夢野久作 卵 ①/②

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(さんたろうくんはべんきょうにあきてうらにわにでました。)

三太郎君は勉強に飽きて裏庭に出ました。

(そらにはいちめんにしろいうろこぐもがただようて、あわいひがあたたかくてっておりました。)

空には一面に白い鱗雲が漂うて、淡い日があたたかく照っておりました。

(そのしたにたちならぶこうがいのいえいえは、ひとのけはいもないくらいひっそりとして、)

その下に立ち並ぶ郊外の家々は、人の気配もないくらいヒッソリとして、

(おとなりとのじざかいにいっぱいにさいたこすもすまでも、はなびらひとつうごかさずに、)

お隣りとの地境に一パイに咲いたコスモスまでも、花ビラ一つ動かさずに、

(あわいそらのひかりをいろんなほうこうにはんしゃしておりました。)

淡い空の光りをいろんな方向に反射しておりました。

(そのはなのかげのくろいじめじめしたつちのうえにあかんぼうのあたまぐらいのしろいまるいものが)

その花の蔭の黒いジメジメした土の上に赤ん坊の頭ぐらいの白い丸いものが

(みえます。「おや・・・なんだろう」とさんたろうくんはふしぎにおもいおもいちかよって)

見えます。「オヤ・・・何だろう」と三太郎君は不思議に思い思い近寄って

(みますと、それはひとつのおおきなたまごで、なましろいからがだいりせきのようなこうたくをおびて)

見ますと、それは一つの大きな卵で、生白い殻が大理石のような光沢を帯びて

(おりました。そのよこのじめんにたけぎれかなにかでじをかいて、たまごといっしょに)

おりました。その横の地面に竹片(たけぎれ)か何かで字を書いて、卵と一所に

(りんけいのきょくせんでつつんでありました。)

輪形の曲線で包んでありました。

(・・・さんたろうさまへ・・・つゆこより。)

・・・三太郎様へ・・・露子より。

(さんたろうくんははっとしてあわてながらそのもじをげたでふみけしました。そうして)

三太郎君はハッとして慌てながらその文字を下駄で踏み消しました。そうして

(こすもすのはなごしに、そらじつづきになっているうらどなりのにかいをあおぎました。)

コスモスの花越しに、空地続きになっている裏隣りの二階をあおぎました。

(そのにかいはかいかといっしょにあまどがしまっていて「かしや」とかいたあたらしいはんしが)

その二階は階下と一所に雨戸が閉まっていて「貸家」と書いた新しい半紙が

(ななめにはってありました。つゆこさんのいえは、ゆうべさんたろうくんがねむっている)

斜めに貼ってありました。露子さんの家は、ゆうべ三太郎君が眠っている

(うちに、どこかへひっこしてしまったらしいのです。)

うちに、どこかへ引っ越してしまったらしいのです。

(つゆこさんとさんたろうくんがはじめてかおをみあったのは、ことしのはるのはじめでした。)

露子さんと三太郎君が初めて顔を見合ったのは、今年の春の初めでした。

(それはつゆこさんのいっかがひきうつってきてからまもないあるひのことでしたが、)

それは露子さんの一家が引き移って来てから間もない或る日の事でしたが、

(そのときには、いまかしやふだをはってあるあたりのにかいのしょうじをなにげなくひらいて、)

その時には、今貸家札を貼ってあるあたりの二階の障子を何気なく開いて、

(らんかんからこちらのにわをみおろしたつゆこさんのしせんと、ざしきのしょうじをいっぱいに)

欄干からこちらの庭を見下した露子さんの視線と、座敷の障子を一パイに

など

(ひらいたままべんきょうしていたさんたろうくんのしせんとが、ほんのいちびょうのなんぶんのいちかのうちに)

開いたまま勉強していた三太郎君の視線とが、ホンの一秒の何分の一かのうちに

(ちょっとためらいながらすれちがっただけでした。つゆこさんは、そのまま)

