有島武郎 或る女92

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(「むなくそのわるい・・・おいにほんふくをだせ」)

「胸くその悪い・・・おい日本服を出せ」

(「じゅばんのえりがかけずにありますから・・・ようふくでがまんしてくださいましね」)

「襦袢の襟がかけずにありますから・・・洋服で我慢してくださいましね」

(ようこはじぶんがもっているとおもうほどのこびをあるかぎりめにあつめて)

葉子は自分が持っていると思うほどの媚びをある限り目に集めて

(たんがんするようにこういった。「おまえにはたのまんまでよ・・・あいちゃん」)

嘆願するようにこういった。「お前には頼まんまでよ・・・愛ちゃん」

(くらちはおおきなこえであいこをよびながらかいかのほうにみみをすました。)

倉地は大きな声で愛子を呼びながら階下のほうに耳を澄ました。

(ようこはそれでもこんかぎりがまんしようとした。はしごだんをしとやかに)

葉子はそれでも根(こん)限り我慢しようとした。階子段をしとやかに

(のぼってあいこがいつものようにじゅうじゅんにへやにはいってきた。くらちはきゅうに)

のぼって愛子がいつものように柔順に部屋にはいって来た。倉地は急に

(そうごうをくずしてにこやかになっていた。「あいちゃんたのむ、しゃつにその)

相好をくずしてにこやかになっていた。「愛ちゃん頼む、シャツにその

(ぼたんをつけておくれ」あいこはなにごとのおこったかをつゆしらぬようなかおをして、)

ボタンをつけておくれ」愛子は何事の起こったかを露知らぬような顔をして、

(おとこのにくかんをそそるようなかたじしのにくたいをうつくしくおりまげて、)

男の肉感をそそるような堅肉(かたじし)の肉体を美しく折り曲げて、

(せっぱくのしゃつをてにとりあげるのだった。ようこがちゃんとくらちにかしずいて)

雪白のシャツを手に取り上げるのだった。葉子がちゃんと倉地にかしずいて

(そこにいるのをまったくむししたようなずうずうしいたいどが、ひがんでしまった)

そこにいるのを全く無視したようなずうずうしい態度が、ひがんでしまった

(ようこのめにはにくにくしくうつった。「よけいなことをおしでない」ようこはとうとう)

葉子の目には憎々しく映った。「よけいな事をおしでない」葉子はとうとう

(かっとなってあいこをたしなめながらいきなりてにあるしゃつをひったくって)

かっとなって愛子をたしなめながらいきなり手にあるシャツをひったくって

(しまった。「きさまは・・・おれがあいちゃんにたのんだになぜよけいなことを)

しまった。「きさまは・・・おれが愛ちゃんに頼んだになぜよけいな事を

(しくさるんだ」とそういっていたけだかになったくらちにはようこはもうめも)

しくさるんだ」とそういって威丈高になった倉地には葉子はもう目も

(くれなかった。あいこばかりがようこのめにはみえていた。「おまえはしたにいれば)

くれなかった。愛子ばかりが葉子の目には見えていた。「お前は下にいれば

(それでいいにんげんなんだよ。おさんどんのしごともろくろくできはしないくせに)

それでいい人間なんだよ。おさんどんの仕事もろくろくできはしないくせに

(よけいなところにでしゃばるもんじゃないことよ。・・・したにいっておいで」)

よけいな所に出しゃばるもんじゃない事よ。・・・下に行っておいで」

(あいこはこうまであねにたしなめられても、さからうでもなくおこるでもなく、)

愛子はこうまで姉にたしなめられても、さからうでもなく怒るでもなく、

など

(だまったままじゅうじゅんに、たこんなめであねをじっとみてしずしずとそのざをはずして)

黙ったまま柔順に、多恨な目で姉をじっと見て静々とその座をはずして

(しまった。)

しまった。

(こんなもつれあったいさかいがともするとようこのいえでくりかえされるように)

