有島武郎 或る女94
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問題文
(そればかりではなかった。まさいにひみつなかねをゆうずうするためには)
そればかりではなかった。正井に秘密な金を融通するためには
(くらちからのあてがいだけではとてもたりなかった。ようこはありもしないことを)
倉地からのあてがいだけではとても足りなかった。葉子はありもしない事を
(まことしやかにかきつらねてきむらのほうからそうきんさせねばならなかった。)
誠しやかに書き連ねて木村のほうから送金させねばならなかった。
(くらちのためならとにもかくにも、くらちとじぶんのいもうとたちとがゆたかなせいかつを)
倉地のためならとにもかくにも、倉地と自分の妹たちとが豊かな生活を
(みちびくためならとにもかくにも、ようこにいっしゅのどうあくなほこりをもってそれを)
導くためならとにもかくにも、葉子に一種の獰悪な誇りをもってそれを
(して、おとこのためにならなにごとでもというすてばちなまんぞくをかいえないでは)
して、男のためになら何事でもという捨てばちな満足を買い得ないでは
(なかったが、そのかねがたいていまさいのふところにきゅうしゅうされてしまうのだと)
なかったが、その金がたいてい正井のふところに吸収されてしまうのだと
(おもうと、いくらかんせつにはくらちのためだとはいえようこのむねはいたかった。)
思うと、いくら間接には倉地のためだとはいえ葉子の胸は痛かった。
(きむらからはそうきんのたびごとにあいかわらずながいしょうそくがそえられてきた。)
木村からは送金のたびごとに相変わらず長い消息が添えられて来た。
(きむらのようこにたいするあいちゃくはひをおうてまさるともおとろえるようすはみえなかった。)
木村の葉子に対する愛着は日を追うてまさるとも衰える様子は見えなかった。
(しごとのほうにもてちがいやごさんがあってはじめのみこみどおりにはせいこうとは)
仕事のほうにも手違いや誤算があって始めの見込みどおりには成功とは
(いえないが、ようこのほうにおくるくらいのかねはどうしてでもつごうがつくくらいの)
いえないが、葉子のほうに送るくらいの金はどうしてでも都合がつくくらいの
(しんようはえているからかまわずにいってよこせともかいてあった。)
信用は得ているから構わずにいってよこせとも書いてあった。
(こんなしんじつなあいじょうとねついをたえずしめされるこのごろはようこもさすがに)
こんな信実な愛情と熱意を絶えず示されるこのごろは葉子もさすがに
(じぶんのしていることがくるしくなって、おもいきってきむらにすべてをうちあけて、)
自分のしている事が苦しくなって、思いきって木村にすべてを打ち明けて、
(かんけいをたとうかとおもいなやむようなことがときどきあった。そのやさきなので、)
関係を絶とうかと思い悩むような事が時々あった。その矢先なので、
(ようこはむねにことさらいたみをおぼえた。それがますますようこのしんけいをいらだたせて、)
葉子は胸にことさら痛みを覚えた。それがますます葉子の神経をいらだたせて、
(そのびょうきにもえいきょうした。)
その病気にも影響した。
(そしてはなのごがつがすぎて、あおばのろくがつになろうとするころには、)
そして花の五月が過ぎて、青葉の六月になろうとするころには、
(ようこはいたましくやせほそった、めばかりどぎついじゅんぜんたるひすてりーしょうの)
葉子は痛ましくやせ細った、目ばかりどぎつい純然たるヒステリー症の
(おんなになっていた。)
女になっていた。
(さんじゅうくじゅんさのせいふくはいっきになつふくになったけれども、そのとしのきこうは)
【三九】 巡査の制服は一気に夏服になったけれども、その年の気候は
(ひどくふじゅんで、そのしろふくがうらやましいほどあついときと、きのどくなほど)
ひどく不順で、その白服がうらやましいほど暑い時と、気の毒なほど
(わるびえのするひがいれかわりたちかわりつづいた。したがってせいうも)
悪冷(わるび)えのする日が入れ代わり立ち代わり続いた。したがって晴雨も
(さだめがたかった。それがどれほどようこのけんこうにさしひびいたかしれなかった。)
定めがたかった。それがどれほど葉子の健康にさし響いたかしれなかった。
(ようこはたえずようぶのふゆかいなどんつうをおぼゆるにつけ、あつくてくるしいずつうに)
葉子は絶えず腰部の不愉快な鈍痛を覚ゆるにつけ、暑くて苦しい頭痛に
(なやまされるにつけ、なにひとつからだにもうしぶんのなかったじゅうだいのむかしをおもいしのんだ。)