チョットためらいながらスレ違っただけでした。露子さんは、そのまま

(ひややかなたいどでめをふせてしょうじをしめながらひっこんでいきましたし、あとを)

冷やかな態度で眼を伏せて障子を閉めながら引っこんで行きましたし、あとを

(みおくったさんたろうくんもしずかにたちあがってしょうじをたてきってしまったのです。)

見送った三太郎君も静かに立ち上って障子を立て切ってしまったのです。

(それからのち、きのうまですうかげつのあいだ、つゆこさんとさんたろうくんはまいにちのようにかおを)

それから後、きのうまで数箇月の間、露子さんと三太郎君は毎日のように顔を

(あわせておりました。おたがいにこいをかんじていることを、よくしりあって)

合わせておりました。お互いに恋を感じていることを、よく知り合って

(いながら、おたがいにわざとよそよそしくしていることをどうじにかんじながら・・・)

いながら、お互いにわざとヨソヨソしくしている事を同時に感じながら・・・

(うっかりしせんでもあうと、あわててめをそらして、にげるようにうちのなかへ)

ウッカリ視線でも合うと、慌てて眼を逸らして、逃げるように家の中へ

(ひっこんでしまうのでした。ふたりはこうしてかおをあわせるたんびにおたがいの)

引っ込んでしまうのでした。二人はこうして顔を合わせるたんびにお互いの

(たいどをまねるのでした。そうしてとうとうにっこりしあうきかいがいちどもない)

態度を真似るのでした。そうしてトウトウニッコリし合う機会が一度もない

(うちに、わかれなくてはならなくなったらしいのです。)

うちに、別れなくてはならなくなったらしいのです。

(ふたりはなんというおろかなふたりだったでしょう。)

二人は何という愚かな二人だったでしょう。

(なぜあんなにかたくるしくまじめなたいどをとったのでしょう。)

なぜあんなに堅苦しく真面目な態度を取ったのでしょう。

(なぜあんなに、おたがいのこいをけいかいしあったのでしょうか。)

なぜあんなに、お互いの恋を警戒し合ったのでしょうか。

(・・・さんたろうくんはそのげんいんをしっていました。)

・・・三太郎君はその原因を知っていました。

(・・・ほんとうのことをいいますと、あのつゆこさんのかおをはじめてみたばんに、)

・・・ホントウの事を云いますと、あの露子さんの顔を初めて見た晩に、

(さんたろうくんのたましいは、よくねむっているさんたろうくんのからだをそーっと)

三太郎君の魂は、よく眠っている三太郎君の肉体(からだ)をソーッと

(ぬけだしていったのです。そうしてちょうどいまさんたろうくんがつったっている)

脱け出して行ったのです。そうしてちょうど今三太郎君が突立っている

(くろいつちのうえで、まちかねていたつゆこさんとしのびあったのです。そうして、)

黒い土の上で、待ちかねていた露子さんと忍び合ったのです。そうして、

(それからのちさんたろうくんのたましいはまいばんのように、おなじところでつゆこさんとであって、)

それから後三太郎君の魂は毎晩のように、同じところで露子さんと出会って、

(ささやきあい、なきあい、わらいあったのです。)

囁き合い、泣き合い、笑い合ったのです。

(もっともさいしょのうちはさんたろうくんも、それをじぶんひとりのげんそうだとおもって、ひとりで)

もっとも最初のうちは三太郎君も、それを自分一人の幻想だと思って、独りで

(はじていたのです。つゆこさんのうしろすがたや、きもののへんえいをみただけでも、)

恥じていたのです。露子さんのうしろ姿や、着物の片影を見ただけでも、

(すまない、はずかしい、そらおそろしい・・・というようなきもちにとらわれて、)

済まない、恥かしい、空おそろしい・・・というような気持ちに囚われて、

(われしらずがんめんのきんにくをきんちょうさせたものです。)

吾れ知らず顔面の筋肉を緊張させたものです。

(ところがそのうちにつゆこさんもやはり、さんたろうくんとおなじきもちでこちらを)