こんなもつれ合ったいさかいがともすると葉子の家で繰り返されるように

(なった。ひとりになってきがしずまるとようこはこころのそこからじぶんのきょうぼうな)

なった。ひとりになって気がしずまると葉子は心の底から自分の狂暴な

(ふるまいをくいた。そしてきをとりなおしたつもりでどこまでもあいこを)

振る舞いを悔いた。そして気を取り直したつもりでどこまでも愛子を

(いたわってやろうとした。あいこにあいじょうをみせるためにはぎりにもさだよに)

いたわってやろうとした。愛子に愛情を見せるためには義理にも貞世に

(つらくあたるのがとうぜんだとおもった。そしてあいこのみているまえで、あいするものが)

つらく当たるのが当然だと思った。そして愛子の見ている前で、愛するものが

(あいするものをにくんだときばかりにみせるざんぎゃくなかしゃくをさだよにあたえたりした。)

愛するものを憎んだ時ばかりに見せる残虐な呵責を貞世に与えたりした。

(ようこはそれがりふじんきわまることだとはしっていながら、そうへんぱにかたむいてくる)

葉子はそれが理不尽きわまる事だとは知っていながら、そう偏頗に傾いて来る

(じぶんのこころもちをどうすることもできなかった。それのみならずようこには)

自分の心持ちをどうする事もできなかった。それのみならず葉子には

(じぶんのうっぷんをもらすためのたいしょうがぜひひとつひつようになってきた。ひとでなければ)

自分の鬱憤をもらすための対象がぜひ一つ必要になって来た。人でなければ

(どうぶつ、どうぶつでなければくさき、くさきでなければじぶんじしんになにかなしにしょうがいを)

動物、動物でなければ草木、草木でなければ自分自身に何かなしに傷害を

(あたえていなければきがやすまなくなった。にわのくさなどをつかんでいるときでも、)

与えていなければ気が休まなくなった。庭の草などをつかんでいる時でも、

(ふときがつくとようこはしゃがんだままひとくきのなもないくさをたったいっぽん)

ふと気が付くと葉子はしゃがんだまま一茎の名もない草をたった一本

(つまみとって、めになみだをいっぱいためながらつめのさきでずたずたに)

摘みとって、目に涙をいっぱいためながら爪の先で寸々(ずたずた)に

(きりさいなんでいるじぶんをみいだしたりした。)

切りさいなんでいる自分を見いだしたりした。

(おなじしょうどうはようこをかってくらちのほうようにじぶんじしんをおもうぞんぶんしいたげようとした。)

同じ衝動は葉子を駆って倉地の抱擁に自分自身を思う存分しいたげようとした。

(そこにはくらちのあいをすこしでもおおくじぶんにつなぎたいよっきゅうもてつだっては)

そこには倉地の愛を少しでも多く自分につなぎたい欲求も手伝っては

(いたけれども、くらちのてできょくどのくつうをかんずることにふまんぞくきわまるまんぞくを)

いたけれども、倉地の手で極度の苦痛を感ずる事に不満足きわまる満足を

(みいだそうとしていたのだ。せいしんもにくたいもはなはだしくやまいにむしばまれたようこは)

見いだそうとしていたのだ。精神も肉体もはなはだしく病に虫食まれた葉子は

(ほうようによってのうちょうてんなかんらくをあじわうしかくをうしなってからかなりひさしかった。)

抱擁によっての有頂天な歓楽を味わう資格を失ってからかなり久しかった。

(そこにはただじごくのようなかしゃくがあるばかりだった。すべてがおわってから)

そこにはただ地獄のような呵責があるばかりだった。すべてが終わってから

(ようこにのこるものは、おうとをもよおすようなにくたいのくつうと、しいてじぶんを)

葉子に残るものは、嘔吐を催すような肉体の苦痛と、しいて自分を

(ぼうがにいざなおうともがきながら、それがうらぎられてむえきにおわった、)

