有島武郎 或る女81
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問題文
(じっさいそのあとにはふしぎなほどしめやかなちんもくがつづいた。たきこめたこうの)
実際そのあとには不思議なほどしめやかな沈黙が続いた。たき込めた香の
(においがかすかにうごくだけだった。「あんなにけんそんなおかくんも(おかはあわてて)
においがかすかに動くだけだった。「あんなに謙遜な岡君も(岡はあわてて
(そのさんじらしいことばをうちけそうとしそうにしたが、ことうがどんどんことばを)
その賛辞らしい言葉を打ち消そうとしそうにしたが、古藤がどんどん言葉を
(つづけるのでそのままかおをあかくしてだまってしまった)あなたときむらとが)
続けるのでそのまま顔を赤くして黙ってしまった)あなたと木村とが
(どうしてもおりあわないことだけはすくなくともみとめているんです。そうでしょう」)
どうしても折り合わない事だけは少なくとも認めているんです。そうでしょう」
(ようこはうつくしいちんもくをがさつなてでかきみだされたふかいをかすかにものたらなく)
葉子は美しい沈黙をがさつな手でかき乱された不快をかすかに物足らなく
(おもうらしいひょうじょうをして、「それはようこうするまえ、いつぞやよこはまにいっしょに)
思うらしい表情をして、「それは洋行する前、いつぞや横浜に一緒に
(いっていただいたときくわしくおはなししたじゃありませんか。それはわたし)
行っていただいた時くわしくお話ししたじゃありませんか。それはわたし
(どなたにでももうしあげていたことですわ」「そんならなぜ・・・そのときは)
どなたにでも申上げていた事ですわ」「そんならなぜ・・・その時は
(きむらのほかにはほごしゃはいなかったから、あなたとしてはおいもうとさんたちを)
木村のほかには保護者はいなかったから、あなたとしてはお妹さんたちを
(そだてていくうえにもじぶんをぎせいにしてきむらにいくきでおいでだったかも)
育てて行く上にも自分を犠牲にして木村に行く気でおいでだったかも
(しれませんがなぜ・・・なぜいまになってもきむらとのかんけいをそのままに)
しれませんがなぜ・・・なぜ今になっても木村との関係をそのままに
(しておくひつようがあるんです」おかははげしいことばでじぶんがせめられるかのように)
しておく必要があるんです」岡は激しい言葉で自分が責められるかのように
(はらはらしながらくびをさげたり、ようことことうのかおとをかたみがわりに)
はらはらしながら首を下げたり、葉子と古藤の顔とをかたみがわりに
(みやったりしていたが、とうとういたたまれなくなったとみえて、しずかに)
見やったりしていたが、とうとう居たたまれなくなったと見えて、静かに
(ざをたってひとのいないにかいのほうにいってしまった。ようこはおかのこころもちを)
座を立って人のいない二階のほうに行ってしまった。葉子は岡の心持ちを
(おもいやってひきとめなかったし、ことうは、いてもらったところがなんのやくにも)
思いやって引き止めなかったし、古藤は、いてもらった所がなんの役にも
(たたないとおもったらしくこれもひきとめはしなかった。さすはなもない)
立たないと思ったらしくこれも引き止めはしなかった。さす花もない
(せいどうのかびんひとつ・・・ようこはこころのなかでひにくにほほえんだ。「それよりさきに)
青銅の花びん一つ・・・葉子は心の中で皮肉にほほえんだ。「それより先に
(うかがわしてちょうだいな。くらちさんはどのくらいのていどでわたしたちを)
伺わしてちょうだいな。倉地さんはどのくらいの程度でわたしたちを
(ほごしていらっしゃるかごぞんじ?」ことうはすぐぐっとつまってしまった。)
保護していらっしゃるか御存じ?」古藤はすぐぐっと詰まってしまった。