悩まされるにつけ、何一つからだに申し分のなかった十代の昔を思い忍んだ。
(せいうかんしょというようなものがこれほどきぶんにえいきょうするものとはおもいも)
晴雨寒暑というようなものがこれほど気分に影響するものとは思いも
(よらなかったようこは、ねおきのてんきをなによりもきにするようになった。)
よらなかった葉子は、寝起きの天気を何よりも気にするようになった。
(きょうこそはいちにちきがはればれするだろうとおもうようなひはいちにちもなかった。)
きょうこそは一日気が晴れ晴れするだろうと思うような日は一日もなかった。
(きょうもまたつらいいちにちをすごさねばならぬというそのいまわしいよそうだけでも)
きょうもまたつらい一日を過ごさねばならぬというそのいまわしい予想だけでも
(ようこのきぶんをそこなうにはじゅうぶんすぎた。)
葉子の気分をそこなうには充分過ぎた。
(ごがつのはじめごろからようこのいえにかようくらちのあしはだんだんとおのいて、)
五月の始めごろから葉子の家に通う倉地の足はだんだん遠のいて、
(ときどきどこへともしれぬりょこうにでるようになった。それはくらちがようこの)
時々どこへとも知れぬ旅行に出るようになった。それは倉地が葉子の
(しつっこいいどみと、はげしいしっとと、りふじんなかんぺきのほっさとをさける)
しつっこい挑みと、激しい嫉妬と、理不尽な疳癖の発作とを避ける
(ばかりだとはようこじしんにさえおもえないふしがあった。くらちのいわゆる)
ばかりだとは葉子自身にさえ思えない節があった。倉地のいわゆる
(じぎょうにはなにかかなりちめいてきなうちばわれがおこって、くらちのちからで)
事業には何かかなり致命的な内場破(わ)れが起こって、倉地の力で
(それをどうすることもできないらしいことはおぼろげながらもようこにも)
それをどうする事もできないらしい事はおぼろげながらも葉子にも
(わかっていた。さいけんしゃであるか、しょうばいなかまであるか、とにかくそういうものを)
わかっていた。債権者であるか、商売仲間であるか、とにかくそういう者を
(さけるためにふいにくらちがすがたをかくさねばならぬらしいことはたしかだった。)
避けるために不意に倉地が姿を隠さねばならぬらしい事は確かだった。
(それにしてもくらちのそえんはひたすらにようこにはにくかった。)
それにしても倉地の疎遠は一向(ひたすら)に葉子には憎かった。
(あるときようこははげしくくらちにせまってそのしごとのないようをすっかり)
ある時葉子は激しく倉地に迫ってその仕事の内容をすっかり
(うちあけさせようとした。くらちのじょうじんであるようこがくらちのみにだいじが)
打ち明けさせようとした。倉地の情人である葉子が倉地の身に大事が
(ふりかかろうとしているのをしりながら、それにじょりょくもしえないと)
降りかかろうとしているのを知りながら、それに助力もし得ないと
(いうほうはない、そういってようこはせがみにせがんだ。)
いう法はない、そういって葉子はせがみにせがんだ。
(「こればかりはおんなのしったことじゃないわい。おれがくらいこんでも)
「こればかりは女の知った事じゃないわい。おれが喰らい込んでも
(おまえにはとばっちりがいくようにはしたくないで、うちあけないのだ。)
お前にはとばっちりが行くようにはしたくないで、打ち明けないのだ。
(どこにいってもしらないしらないでいってんばりにとおすがいいぜ。)
どこに行っても知らない知らないで一点張りに通すがいいぜ。
(・・・にどとききたいとせがんでみろ、おれはうそほんなしに)
・・・二度と聞きたいとせがんでみろ、おれはうそほんなしに
(おまえとはてをきってみせるから」)
お前とは手を切って見せるから」
(そのさいごのことばはくらちのへいぜいににあわないおもくるしいひびきをもっていた。)
その最後の言葉は倉地の平生に似合わない重苦しい響きを持っていた。
(ようこがいきをつめてそれいじょうをどうしてもせまることができないとだんねんするほど)
葉子が息をつめてそれ以上をどうしても迫る事ができないと断念するほど
(おもくるしいものだった。まさいのことばからはんじても、それはおんなでなどでは)
重苦しいものだった。正井の言葉から判じても、それは女手などでは
(じっさいどうすることもできないものらしいのでようこはこれだけはだんねんして)
実際どうする事もできないものらしいので葉子はこれだけは断念して
(くちをつぐむよりしかたがなかった。)
口をつぐむよりしかたがなかった。
