「こころ」1-36 夏目漱石
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問題文
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(わたくしのあにはあるしょくをおびてとおいきゅうしゅうにいた。)
私の兄はある職を帯びて遠い九州にいた。
(これはまんいちのことがあるばあいでなければ、よういにちちははのかおをみる)
これは万一の事がある場合でなければ、容易に父母の顔を見る
(じゆうのきかないおとこであった。)
自由の利かない男であった。
(いもうとはたこくへとついだ。これもきゅうばのまにあうように、おいそれと)
妹は他国へ嫁いだ。これも急場の間に合うように、おいそれと
(よびよせられるおんなではなかった。)
呼び寄せられる女ではなかった。
(きょうだいさんにんのうちで、いちばんべんりなのはやはりしょせいをしているわたくしだけであった。)
兄妹三人のうちで、一番便利なのはやはり書生をしている私だけであった。
(そのわたくしがははのいいつけどおりがっこうのかぎょうをほうりだして、)
その私が母のいい付け通り学校の課業を放り出して、
(やすみまえにかえってきたということが、ちちにはおおきなまんぞくであった。)
休み前に帰って来たという事が、父には大きな満足であった。
(「これしきのびょうきにがっこうをやすませてはきのどくだ。)
「これしきの病気に学校を休ませては気の毒だ。
(おかあさんがあまりぎょうさんなてがみをかくものだからいけない」)
お母さんがあまり仰山な手紙を書くものだからいけない」
(ちちはくちではこういった。こういったばかりでなく、いままでしいていたとこを)
父は口ではこういった。こういったばかりでなく、今まで敷いていた床を
(あげさせて、いつものようなげんきをしめした。)
上げさせて、いつものような元気を示した。
(「あんまりかるはずみをしてまたぶりかえすといけませんよ」)
「あんまり軽はずみをしてまた逆回すといけませんよ」
(わたくしのこのちゅういをちちはゆかいそうにしかしきわめてかるくうけた。)
私のこの注意を父は愉快そうにしかし極めて軽く受けた。
(「なにだいじょうぶ、これでいつものようにようじんさえしていれば」)
「なに大丈夫、これでいつものように要心さえしていれば」
(じっさいちちはだいじょうぶらしかった。いえのなかをじゆうにおうらいして、)
実際父は大丈夫らしかった。家の中を自由に往来して、
(いきもきれなければ、めまいもかんじなかった。)
息も切れなければ、眩暈も感じなかった。
(ただかおいろだけはふつうのひとよりもたいへんわるかったが、)
ただ顔色だけは普通の人よりも大変悪かったが、
(これはまたいまはじまったしょうじょうでもないので、わたくしたちはかくべつそれを)
これはまた今始まった症状でもないので、私たちは格別それを
(きにとめなかった。)
気に留めなかった。
など
(わたくしはせんせいにてがみをかいておんしゃくのれいをのべた。)
私は先生に手紙を書いて恩借の礼を述べた。
(しょうがつじょうきょうするときにじさんするからそれまでまってくれるようにとことわった。)
正月上京する時に持参するからそれまで待ってくれるようにと断った。
(そうしてちちのしょうじょうのおもったほどけんあくでないこと、このぶんならとうぶんあんしんなこと、)
そうして父の症状の思ったほど険悪でない事、この分なら当分安心な事、
(めまいもはきけもかいむなことなどをかきつらねた。)
眩暈も嘔気も皆無な事などを書き連ねた。
(さいごにせんせいのかぜについてもいちごんのみまいをつけくわえた。)
最後に先生の風邪についても一言の見舞を附け加えた。
(わたくしはせんせいのかぜをじっさいかるくみていたので。)
私は先生の風邪を実際軽く見ていたので。
(わたくしはそのてがみをだすときにけっしてせんせいのへんじをよきしていなかった。)
私はその手紙を出す時に決して先生の返事を予期していなかった。
(だしたあとでちちやははとせんせいのうわさなどをしながら、はるかにせんせいのしょさいをそうぞうした。)
出した後で父や母と先生の噂などをしながら、遥かに先生の書斎を想像した。
(「こんどとうきょうへいくときにはしいたけでももっていっておあげ」)
「こんど東京へ行くときには椎茸でも持って行ってお上げ」
(「ええ、しかしせんせいがほしたしいたけなぞをくうかしら」)
「ええ、しかし先生が干した椎茸なぞを食うかしら」
(「うまくはないが、べつにきらいなひともないだろう」)
「旨くはないが、別に嫌いな人もないだろう」
(わたくしにはしいたけとせんせいをむすびつけてかんがえるのがへんであった。)
私には椎茸と先生を結び付けて考えるのが変であった。