(しかしすぐにもりかえしてきた。「ぼくはおかくんとちがってぶるじょあのいえに)
しかしすぐに盛り返して来た。「僕は岡君と違ってブルジョアの家に
(うまれなかったものですからでりかしーというようなびとくをあまり)
生まれなかったものですからデリカシーというような美徳をあまり
(たくさんもっていないようだから、しつれいなことをいったらゆるしてください。)
たくさん持っていないようだから、失礼な事をいったら許してください。
(くらちってひとはさいしまでりえんした・・・しかもひじょうにていそうらしいおくさんまで)
倉地って人は妻子まで離縁した・・・しかも非常に貞操らしい奥さんまで
(りえんしたとしんぶんにでていました」「そうねしんぶんにはでていましたわね。)
離縁したと新聞に出ていました」「そうね新聞には出ていましたわね。
(・・・ようござんすわ、かりにそうだとしたらそれがなにかわたしとかんけいの)
・・・ようござんすわ、仮にそうだとしたらそれが何かわたしと関係の
(あることだとでもおっしゃるの」そういいながらようこはすこしきにさえたらしく、)
ある事だとでもおっしゃるの」そういいながら葉子は少し気に障えたらしく、
(すみとりをひきよせてひばちにひをつぎたした。さくらずみのひばながはげしくとんで)
炭取りを引き寄せて火鉢に火をつぎ足した。桜炭の火花が激しく飛んで
(ふたりのあいだにはじけた。「まあひどいこのすみは、みずをかけずにもってきたと)
二人の間にはじけた。「まあひどいこの炭は、水をかけずに持って来たと
(みえるのね。おんなばかりのせたいだとおもってでいりのごようききまでひとをばかに)
見えるのね。女ばかりの世帯だと思って出入りの御用聞きまで人をばかに
(するんですのよ」ようこはそういいいいまゆをひそめた。ことうはむねを)
するんですのよ」葉子はそう言い言い眉をひそめた。古藤は胸を
(つかれたようだった。「ぼくはらんぼうなもんだから・・・いいすぎがあったら)
つかれたようだった。「僕は乱暴なもんだから・・・いい過ぎがあったら
(ほんとうにゆるしてください。ぼくはじっさいいかにしんゆうだからといってきむらばかりを)
ほんとうに許してください。僕は実際いかに親友だからといって木村ばかりを
(いいようにとおもってるわけじゃないんですけれども、まったくあのきょうぐうには)
いいようにと思ってるわけじゃないんですけれども、全くあの境遇には
(どうじょうしてしまうもんだから・・・ぼくはあなたもじぶんのたちばさえはっきり)
同情してしまうもんだから・・・僕はあなたも自分の立場さえはっきり
(いってくださればあなたのたちばもりかいができるとおもうんだけれどもなあ。)
言ってくださればあなたの立場も理解ができると思うんだけれどもなあ。
(・・・ぼくはあまりちょくせんてきすぎるんでしょうか。ぼくはよのなかを)
・・・僕はあまり直線的すぎるんでしょうか。僕は世の中を
(sun-clearにみたいとおもいますよ。できないもんでしょうか」)
sun-clearに見たいと思いますよ。できないもんでしょうか」
(ようこはなでるようなこういのほほえみをみせた。「あなたがわたしほんとうに)
葉子はなでるような好意のほほえみを見せた。「あなたがわたしほんとうに
(うらやましゅうござんすわ。へいわなかていにおそだちになってすなおになんでも)
羨ましゅうござんすわ。平和な家庭にお育ちになって素直になんでも
(ごらんになれるのはありがたいことなんですわ。そんなかたばかりがよのなかに)
御覧になれるのはありがたい事なんですわ。そんな方ばかりが世の中に
(いらっしゃるとめんどうがなくなってそれはいいんですけれども、)
いらっしゃるとめんどうがなくなってそれはいいんですけれども、
(おかさんなんかはそれからみるとほんとうにおきのどくなんですの。)
岡さんなんかはそれから見るとほんとうにお気の毒なんですの。
