有島武郎 或る女79

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(あるてんきのいいごごーーそれはうめのつぼみがもうすこしずつふくらみ)

ある天気のいい午後ーーそれは梅のつぼみがもう少しずつふくらみ

(かかったごごのことだったがーーようこがえんがわにくらちのかたにてをかけて)

かかった午後の事だったがーー葉子が縁側に倉地の肩に手をかけて

(たちならびながら、うっとりとじょうきしてすずめのまじわるのをみていたとき、)

立ち並びながら、うっとりと上気して雀の交わるのを見ていた時、

(げんかんにおとずれたひとのけはいがした。「だれでしょう」くらちはものうさそうに、)

玄関に訪れた人の気配がした。「だれでしょう」倉地は物惰さそうに、

(「おかだろう」といった。「いいえきっとまさいさんよ」「なあにおかだ」)

「岡だろう」といった。「いいえきっと正井さんよ」「なあに岡だ」

(「じゃかけよ」ようこはまるでしょうじょのようにあまったれたくちょうでいって)

「じゃ賭けよ」葉子はまるで少女のように甘ったれた口調でいって

(げんかんにでてみた。くらちがいったようにおかだった。ようこはあいさつもろくろく)

玄関に出て見た。倉地がいったように岡だった。葉子は挨拶もろくろく

(しないでいきなりおかのてをしっかりととった。そしてちいさなこえで、)

しないでいきなり岡の手をしっかりと取った。そして小さな声で、

(「よくいらしってね。そのあいぎのよくおにあいになること。はるらしい)

「よくいらしってね。その間着のよくお似合いになる事。春らしい

(いいいろじですわ。いまくらちとかけをしていたところ。はやくおあがりあそばせ」)

いい色地ですわ。今倉地と賭けをしていた所。早くお上がり遊ばせ」

(ようこはくらちにしていたようにおかのやさがたにてをまわしてならびながらざしきに)

葉子は倉地にしていたように岡のやさ肩に手を回して並びながら座敷に

(はいってきた。「やはりあなたのかちよ。あなたはあてごとがおじょうずだから)

はいって来た。「やはりあなたの勝ちよ。あなたはあて事がお上手だから

(おかさんをゆずってあげたらうまくあたったわ。いまごほうびをあげるから)

岡さんを譲って上げたらうまくあたったわ。今御褒美を上げるから

(そこでみていらっしゃいよ」そうくらちにいうかとおもうと、いきなりおかを)

そこで見ていらっしゃいよ」そう倉地にいうかと思うと、いきなり岡を

(だきすくめてそのほおにつよいせっぷんをあたえた。おかはしょうじょのようにはじらって)

抱きすくめてその頬に強い接吻を与えた。岡は少女のように恥じらって

(しいてようこからはなれようともがいた。くらちはれいのしぶいようにくちもとを)

しいて葉子から離れようともがいた。倉地は例の渋いように口もとを

(ねじってほほえみながら、「ばか!・・・このごろこのおんなはすこしどうか)

ねじってほほえみながら、「ばか! ・・・このごろこの女は少しどうか

(しとりますよ。おかさん、あなたひとつせなかでもどやしてやってください。)

しとりますよ。岡さん、あなた一つ背中でもどやしてやってください。

(・・・まだべんきょうか」といいながらようこにてんじょうをゆびさしてみせた。ようこは)

・・・まだ勉強か」といいながら葉子に天井を指さして見せた。葉子は

(おかにせなかをむけて「さあどやしてちょうだい」といいながら、こんどは)

岡に背中を向けて「さあどやしてちょうだい」といいながら、今度は

など

(てんじょうをむいて、「あいさん、さあちゃん、おかさんがいらしってよ。)

天井を向いて、「愛さん、貞(さあ)ちゃん、岡さんがいらしってよ。

(おべんきょうがすんだらはやくおりておいで」とすんだうつくしいこえではすはにさけんだ。)

