、私の眼鼻立ちが中村珊玉様の舞台姿に似ているという

(じじつばかりは、どうにもいたしようがないのでした。そればかりではござい)

事実ばかりは、どうにも致しようがないのでした。そればかりでは御座い

(ません。わたしがとうきょうにいこうとけっしんいたしましたにつきましても、わたしじしんにも)

ません。私が東京に行こうと決心致しましたに就きましても、私自身にも

(わかりませぬ、もっともっとふしぎなわけがあるのでございました。わたしは)

わかりませぬ、もっともっと不思議なわけがあるので御座いました。私は

(そんなふうにしてなかされているにはおりましたものの、それでもまいばんおしまいゆに)

そんな風にして泣かされているにはおりましたものの、それでも毎晩お終い湯に

(はいりましておそうじをすましたあとで、おゆどののすがたみをのぞいて)

這入りましてお掃除を済ましたあとで、お湯殿の姿見鏡(すがたみ)をのぞいて

(みないことはございませんでしたが、そのうちに、いつからともなくきみょうなことに)

見ない事は御座いませんでしたが、そのうちに、いつからともなく奇妙な事に

(きがつきはじめました。それはわたしのおもいなしか、それともそのひそのひのきもち)

気がつきはじめました。それは私の思いなしか、それともその日その日の気もち

(からきたこともございましたでしょうか。そんなふうにしてしばちゅうさんのおうちじゅうが)

から来た事も御座いましたでしょうか。そんな風にして柴忠さんのお家中が

(ねしずまられたあとに、たったひとりでおゆどののかがみにむかいあっておりますと、)

寝静まられたあとに、たった一人でお湯殿の鏡に向い合っておりますと、

(そのなかにうつっておりますわたしのかおが、だんだんとあなたのおとうさまににてまいります)

その中に映っております私の顔が、だんだんと貴方のお父様に似て参ります

(ばかりでなく、あのくしだじんじゃのえまどうのがくになっておりますいぬづかしののかおと、)

ばかりでなく、あの櫛田神社の絵馬堂の額になっております犬塚信乃の顔と、

(あこやのかおとふたつのうち、どちらかひとつににてきますので、それがまた、)

阿古屋の顔と二つのうち、どちらか一つに似て来ますので、それが又、

(ひによりましてきのうはしののかお・・・こんやはあこやのかおというふうに、まるで)

日によりまして昨日は信乃の顔・・・今夜は阿古屋の顔という風に、まるで

(かんじがちがっていることにきがついたのでございました。それはなんとももうしようの)

感じが違っている事に気がついたので御座いました。それは何とも申しようの

(ない・・・ただわたしひとりだけしかきづいておりませぬふしぎなできごとでわたしは)

ない・・・ただ私一人だけしか気づいておりませぬ不思議な出来事で私は

(まいばんまいばんそれをみるのが、いうにいわれぬひとつのひみつのたのしみにさえなって)

毎晩毎晩それを見るのが、云うに云われぬ一つの秘密の楽しみにさえなって

(きたのでございました。なんだかぞんじませぬがそうしたことが、みじめにもみじかい)

来たので御座いました。何だか存じませぬがそうした事が、みじめにも短い

(いっしょうをおおくりになったおかあさまの、にんげんのせかいにたいするふくしゅうではないかとさえ)

一生をお送りになったお母様の、人間の世界に対する復讐ではないかとさえ

(おもわれてきまして、われとじぶんのやわらかい、あたたかいほおをおさえながら)

思われて来まして、われと自分のやわらかい、あたたかい頬を押えながら

(ぞーっといたしますことがよくありました。)

ゾーッと致します事がよくありました。

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