有島武郎 或る女89
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問題文
(はしのてまえのちいさなかけぢゃやにはしゅじんのばあさんがよしでかこったうすぐらい)
橋の手前の小さな掛け茶屋には主人の婆さんが葭(よし)で囲った薄暗い
(こべやのなかで、こそこそとみせをたたむしたくでもしているだけだった。)
小部屋の中で、こそこそと店をたたむしたくでもしているだけだった。
(はしのうえからみると、なめりがわのみずはかるくうすにごって、まだめをふかないりょうぎしの)
橋の上から見ると、滑川の水は軽く薄濁って、まだ芽を吹かない両岸の
(かれあしのねをしずかにあらいながらおともたてずにながれていた。それがむこうに)
枯れ葦の根を静かに洗いながら音も立てずに流れていた。それが向こうに
(いくとすいこまれたようにすなのもれあがったうしろにかくれて、またそのさきに)
行くと吸い込まれたように砂の盛れ上がった後ろに隠れて、またその先に
(ひかってあらわれて、おだやかなりずむをたててよせかえすうみべのなみのなかに)
光って現われて、穏やかなリズムを立てて寄せ返す海辺の波の中に
(とけこむようにそそいでいた。)
溶けこむように注いでいた。
(ふとようこはめのしたのかれあしのなかにうごくものがあるのにきがついてみると、)
ふと葉子は目の下の枯れ葦の中に動くものがあるのに気が付いて見ると、
(おおきなむぎわらのかいすいぼうをかぶって、くいにこしかけて、つりざおをにぎったおとこが、)
大きな麦わらの海水帽をかぶって、杭に腰かけて、釣り竿を握った男が、
(ぼうしのひさしのしたからめをひからしてようこをじっとみつめているのだった。)
帽子の庇の下から目を光らして葉子をじっと見つめているのだった。
(ようこはなんのきなしにそのおとこのかおをながめた。)
葉子は何の気なしにその男の顔をながめた。
(きべこきょうだった。)
木部孤筇だった。
(ぼうしのしたにかくれているせいか、そのかおはちょっとみわすれるくらいとしが)
帽子の下に隠れているせいか、その顔はちょっと見忘れるくらい年が
(いっていた。そしてふくそうからも、ようすからも、らくはくというようないっしゅの)
いっていた。そして服装からも、様子からも、落魄というような一種の
(きぶんがただよっていた。きべのかおはかめんのようにれいぜんとしていたが、つりざおの)
気分が漂っていた。木部の顔は仮面のように冷然としていたが、釣り竿の
(さきはふちゅういにもみずにひたって、つりいとがおんなのかみのけをながしたようにみずに)
先は不注意にも水に浸って、釣り糸が女の髪の毛を流したように水に
(ういてかるくふるえていた。)
浮いて軽く震えていた。
(さすがのようこもむねをどきんとさせておもわずみをしざらせた。)
さすがの葉子も胸をどきんとさせて思わず身を退(しざ)らせた。
(「おーい、おい、おい、おい、おーい」・・・それがそのしゅんかんにみみのそこを)
「おーい、おい、おい、おい、おーい」・・・それがその瞬間に耳の底を
(すーっととおってすーっとゆくえもしらずすぎさった。おずおずとくらちを)
すーっと通ってすーっと行方も知らず過ぎ去った。怯ず怯ずと倉地を
(うかがうと、くらちはなにごともしらぬげに、あたたかにくれていくあおぞらをふりあおいで)
うかがうと、倉地は何事も知らぬげに、暖かに暮れて行く青空を振り仰いで
(めいっぱいにながめていた。)
目いっぱいにながめていた。
(「かえりましょう」ようこのこえはふるえていた。くらちはなんのきなしにようこを)
「帰りましょう」葉子の声は震えていた。倉地は何の気なしに葉子を
(かえりみたが、「さむくでもなったか、くちびるがしろいぞ」といいながららんかんを)
顧みたが、「寒くでもなったか、口びるが白いぞ」といいながら欄干を
(はなれた。ふたりがそのおとこにうしろをみせてごろっぽあゆみだすと、「ちょっと)
離れた。二人がその男に後ろを見せて五六歩歩み出すと、「ちょっと
(おまちください」というこえがはしのしたからきこえた。くらちははじめてそこに)
お待ちください」という声が橋の下から聞こえた。倉地は始めてそこに
(ひとのいたのにきがついて、まゆをひそめながらふりかえった。ざわざわとあしを)
人のいたのに気が付いて、眉をひそめながら振り返った。ざわざわと葦を
(わけながらこみちをのぼってくるあしおとがして、ひょっこりめのまえにきべのすがたが)
分けながら小道を登って来る足音がして、ひょっこり目の前に木部の姿が
(あらわれでた。ようこはそのときはしかしすべてにたいするみがまえをじゅうぶんに)
現われ出た。葉子はその時はしかしすべてに対する身構えを充分に
(してしまっていた。)