お勉強が済んだら早くおりておいで」と澄んだ美しい声で蓮葉に叫んだ。

(「そうお」というこえがしてすぐさだよがとんでおりてきた。「さあちゃんはいま)

「そうお」という声がしてすぐ貞世が飛んでおりて来た。「貞ちゃんは今

(べんきょうがすんだのか」とくらちがきくとさだよはへいきなかおで、「ええいますんでよ」)

勉強が済んだのか」と倉地が聞くと貞世は平気な顔で、「ええ今済んでよ」

(といった。そこにはすぐはなやかなわらいがはれつした。あいこはなかなかしたに)

といった。そこにはすぐはなやかな笑いが破裂した。愛子はなかなか下に

(おりてこようとはしなかった。それでもさんにんはしたしくちゃぶだいをかこんで)

降りて来ようとはしなかった。それでも三人は親しくちゃぶ台を囲んで

(ちゃをのんだ。そのひおかはとくべつになにかいいだしたそうにしているようすだったが。)

茶を飲んだ。その日岡は特別に何かいい出したそうにしている様子だったが。

(やがて、「きょうはわたしすこしおねがいがあるんですがみなさまきいてくださる)

やがて、「きょうはわたし少しお願いがあるんですが皆様きいてくださる

(でしょうか」おもくるしくいいだした。「ええええあなたのおっしゃることなら)

でしょうか」重苦しくいい出した。「ええ ええあなたのおっしゃる事なら

(なんでも・・・ねえさあちゃん(とここまではじょうだんらしくいったがきゅうに)

なんでも・・・ねえ貞ちゃん(とここまでは冗談らしくいったが急に

(まじめになって)・・・なんでもおっしゃってくださいましな、そんな)

まじめになって)・・・なんでもおっしゃってくださいましな、そんな

(たにんぎょうぎをしてくださるとへんですわ」とようこがいった。「くらちさんもいて)

他人行儀をしてくださると変ですわ」と葉子がいった。「倉地さんもいて

(くださるのでかえっていいよいとおもいますがことうさんをここにおつれしちゃ)

くださるのでかえっていいよいと思いますが古藤さんをここにお連れしちゃ

(いけないでしょうか。・・・きむらさんからことうさんのことはまえから)

いけないでしょうか。・・・木村さんから古藤さんの事は前から

(うかがっていたんですが、わたしははじめてのおかたにおあいするのがなんだか)

伺っていたんですが、わたしは初めてのお方にお会いするのがなんだか

(おっくうなたちなものでふたつまえのにちようびまでとうとうおてがみもあげないで)

億劫な質(たち)なもので二つ前の日曜日までとうとうお手紙も上げないで

(いたら、そのひとつぜんことうさんのほうからたずねてきてくださったんです。)

いたら、その日突然古藤さんのほうから尋ねて来てくださったんです。

(ことうさんもいちどおたずねしなければいけないんだがといっていなさいました。)

古藤さんも一度お尋ねしなければいけないんだがといっていなさいました。

(でわたし、きょうはすいようだから、ようべんがいしゅつのひだから、これからむかえに)

でわたし、きょうは水曜だから、用便外出の日だから、これから迎えに

(いってきたいとおもうんです。いけないでしょうか」ようこはくらちだけにかおが)

行って来たいと思うんです。いけないでしょうか」葉子は倉地だけに顔が

(みえるようにむきなおって「じぶんにまかせろ」というめつきをしながら、)

見えるように向き直って「自分に任せろ」という目つきをしながら、

(「いいわね」とねんをおした。くらちはひみつをつたえるひとのようにかおいろだけで)

「いいわね」と念を押した。倉地は秘密を伝える人のように顔色だけで

(「よし」とこたえた。ようこはくるりとおかのほうにむきなおった。「ようございます)