(だらくといわれようと、ふていといわれようと、ひとでをまっていては)
堕落といわれようと、不貞といわれようと、他人手(ひとで)を待っていては
(とてもじぶんのおもうようなみちはひらけないとみきりをつけたほんのうてきのしょうどうから、)
とても自分の思うような道は開けないと見切りをつけた本能的の衝動から、
(しらずしらずじぶんでえらびとったみちのゆくてにめもくらむようなみらいが)
知らず知らず自分で選び取った道の行く手に目もくらむような未来が
(みえたとうちょうてんになったえじままるのうえのできごといらいいちねんもたたないうちに、)
見えたと有頂天になった絵島丸の上の出来事以来一年もたたないうちに、
(ようこがいのちもなもささげてかかったあたらしいせいかつはみるみるどだいからくさりだして、)
葉子が命も名もささげてかかった新しい生活は見る見る土台から腐り出して、
(もういまはいちじんのかぜさえふけば、さしものこうろうももんどりうってちじょうに)
もう今は一陣の風さえ吹けば、さしもの高楼ももんどり打って地上に
(くずれてしまうとおもいやると、ようこはしばしばしんけんにじさつをかんがえた。)
くずれてしまうと思いやると、葉子はしばしば真剣に自殺を考えた。
(くらちがたびにでたるすにくらちのげしゅくにいって「きゅうようありすぐかえれ」という)
倉地が旅に出た留守に倉地の下宿に行って「急用ありすぐ帰れ」という
(でんぽうをそのいくさきにうってやる。そしてじぶんはこころしずかにくらちのねどこのうえで)
電報をその行く先に打ってやる。そして自分は心静かに倉地の寝床の上で
(やいばにふしていよう。それはじぶんのいっしょうのまくぎれとしては、いちばん)
刃(やいば)に伏していよう。それは自分の一生の幕切れとしては、いちばん
(ふさわしいこういらしい。くらちのこころにもまだじぶんにたいするあいじょうは)
ふさわしい行為らしい。倉地の心にもまだ自分に対する愛情は
(もえかすれながらものこっている。それがこのさいごによっていっときなりとも)
燃えかすれながらも残っている。それがこの最後によって一時なりとも
(うつくしくもえあがるだろう。それでいい、それでじぶんはまんぞくだ。)
美しく燃え上がるだろう。それでいい、それで自分は満足だ。
(そうこころからなみだぐみながらおもうこともあった。)
そう心から涙ぐみながら思う事もあった。
(じっさいくらちがるすのはずのあるよる、ようこはふらふらとふだんくうそうしていた)
実際倉地が留守のはずのある夜、葉子はふらふらとふだん空想していた
(そのこころもちにきびしくとらえられてぜんごもしらずいえをとびだしたことがあった。)
その心持ちにきびしく捕えられて前後も知らず家を飛び出した事があった。
(ようこのこころはきんちょうしきっててんきなのやらくもっているのやら、あついのやら)
葉子の心は緊張しきって天気なのやら曇っているのやら、暑いのやら
(さむいのやらさらにさべつがつかなかった。さかんにはむしがとびかわして)
寒いのやらさらに差別がつかなかった。盛んに羽虫が飛びかわして
(おうらいのじゃまになるのをかすかにいしきしながら、いえをでてからこはんちょう)
往来の邪魔になるのをかすかに意識しながら、家を出てから小半町
(うらざかをおりていったが、ふとじぶんのからだがよごれていて、)
裏坂をおりて行ったが、ふと自分のからだがよごれていて、
(このさんよっかゆにはいらないことをおもいだすと、しんだあとのみにくさをおそれて)
この三四日湯にはいらない事を思い出すと、死んだあとの醜さを恐れて
(そのままいえにとってかえした。そしていもうとたちだけがはいったままになっている)
そのまま家に取って返した。そして妹たちだけがはいったままになっている
(ゆどのにしのんでいって、さめかけたふろにつかった。いもうとたちはとうにねいって)
湯殿に忍んで行って、さめかけた風呂につかった。妹たちはとうに寝入って
(いた。てぬぐいがけのたけざおにぬれたてぬぐいがふたすじだけかかっているのを)
いた。手ぬぐい掛けの竹竿にぬれた手ぬぐいが二筋だけかかっているのを
(みると、ねいっているふたりのいもうとのことがひしひしとこころにせまるようだった。)
見ると、寝入っている二人の妹の事がひしひしと心に逼るようだった。
(ようこのけっしんはしかしそのくらいのことではうごかなかった。)
葉子の決心はしかしそのくらいの事では動かなかった。
(かんたんにみじまいをしてまたいえをでた。)
簡単に身じまいをしてまた家を出た。