してしまっていた。
(きべはすこしばかていねいなくらいにくらちにたいしてぼうしをとると、すぐようこに)
木部は少しばか丁寧なくらいに倉地に対して帽子を取ると、すぐ葉子に
(むいて、「ふしぎなところでおめにかかりましたね、しばらく」といった。)
向いて、「不思議な所でお目にかかりましたね、しばらく」といった。
(いちねんまえのきべからそうぞうしてどんなげきじょうてきなくちょうでよびかけられるかも)
一年前の木部から想像してどんな激情的な口調で呼びかけられるかも
(しれないとあやぶんでいたようこは、あんがいれいたんなきべのたいどにあんしんもし、)
しれないとあやぶんでいた葉子は、案外冷淡な木部の態度に安心もし、
(ふあんもかんじた。きべはどうかするといなおるようなことをしかねないおとこだと)
不安も感じた。木部はどうかすると居直るような事をしかねない男だと
(ようこはかねておもっていたからだ。しかしきべということをせんぽうからいいだす)
葉子は兼ねて思っていたからだ。しかし木部という事を先方からいい出す
(まではつつめるだけくらちにはじじつをつつんでみようとおもって、ただにこやかに、)
までは包めるだけ倉地には事実を包んでみようと思って、ただにこやかに、
(「こんなところでおめにかかろうとは・・・わたしもほんとうにおどろいて)
「こんな所でお目にかかろうとは・・・わたしもほんとうに驚いて
(しまいました。でもまあほんとうにおめずらしい・・・ただいまこちらのほうに)
しまいました。でもまあほんとうにお珍しい・・・ただいまこちらのほうに
(おすまいでございますの?」「すまうというほどもない・・・くすぶりこんで)
お住まいでございますの?」「住まうというほどもない・・・くすぶりこんで
(いますよはははは」ときべはうつろにわらって、つばのひろいぼうしを)
いますよ ハハハハ」と木部はうつろに笑って、鍔の広い帽子を
(しょせいっぽらしくあみだにかぶった。とおもうとまたいそいでとって、)
書生っぽらしく阿弥陀にかぶった。と思うとまた急いで取って、
(「あんなところからいきなりとびだしてきてこうなれなれしくさつきさんに)
「あんな所からいきなり飛び出して来てこうなれなれしく早月さんに
(おはなしをしかけてへんにおおもいでしょうが、ぼくはくだらんやくざもので、それでも)
お話をしかけて変にお思いでしょうが、僕は下らんやくざ者で、それでも
(もとはさつきけにはいろいろごやっかいになったおとこです。もうしあげるほどのなも)
元は早月家にはいろいろ御厄介になった男です。申し上げるほどの名も
(ありませんから、まあごらんのとおりのやつです。・・・どちらにおいで)
ありませんから、まあ御覧のとおりのやつです。・・・どちらにおいで
(です」とくらちにむいていった。そのちいさなめにはすぐれたさいきと、)
です」と倉地に向いていった。その小さな目には勝れた才気と、
(まけぎらいらしいきしょうとがほとばしってはいたけれども、じじむさい)
敗けぎらいらしい気象とがほとばしってはいたけれども、じじむさい
(あごひげと、のびるままにのばしたかみのけとで、ようこでなければそのとくちょうは)
顎ひげと、伸びるままに伸ばした髪の毛とで、葉子でなければその特徴は
(みえないらしかった。くらちはどこのうまのほねかとおもうようなちょうしで、)
見えないらしかった。倉地はどこの馬の骨かと思うような調子で、
(じぶんのなをなのることはもとよりせずに、かるくぼうしをとってみせただけ)
自分の名を名乗る事はもとよりせずに、軽く帽子を取って見せただけ
(だった。そして、「こうみょうじのほうへでもいってみようかとおもったのだが、)
だった。そして、「光明寺のほうへでも行ってみようかと思ったのだが、
(かわがわたれんで・・・このはしをいってもいかれますだろう」さんにんははしのほうを)
川が渡れんで・・・この橋を行っても行かれますだろう」三人は橋のほうを
(ふりかえった。まっすぐなどてみちがしろくやまのきわまでつづいていた。)
振り返った。まっすぐな土手道が白く山のきわまで続いていた。
(「いけますがね、それははまづたいのほうがおもむきがありますよ。ぼうふでも)
「行けますがね、それは浜伝いのほうが趣がありますよ。防風草(ぼうふ)でも
(つみながらいらっしゃい。かわもわたれます、ごあんないしましょう」といった。)
摘みながらいらっしゃい。川も渡れます、御案内しましょう」といった。
(ようこはいっときもはやくきべからのがれたくもあったが、どうじにしんみりと)
葉子は一時も早く木部からのがれたくもあったが、同時にしんみりと
(いちべついらいのことなどをかたりあってみたいきもした。いつかきしゃのなかであって)
一別以来の事などを語り合ってみたい気もした。いつか汽車の中であって