「よし」と答えた。葉子はくるりと岡のほうに向き直った。「ようございます

(とも(ようこはその「よう」にあくせんとをつけた)あなたにおむかいにいって)

とも(葉子はその『よう』にアクセントを付けた)あなたにお迎いに行って

(いただいてはほんとにすみませんけれども、そうしてくださるとほんとうに)

いただいてはほんとにすみませんけれども、そうしてくださるとほんとうに

(けっこう。さあちゃんもいいでしょう。またもうひとりおともだちがふえて・・・)

結構。貞ちゃんもいいでしょう。またもう一人お友だちがふえて・・・

(しかもめずらしいへいたいさんのおともだち・・・」「あいねえさんがおかさんに)

しかも珍しい兵隊さんのお友だち・・・」「愛ねえさんが岡さんに

(つれていらっしゃいってこのあいだそういったのよ」とさだよはえんりょなくいった。)

連れていらっしゃいってこの間そういったのよ」と貞世は遠慮なくいった。

(「そうそうあいこさんもそうおっしゃってでしたね」とおかはどこまでもじょうひんな)

「そうそう愛子さんもそうおっしゃってでしたね」と岡はどこまでも上品な

(ていねいなことばでことのついでのようにいった。)

丁寧な言葉で事のついでのようにいった。

(おかがいえをでるとしばらくしてくらちもざをたった。「いいでしょう。うまく)

岡が家を出るとしばらくして倉地も座を立った。「いいでしょう。うまく

(やってみせるわ。かえってでいりさせるほうがいいわ」げんかんにおくりだして)

やって見せるわ。かえって出入りさせるほうがいいわ」玄関に送り出して

(そうようこはいった。「どうかなあいつ、ことうのやつはすこしほねばりすぎてる)

そう葉子はいった。「どうかなあいつ、古藤のやつは少し骨張り過ぎてる

(・・・がわるかったらもともとだ・・・とにかくきょうおれのいないほうが)

・・・が悪かったら元々だ・・・とにかくきょうおれのいないほうが

(よかろう」そういってくらちはでていった。)

よかろう」そういって倉地は出て行った。

(ようこははりだしになっているろくじょうのへやをきれいにかたづけて、ひばちのなかに)

葉子は張り出しになっている六畳の部屋をきれいに片づけて、火鉢の中に

(こうをたきこめて、こころしずかにもくろみをめぐらしながらことうがくるのをまった。)

香をたきこめて、心静かに目論見をめぐらしながら古藤が来るのを待った。

(しばらくあわないうちにことうはだいぶてごわくなっているようにもおもえた。)

しばらく会わないうちに古藤はだいぶ手ごわくなっているようにも思えた。

(そこをじぶんのさいりょくでまるめるのがときにとってのきょうみのようにもおもえた。)

そこを自分の才力で丸めるのが時に取っての興味のようにも思えた。

(もしことうをなんかすれば、きむらとのかんけいはいまよりもつなぎがよくなる・・・。)

もし古藤を軟化すれば、木村との関係は今よりもつなぎがよくなる・・・。

(さんじゅっぷんほどたったころひとつぎのへいえいからことうはおかにともなわれてやってきた。)

三十分ほどたったころ一つ木の兵営から古藤は岡に伴われてやって来た。

(ようこはろくじょうにいて、さだよをとりつぎにだした。「さだよさんだね。おおきく)

葉子は六畳にいて、貞世を取り次ぎに出した。「貞世さんだね。大きく

(なったね」まるでまえのことうのこえとはおもわれぬようなおとなびた)

なったね」まるで前の古藤の声とは思われぬようなおとなびた

(くろずんだこえがして、がちゃがちゃとはいけんをとるらしいおともきこえた。)

黒ずんだ声がして、がちゃがちゃと佩剣を取るらしい音も聞こえた。

(やがておかのさきにたってかっこうのわるいきたないくろのぐんぷくをきたことうが、)