ところがそのうちに露子さんも矢張り、三太郎君と同じ気持ちでこちらを

(みていることがわかってきたのでした。つゆこさんがさんたろうくんとかおをみかわす)

見ていることがわかって来たのでした。露子さんが三太郎君と顔を見交す

(たんびにみせるなんともいえない、つめたいきんちょうしたひょうじょうが、そうしたつゆこさんの)

たんびに見せる何ともいえない、つめたい緊張した表情が、そうした露子さんの

(こころのそこのひみつをありのままにものがたっているのでした。さんたろうくんのげんそうがけっして)

心の底の秘密をありのままに物語っているのでした。三太郎君の幻想が決して

(さんたろうくんひとりのきのまよいではない。うたがいもなくふたりのたましいがそっくりそのまま)

三太郎君一人の気の迷いではない。疑いもなく二人の魂がソックリそのまま

(にくたいをぬけだして、まいよまいよここであいびきをしてたのしんでいるのだ・・・)

肉体を脱け出して、毎夜毎夜ここで逢引をして楽しんでいるのだ・・・

(ということがしだいにはっきりとさんたろうくんにいしきされてきたのです。そうして、)

という事が次第にハッキリと三太郎君に意識されて来たのです。そうして、

(それとどうじに、ふたりがこうしてげんじつのこいをこいしえないで、たましいだけでしのびあって)

それと同時に、二人がこうして現実の恋を恋し得ないで、魂だけで忍び合って

(まんぞくをしているのは、けっしてこいをおそれているのではない。げんじつのこいからひつぜんてきに)

満足をしているのは、決して恋を恐れているのではない。現実の恋から必然的に

(うまれる「あるけっか」をおそれあっているからだ・・・ということまでも、)

生まれる「ある結果」を恐れ合っているからだ・・・という事までも、

(すきとおるほどはっきりとさんたろうくんにりかいされてきたのでした。)

透きとおるほどハッキリと三太郎君に理解されて来たのでした。

(ふたりがひるまのうちにみあわせるめつきは、こうしていよいよひややかになって)

二人が昼間のうちに見合わせる眼付きは、こうしていよいよ冷やかになって

(いくばかりでした。そのかわりにふたりのこころは、ひがくれるのをまちかねて)

行くばかりでした。そのかわりに二人の心は、日が暮れるのを待ちかねて

(このじざかいのくろいつちのうえでおうせをたのしみあうのでした。)

この地境の黒い土の上で逢瀬を楽しみ合うのでした。

(そのうちになつがすぎると、そのくろいつちのうえに、だれがたねをまいたとも)

そのうちに夏が過ぎると、その黒い土の上に、誰が種子(たね)を蒔いたとも

(なく、こすもすがたかやかにおいしげりました。そうしてあきにはいってから、)

なく、コスモスが高やかに生い茂りました。そうして秋に入ってから、

(まぶしいほどうつくしくまんかいしたとおもうまもなくきょうになって、このできごとが)

まぶしいほど美しく満開したと思う間もなく今日になって、この出来事が

(おこったのです。)

起ったのです。

(さんたろうくんはきみょうな、うっとりとしたきもちになって、そのおおきなたまごを)

三太郎君は奇妙な、恍惚(うっとり)とした気持ちになって、その大きな卵を

(そっとだきあげてみました。それはよくみるとあおいような、きいろいような、)

ソット抱き上げてみました。それはよく見ると青いような、黄色いような、

(はんとうめいなからのなかにとろとろしたえきたいをいっぱいにじゅうじつさしているらしいみずぐらいの)

半透明な殻の中にトロトロした液体を一パイに充実さしているらしい水ぐらいの

(おもたさのものでした。そのたいようにむかっているはんめんはあたたかくなっていました。)

重たさのものでした。その太陽に向っている半面は暖かくなっていました。

(さんたろうくんは、それからまいばんそのたまごをだいてねました。)

三太郎君は、それから毎晩その卵を抱いて寝ました。

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