(わたしみたいなものをさえああしてたよりにしていらっしゃるのをみると)
わたしみたいなものをさえああして頼りにしていらっしゃるのを見ると
(いじらしくってきょうはくらちさんのみているまえできすしてあげっちまったの。)
いじらしくってきょうは倉地さんの見ている前でキスして上げっちまったの。
(・・・ひとごとじゃありませんわね(ようこのかおはすぐくもった)。)
・・・他人事(ひとごと)じゃありませんわね(葉子の顔はすぐ曇った)。
(あなたとどうようはきはきしたことのすきなわたしがこんなにいじをこじらしたり、)
あなたと同様はきはきした事の好きなわたしがこんなに意地をこじらしたり、
(ひとのきをかねたり、このんでごかいをかってでたりするようになってしまった、)
人の気をかねたり、好んで誤解を買って出たりするようになってしまった、
(それをかんがえてごらんになってちょうだい。あなたにはいまはおわかりに)
それを考えてごらんになってちょうだい。あなたには今はおわかりに
(ならないかもしれませんけれども・・・それにしてももうごじ。あいこには)
ならないかもしれませんけれども・・・それにしてももう五時。愛子には
(てりょうりをつくらせておきましたからひさしぶりでいもうとたちにもあってやって)
手料理を作らせておきましたから久しぶりで妹たちにも会ってやって
(くださいまし、ね、いいでしょう」ことうはきゅうにかたくなった。「ぼくは)
くださいまし、ね、いいでしょう」古藤は急に固くなった。「僕は
(かえります。ぼくはきむらにはっきりしたほうこくもできないうちに、こちらでごはんを)
帰ります。僕は木村にはっきりした報告もできないうちに、こちらで御飯を
(いただいたりするのはなんだかきがとがめます。ようこさんたのみます、きむらを)
頂いたりするのはなんだか気がとがめます。葉子さん頼みます、木村を
(すくってください。そしてあなたじしんをすくってください。ぼくはほんとうを)
救ってください。そしてあなた自身を救ってください。僕はほんとうを
(いうととおくにはなれてあなたをみているとどうしてもきらいになっちまうん)
いうと遠くに離れてあなたを見ているとどうしてもきらいになっちまうん
(ですが、こうやっておはなししているとしつれいなことをいったりじぶんでおこったり)
ですが、こうやってお話ししていると失礼な事をいったり自分で怒ったり
(しながらも、あなたはじぶんでもあざむけないようなものをもっておられるのを)
しながらも、あなたは自分でもあざむけないようなものを持っておられるのを
(かんずるようにおもうんです。きょうぐうがわるいんだきっと。ぼくはいっしょうがだいじだと)
感ずるように思うんです。境遇が悪いんだきっと。僕は一生が大事だと
(おもいますよ。らいせがあろうがかこせがあろうがこのいっしょうがだいじだと)
思いますよ。来世があろうが過去世があろうがこの一生が大事だと
(おもいますよ。いきがいがあったとおもうようにいきていきたいとおもいますよ。)
思いますよ。生き甲斐があったと思うように生きて行きたいと思いますよ。
(ころんだってたおれたってそんなことをせけんのようにかれこれくよくよせずに、)
ころんだって倒れたってそんな事を世間のようにかれこれくよくよせずに、
(ころんだらたって、たおれたらおきあがっていきたいとおもいます。ぼくはすこし)
ころんだら立って、倒れたら起き上がって行きたいと思います。僕は少し
(ひとなみはずれてばかのようだけれども、ばかものでさえがそうしていきたいと)
人並みはずれてばかのようだけれども、ばか者でさえがそうして行きたいと
(おもってるんです」ことうはめになみだをためていたましげにようこをみやった。)
思ってるんです」古藤は目に涙をためて痛ましげに葉子を見やった。