やがて岡の先に立って格好の悪いきたない黒の軍服を着た古藤が、

(かわるいのくさったようなにおいをぷんぷんさせながらようこのいるところに)

皮類の腐ったような香いをぷんぷんさせながら葉子のいる所に

(はいってきた。ようこはたいなくこういをこめためつきで、しょうじょのように)

はいって来た。葉子は他意なく好意をこめた目つきで、少女のように

(はれやかにおどろきながらことうをみた。「まあこれがことうさん?なんて)

晴れやかに驚きながら古藤を見た。「まあこれが古藤さん? なんて

(こわいかたになっておしまいなすったんでしょう。もとのことうさんはおひたいの)

こわい方になっておしまいなすったんでしょう。元の古藤さんはお額の

(おしろいところだけにしかのこっちゃいませんわ。がみがみとしかったりなすっちゃ)

お白い所だけにしか残っちゃいませんわ。がみがみと叱ったりなすっちゃ

(いやですことよ。ほんとうにしばらく。もうこんりんざいきてはくださらないものと)

いやです事よ。ほんとうにしばらく。もう金輪際来てはくださらないものと

(あきらめていましたのに、よく・・・よくいらしってくださいました。)

あきらめていましたのに、よく・・・よくいらしってくださいました。

(おかさんのおてがらですわ・・・ありがとうございました」といってようこは)

岡さんのお手柄ですわ・・・ありがとうございました」といって葉子は

(そこにならんですわったふたりのせいねんをかたみがわりにみやりながら)

そこに並んですわった二人の青年をかたみがわりに見やりながら

(かるくあいさつした。「さぞおつらいでしょうねえ。おゆは?おめしに)

軽く挨拶した。「さぞおつらいでしょうねえ。お湯は? お召しに

(ならない?ちょうどわいていますわ」「だいぶくさくっておきのどくですが、)

ならない? ちょうど沸いていますわ」「だいぶ臭くってお気の毒ですが、

(いちどやにどゆにつかったってなおりはしませんから・・・まあ)

一度や二度湯につかったってなおりはしませんから・・・まあ

(はいりません」ことうははいってきたときのしかつめらしいようすにひきかえて)

はいりません」古藤ははいって来た時のしかつめらしい様子に引きかえて

(かおいろをやわらがせられていた。ようこはこころのなかであいかわらずのsimpletonだ)

顔色を軟らがせられていた。葉子は心の中で相変らずのsimpletonだ

(とおもった。「そうねえなんじまでもんげんは?・・・え、ろくじ?それじゃ)

と思った。「そうねえ何時まで門限は? ・・・え、六時? それじゃ

(もういくらもありませんわね。じゃあおゆはよしていただいて)

もういくらもありませんわね。じゃあお湯はよしていただいて

(おはなしのほうをたんとしましょうねえ。いかがぐんたいせいかつは、おきにいって?」)

お話のほうをたんとしましょうねえ。いかが軍隊生活は、お気に入って?」

(「はいらなかったまえいじょうにきらいになりました」「おかさんはどうなさったの」)

「はいらなかった前以上にきらいになりました」「岡さんはどうなさったの」

(「わたしまだゆうよちゅうですがけんさをうけたってきっとだめです。)

「わたしまだ猶予中ですが検査を受けたってきっとだめです。

(ふごうかくのようなけんこうをもつと、わたしぐんたいせいかつのできるようなひとが)

不合格のような健康を持つと、わたし軍隊生活のできるような人が

(うらやましくってなりません。・・・からだでもつよくなったらわたし、)

うらやましくってなりません。・・・からだでも強くなったらわたし、

(もうすこしこころもつよくなるんでしょうけれども・・・」「そんなことは)

もう少し心も強くなるんでしょうけれども・・・」「そんな事は

(ありませんねえ」ことうはじぶんのけいけんからおかをせっぷくするようにそういった。)

ありませんねえ」古藤は自分の経験から岡を説伏するようにそういった。

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