忘我に誘(いざな)おうともがきながら、それが裏切られて無益に終わった、

(そのあとにおそってくるだきすべきけんたいばかりだった。くらちがようこのそのひさんな)

その後に襲って来る唾棄すべき倦怠ばかりだった。倉地が葉子のその悲惨な

(むかんかくをわけまえしてたとえようもないぞうおをかんずるのはもちろんだった。)

無感覚を分け前してたとえようもない憎悪を感ずるのはもちろんだった。

(ようこはそれをしるとさらにいいしれないたよりなさをかんじてまたはげしく)

葉子はそれを知るとさらにいい知れないたよりなさを感じてまたはげしく

(くらちにいどみかかるのだった。くらちはみるみるいっぽいっぽようこからはなれていった。)

倉地にいどみかかるのだった。倉地は見る見る一歩一歩葉子から離れて行った。

(そしてますますそのきぶんはすさんでいった。「きさまはおれにあきたな。おとこでも)

そしてますますその気分はすさんで行った。「きさまはおれに厭きたな。男でも

(つくりおったんだろう」そうつばでもはきすてるようにいまいましげにくらちがあらわに)

作りおったんだろう」そう唾でも吐き捨てるようにいまいましげに倉地が露わに

(いうようなひもきた。「どうすればいいんだろう」そういってひたいのところにてを)

いうような日も来た。「どうすればいいんだろう」そういって額の所に手を

(やってずつうをしのびながらようこはひとりくるしまねばならなかった。)

やって頭痛を忍びながら葉子はひとり苦しまねばならなかった。

(あるひようこはおもいきってひそかにいしをおとずれた。いしはてもなく、)

ある日葉子は思いきってひそかに医師を訪れた。医師は手もなく、

(ようこのすべてのなやみのげんいんはしきゅうこうくつしょうとしきゅうないまくえんとをへいはつしているからだと)

葉子のすべての悩みの原因は子宮後屈症と子宮内膜炎とを併発しているからだと

(いってきかせた。ようこはあまりにわかりきったことをいしがさもしったかぶりに)

いって聞かせた。葉子はあまりにわかりきった事を医師がさも知ったかぶりに

(いってきかせるようにも、またそののっぺりしたしろいかおが、おそろしいうんめいが)

いって聞かせるようにも、またそののっぺりした白い顔が、恐ろしい運命が

(ようこにたいしてよそおうたかめんで、ようこはそのことばによってまっくらなゆくてを)

葉子に対して装うた仮面で、葉子はその言葉によってまっ暗な行く手を

(あきらかにしめされたようにもおもった。そしていかりとしつぼうとをいだきながら)

明らかに示されたようにも思った。そして怒りと失望とをいだきながら

(そのいえをでた。きとようこはほんやにたちよってふじんびょうにかんするだいぶないしょを)

その家を出た。帰途葉子は本屋に立ち寄って婦人病に関する大部な医書を

(かいもとめた。それはじぶんのびょうしょうにかんするてっていてきなちしきをえようためだった。)

買い求めた。それは自分の病症に関する徹底的な知識を得ようためだった。

(いえにかえるとじぶんのへやにとじこもってすぐだいたいをよんでみた。こうくつしょうは)

家に帰ると自分の部屋に閉じこもってすぐ大体を読んで見た。後屈症は

(げかしゅじゅつをほどこしていちきょうせいをすることによって、ないまくえんはないまくえんをけっそうする)

外科手術を施して位置矯正をする事によって、内膜炎は内膜炎を抉掻する

(ことによって、それがきかいてきのはつびょうであるかぎりぜんちのみこみはあるが、)

事によって、それが器械的の発病である限り全治の見込みはあるが、

(いちきょうせいのばあいなどにしじゅつしゃのふちゅういからしきゅうていにせんこうを)

位置矯正の場合などに施術者(しじゅつしゃ)の不注意から子宮底に穿孔を

(しょうじたときなどには、おうおうにしてげきれつなふくまくえんをけっかするきけんがともなわないでも)