(そのときでんとうがきゅうにへやをあかるくした。「あなたはほんとうにどこか)
その時電灯が急に部屋を明るくした。「あなたはほんとうにどこか
(わるいようですね。はやくなおってください。それじゃぼくはこれできょうは)
悪いようですね。早くなおってください。それじゃ僕はこれできょうは
(ごめんをこうむります。さようなら」めじかのようにびんかんなおかさえがいっこう)
御免をこうむります。さようなら」牝鹿のように敏感な岡さえがいっこう
(ちゅういしないようこのけんこうじょうたいを、どんじゅうらしいことうがいちはやくみてとって)
注意しない葉子の健康状態を、鈍重らしい古藤がいち早く見て取って
(あんじてくれるのをみると、ようこはこのそぼくなせいねんになつかしみをかんずるの)
案じてくれるのを見ると、葉子はこの素朴な青年になつかし味を感ずるの
(だった。ようこはたっていくことうのうしろから、「あいさんさあちゃん)
だった。葉子は立って行く古藤の後ろから、「愛さん貞(さあ)ちゃん
(ことうさんがおかえりになるといけないからはやくきておとめもうしておくれ」)
古藤さんがお帰りになるといけないから早く来ておとめ申しておくれ」
(とさけんだ。げんかんにでたことうのところにだいどころぐちからさだよがとんできた。)
と叫んだ。玄関に出た古藤の所に台所口から貞世が飛んで来た。
(とんできはしたが、くらちにたいしてのようにすぐおどりかかることはえしないで、)
飛んで来はしたが、倉地に対してのようにすぐおどりかかる事は得しないで、
(くちもきかずに、すこしはずかしげにそこにたちすくんだ。そのあとから)
口もきかずに、少し恥ずかしげにそこに立ちすくんだ。そのあとから
(あいこがてぬぐいをあたまからとりながらいそぎあしであらわれた。げんかんのなげしのところに)
愛子が手ぬぐいを頭から取りながら急ぎ足で現われた。玄関のなげしの所に
(てりかえしをつけておいてあるらんぷのひかりをまともにうけたあいこのかおをみると、)
照り返しをつけて置いてあるランプの光をまともに受けた愛子の顔を見ると、
(ことうはみいられたようにそのびにうたれたらしく、もくれいもせずにそのたちすがたに)
古藤は魅入られたようにその美に打たれたらしく、目礼もせずにその立ち姿に
(ながめいった。あいこはにこりとひだりのくちじりにえくぼのでるびしょうをみせて、)
ながめ入った。愛子はにこりと左の口じりに笑窪の出る微笑を見せて、
(みぎてのゆびさきがろうかのいたにやっとさわるほどひざをおってかるくあたまをさげた。)
右手の指先が廊下の板にやっとさわるほど膝を折って軽く頭を下げた。
(あいこのかおにはしゅうちらしいものはすこしもあらわれなかった。「いけません、)
愛子の顔には羞恥らしいものは少しも現われなかった。「いけません、
(ことうさん。いもうとたちがおんがえしのつもりでいっしょうけんめいにしたんですから、)
古藤さん。妹たちが恩返しのつもりで一生懸命にしたんですから、
(おいしくはありませんが、ぜひ、ね。さあちゃんおまえさんそのぼうしと)
おいしくはありませんが、ぜひ、ね。貞ちゃんお前さんその帽子と
(けんとをもっておにげ」ようこにそういわれてさだよはすばしこくぼうしだけ)
剣とを持ってお逃げ」葉子にそういわれて貞世はすばしこく帽子だけ
(とりあげてしまった。ことうはおめおめといのこることになった。)
取り上げてしまった。古藤はおめおめと居残る事になった。
(ようこはくらちをもよびむかえさせた。)
葉子は倉地をも呼び迎えさせた。
(じゅうにじょうのざしきにはこのいえにめずらしくにぎやかなしょくたくがしつらえられた。)
十二畳の座敷にはこの家に珍しくにぎやかな食卓がしつらえられた。
(ごにんがおのおののざについてはしをとろうとするところにくらちがはいってきた。)
五人がおのおのの座について箸を取ろうとする所に倉地がはいって来た。