(これがさいごのたいめんだろうとおもった、あのときからするときべはずっと)
これが最後の対面だろうと思った、あの時からすると木部はずっと
(さばけたおとこらしくなっていた。そのふくそうがいかにもせいかつのふきそくなのと)
さばけた男らしくなっていた。その服装がいかにも生活の不規則なのと
(きゅうはくしているのをおもわせると、ようこはしんみなどうじょうにそそられるのを)
窮迫しているのを思わせると、葉子は親身な同情にそそられるのを
(こばむことができなかった。)
拒む事ができなかった。
(くらちはしごほさきだって、そのあとからようこときべとはあいだをへだてて)
倉地は四五歩先立って、そのあとから葉子と木部とは間を隔てて
(ならびながら、またべんけいがにのうざうざいるすなみちをはまのほうにおりていった。)
並びながら、また弁慶蟹のうざうざいる砂道を浜のほうに降りて行った。
(「あなたのことはたいていうわさやしんぶんでしっていましたよ・・・にんげんてものは)
「あなたの事はたいていうわさや新聞で知っていましたよ・・・人間てものは
(おかしなもんですね。・・・わたしはあれかららくごしゃです。なにをしてみても)
おかしなもんですね。・・・わたしはあれから落伍者です。何をしてみても
(なりたったことはありません。つまもこどももさとにかえしてしまっていまはひとりで)
成り立った事はありません。妻も子供も里に返してしまって今は一人で
(ここにほうろうしています。まいにちつりをやってね・・・ああやってみずのながれを)
ここに放浪しています。毎日釣りをやってね・・・ああやって水の流れを
(みていると、それでもばんめしのさけのさかなぐらいなものはつれてきますよ)
見ていると、それでも晩飯の酒の肴ぐらいなものは釣れて来ますよ
(ははははは」きべはまたうつろにわらったが、そのわらいのひびきがきずぐちにでも)
ハハハハハ」木部はまたうつろに笑ったが、その笑いの響きが傷口にでも
(こたえたようにきゅうにだまってしまった。すなにくいこむふたりのげたのおとだけが)
答えたように急に黙ってしまった。砂に食い込む二人の下駄の音だけが
(きこえた。「しかしこれでいてまったくのこどくでもありませんよ。つい)
聞こえた。「しかしこれでいて全くの孤独でもありませんよ。つい
(このあいだからしりあいになったおとこだが、すなやまのすなのなかにさけをうずめておいて、)
この間から知り合いになった男だが、砂山の砂の中に酒を埋めておいて、
(ぶらりとやってきてそれをのんでようのをたのしみにしているのとしりあいに)
ぶらりとやって来てそれを飲んで酔うのを楽しみにしているのと知り合いに
(なりましてね・・・そいつのらいふ・ふぃろそふぃーがばかに)
なりましてね・・・そいつのライフ・フィロソフィーがばかに
(おもしろいんです。てっていしたうんめいろんじゃですよ。さけをのんでうんめいろんをはくんです。)
おもしろいんです。徹底した運命論者ですよ。酒を飲んで運命論を吐くんです。
(まるでせんにんですよ」)
まるで仙人ですよ」
(くらちはどんどんあるいてふたりのはなしごえがみみにはいらぬくらいとおざかった。)
倉地はどんどん歩いて二人の話し声が耳に入らぬくらい遠ざかった。
(ようこはきべのくちかられいのかんしょうてきなことばがいまでるかいまでるかとおもって)
葉子は木部の口から例の感傷的な言葉が今出るか今出るかと思って
(まっていたけれども、きべにはいささかもそんなふうはなかった。)
待っていたけれども、木部にはいささかもそんなふうはなかった。
(わらいばかりでなく、すべてにうつろなかんじがするほどむかんじょうにみえた。)
笑いばかりでなく、すべてにうつろな感じがするほど無感情に見えた。
(「あなたはほんとうにいまなにをなさっていらっしゃいますの」とようこはすこし)
「あなたはほんとうに今何をなさっていらっしゃいますの」と葉子は少し
(きべにちかよってたずねた。きべはちかよられただけようこからとおのいてまた)
木部に近寄って尋ねた。木部は近寄られただけ葉子から遠のいてまた
(うつろにわらった。「なにをするもんですか。にんげんになにができるもんですか。)
うつろに笑った。「何をするもんですか。人間に何ができるもんですか。
(・・・もうはるもすえになりましたね」とてつもないことばをしいてくっつけて)
・・・もう春も末になりましたね」途轍もない言葉をしいてくっ付けて
(きべはそのよくひかるめでようこをみた。そしてすぐそのめをかえして、)
木部はそのよく光る目で葉子を見た。そしてすぐその目を返して、
(とおざかったくらちをこめてとおくうみとそらとのさかいめにながめいった。)
遠ざかった倉地をこめて遠く海と空との境目にながめ入った。