有島武郎 或る女100
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問題文
(「さあちゃん」とうとうだまっているのがぶきみになってようこはちんもくを)
「貞(さあ)ちゃん」とうとう黙っているのが不気味になって葉子は沈黙を
(やぶりたいばかりにこうよんでみた。さだよはへんじひとつしなかった。)
破りたいばかりにこう呼んでみた。貞世は返事一つしなかった。
(・・・ようこはぞっとした。さだよはああしたままでとおりまにでもみいられて)
・・・葉子はぞっとした。貞世はああしたままで通り魔にでも魅入られて
(しんでいるのではないか。それとももういちどなまえをよんだら、せんこうのうえに)
死んでいるのではないか。それとももう一度名前を呼んだら、線香の上に
(たまったはいがすこしかぜでくずれおちるように、こえのひびきでほろほろと)
たまった灰が少し風でくずれ落ちるように、声の響きでほろほろと
(かきけすようにあのいたいけなすがたはなくなってしまうのではないだろうか。)
かき消すようにあのいたいけな姿はなくなってしまうのではないだろうか。
(そしてそのあとにはゆうやみにつつまれたたいこうえんのこだちと、にかいのえんがわと、)
そしてそのあとには夕闇に包まれた苔香園の木立ちと、二階の縁側と、
(ちいさなつくえだけがのこるのではないだろうか。・・・ふだんのようこならば)
小さな机だけが残るのではないだろうか。・・・ふだんの葉子ならば
(なんというばかだろうとおもうようなことをおどおどしながら)
なんというばかだろうと思うような事をおどおどしながら
(まじめにかんがえていた。)
真面目に考えていた。
(そのときかいかでくらちのひどくげきこうしたこえがきこえた。)
その時階下で倉地のひどく激昂した声が聞こえた。
(ようこははっとしてながいあくむからでもさめたようにわれにかえった。)
葉子ははっとして長い悪夢からでもさめたようにわれに返った。
(そこにいるのはすがたはもとのままだが、やはりまごうかたなきさだよだった。)
そこにいるのは姿は元のままだが、やはりまごうかたなき貞世だった。
(ようこはあわてていつのまにかひざからずりおとしてあったはくふをとりあげて、)
葉子はあわてていつのまにか膝からずり落としてあった白布を取り上げて、
(かいかのほうにきっとききみみをたてた。じたいはだいぶだいじらしかった。)
階下のほうにきっと聞き耳を立てた。事態はだいぶ大事らしかった。
(「さあちゃん。・・・さあちゃん・・・」ようこはそういいながら)
「貞(さあ)ちゃん。・・・貞ちゃん・・・」葉子はそういいながら
(たちあがっていって、さだよのうしろからはがいにだきしめてやろうとした。)
立ち上がって行って、貞世の後ろから羽がいに抱きしめてやろうとした。
(しかしそのしゅんかんにじぶんのむねのなかにしぜんにできあがらしていたけちがんを)
しかしその瞬間に自分の胸の中に自然に出来上がらしていた結願(けちがん)を
(おもいだして、こころをおににしながら、「さあちゃんといったらおへんじを)
思い出して、心を鬼にしながら、「貞(さあ)ちゃんといったらお返事を
(なさいな。なんのことですすねたまねをして。だいどころにいってあとの)
なさいな。なんの事です拗ねたまねをして。台所に行ってあとの
(すすぎかえしでもしておいで、べんきょうもしないでぼんやりしているとどくですよ」)
すすぎ返しでもしておいで、勉強もしないでぼんやりしていると毒ですよ」
(「だっておねえさまわたしくるしいんですもの」「うそをおいい。このごろは)
「だっておねえ様わたし苦しいんですもの」「うそをお言い。このごろは
(あなたほんとうにいけなくなったこと。わがままばかししているとねえさんは)
あなたほんとうにいけなくなった事。わがままばかししているとねえさんは
(ききませんよ」)
聞きませんよ」
(さだよはさびしそうなうらめしそうなかおをまっかにしてようこのほうをふりむいた。)
貞世はさびしそうな恨めしそうな顔をまっ赤にして葉子のほうを振り向いた。
(それをみただけでようこはすっかりうちくだかれていた。みぞおちの)
それを見ただけで葉子はすっかり打ちくだかれていた。水落(みぞおち)の
(あたりをすっとこおりのぼうでもとおるようなこころもちがすると、のどのところはもう)
あたりをすっと氷の棒でも通るような心持ちがすると、喉の所はもう
(なきかけていた。なんというこころにじぶんはなってしまったのだろう・・・)
泣きかけていた。なんという心に自分はなってしまったのだろう・・・
(ようこはそのうえそのばにはいたたまれないで、いそいでかいかのほうへおりていった。)