生じた時などには、往々にして激烈な腹膜炎を結果する危険が伴わないでも

(ないなどとかいてあった。ようこはくらちにじじょうをうちあけてしゅじゅつをうけようか)

ないなどと書いてあった。葉子は倉地に事情を打ち明けて手術を受けようか

(ともおもった。ふだんならばじょうしきがすぐそれをようこにさせたにちがいない。しかし)

とも思った。ふだんならば常識がすぐそれを葉子にさせたに違いない。しかし

(いまはもうようこのしんけいはきょくどにぜいじゃくになって、あらぬほうこうにばかりわれにもなく)

今はもう葉子の神経は極度に脆弱になって、あらぬ方向にばかりわれにもなく

(するどくはたらくようになっていた。くらちはうたがいもなくじぶんのびょうきにあいそを)

鋭く働くようになっていた。倉地は疑いもなく自分の病気に愛想を

(つかすだろう。たといそんなことはないとしてもにゅういんのきかんにくらちのにくの)

尽かすだろう。たといそんな事はないとしても入院の期間に倉地の肉の

(ようきゅうがくらちをおもわぬほうにつれていかないとはだれがほしょうできよう。)

要求が倉地を思わぬほうに連れて行かないとはだれが保証できよう。

(それはようこのへきけんであるかもしれない、しかしもしあいこがくらちのちゅういを)

それは葉子の僻見であるかもしれない、しかしもし愛子が倉地の注意を

(ひいているとすれば、じぶんのるすのあいだにくらちがかのじょにちかづくのはただ)

ひいているとすれば、自分の留守の間に倉地が彼女に近づくのはただ

(いっぽのことだ。あいこがあのとしであのむけいけんで、くらちのようなやせいとぼうりょくとに)

一歩の事だ。愛子があの年であの無経験で、倉地のような野生と暴力とに

(きょうみをもたぬのはもちろん、いっしゅのけんおをさえかんじているのは)

興味を持たぬのはもちろん、一種の厭悪(けんお)をさえ感じているのは

(さっせられないではない。あいこはきっとくらちをしりぞけるだろう。しかしくらちには)

察せられないではない。愛子はきっと倉知を退けるだろう。しかし倉地には

(おそろしいむちがある。そしていちどくらちがおんなをおのれのちからのしたに)

恐ろしい無恥がある。そして一度倉地が女をおのれの力の下に

(とりひしいだら、いかなるおんなもにどとくらちからのがれることのできないような)

取りひしいだら、いかなる女も二度と倉地からのがれる事のできないような

(きかいなますいのちからをもっている。しそうとかれいぎとかにわずらわされない、)

奇怪な麻酔の力を持っている。思想とか礼儀とかにわずらわされない、

(むじんぞうにきょうれつでせいふくてきなきのままなだんせいのちからはいかなおんなをも)

無尽蔵に強烈で征服的な生(き)のままな男性の力はいかな女をも

(そのほんのうにたちかえらせるまじゅつをもっている。しかもあのじゅうじゅんらしくみえる)

その本能に立ち帰らせる魔術を持っている。しかもあの柔順らしく見える

(あいこはようこにたいしてうまれるとからのてきいをはさんでいるのだ。どんな)

愛子は葉子に対して生まれるとからの敵意を挟んでいるのだ。どんな

(かのうでもえがいてみることができる。そうおもうとようこはわがみでわがみを)

可能でも描いて見る事ができる。そう思うと葉子はわが身でわが身を

(やくようなみれんとしっとのためにぜんごもわすれてしまった。なんとかしてくらちを)

焼くような未練と嫉妬のために前後も忘れてしまった。なんとかして倉地を

(しばりあげるまではようこはあまんじていまのくつうにたえしのぼうとした。)

縛り上げるまでは葉子は甘んじて今の苦痛に堪え忍ぼうとした。

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