葉子はその上その場にはいたたまれないで、急いで階下のほうへ降りて行った。
(くらちのこえにまじってことうのこえもげきしてきこえた。)
倉地の声にまじって古藤の声も激して聞こえた。
(よんじゅういちはしごだんのあがりぐちにはあいこがあねをよびにいこうかいくまいかと)
【四一】 階子段の上がり口には愛子が姉を呼びに行こうか行くまいかと
(しあんするらしくたっていた。そこをとおりぬけてじぶんのへやにきてみると、)
思案するらしく立っていた。そこを通り抜けて自分の部屋に来て見ると、
(むなげをあらわにえりをひろげて、せるのりょうそでをたかだかとまくりあげたくらちが、)
胸毛を露わに襟をひろげて、セルの両袖を高々とまくり上げた倉地が、
(あぐらをかいたまま、でんとうのあかりのしたにじゅくしのようにあかくなって)
あぐらをかいたまま、電灯の灯の下に熟柿のように赤くなって
(こっちをむいていたけだかになっていた。ことうはぐんぷくのひざをきちんとおって)
こっちを向いて威丈高になっていた。古藤は軍服の膝をきちんと折って
(まっすぐにかたくすわって、ようこにはうしろをむけていた。それをみるともう)
まっすぐに固くすわって、葉子には後ろを向けていた。それを見るともう
(ようこのしんけいはびりびりとさかだってじぶんながらどうしようもないほど)
葉子の神経はびりびりと逆立って自分ながらどうしようもないほど
(あれすさんできていた。「なにもかもいやだ、どうでもかってになるがいい」)
荒れすさんで来ていた。「何もかもいやだ、どうでも勝手になるがいい」
(するとすぐあたまがおもくかぶさってきて、ふくぶのどんつうがなまりのおおきなたまのように)
するとすぐ頭が重くかぶさって来て、腹部の鈍痛が鉛の大きな球のように
(こしをしいたげた。それはにじゅうにようこをいらいらさせた。)
腰をしいたげた。それは二重に葉子をいらいらさせた。
(「あなたがたはいったいなにをそんなにいいあっていらっしゃるの」)
「あなた方はいったい何をそんなにいい合っていらっしゃるの」
(もうそこにはようこのたくとをもちいるよゆうさえもっていなかった。しじゅう)
もうそこには葉子のタクトを用いる余裕さえ持っていなかった。始終
(はらのそこにれいせいさをうしなわないで、あらんかぎりのひょうじょうをかってにそうじゅうして)
腹の底に冷静さを失わないで、あらん限りの表情を勝手に操縦して
(どんななんかんでも、ようこにとくゆうなしかたできりひらいていくそんなよゆうは)
どんな難関でも、葉子に特有なしかたで切り開いて行くそんな余裕は
(そのばにはとてもでてこなかった。)
その場にはとても出て来なかった。
(「なにをといってこのことうというせいねんはあまりれいぎをわきまえんからよ。)
「何をといってこの古藤という青年はあまり礼儀をわきまえんからよ。
(きむらさんのしんゆうしんゆうとふたことめにははなにかけたようなことをいわるるが、)
木村さんの親友親友と二言目には鼻にかけたような事をいわるるが、
(わしもわしできむらさんからたのまれとるんだから、ひとりよがりのことは)
わしもわしで木村さんから頼まれとるんだから、独りよがりの事は
(いうてもらわんでもがいいのだ。それをつべこべろくろくあなたのせわも)
いうてもらわんでもがいいのだ。それをつべこべろくろくあなたの世話も
(みずにおきながら、いいたてなさるので、すじがちがっていようといって)
見ずにおきながら、いい立てなさるので、筋が違っていようといって
(きかせてあげたところだ。ことうさん、あなたしつれいだがいったいいくつです」)
聞かせて上げた所だ。古藤さん、あなた失礼だがいったいいくつです」
(ようこにいってきかせるでもなくそういって、くらちはまたことうのほうに)
葉子にいって聞かせるでもなくそういって、倉地はまた古藤のほうに
(むきなおった。ことうはこのぶじょくにたいしてくちごたえのことばもでないように)
向き直った。古藤はこの侮辱に対して口答えの言葉も出ないように
(げきこうしてだまっていた。)
激昂して黙っていた。
(「こたえるがはずかしければしいてもきくまい。が、いずれはたちは)
「答えるが恥ずかしければしいても聞くまい。が、いずれ二十(はたち)は
(すぎていられるのだろう。はたちすぎたおとこがあなたのようにれいぎをわきまえずに)
過ぎていられるのだろう。二十過ぎた男があなたのように礼儀をわきまえずに
(たにんのせいかつのうちわにまでたちいってものをいうはばかのしょうこですよ。おとこが)
他人の生活の内輪にまで立ち入って物をいうはばかの証拠ですよ。男が
(ものをいうならかんがえてからいうがいい」)
物をいうなら考えてからいうがいい」
(そういってくらちはことばのげきこうしているわりあいに、またみかけのいかにも)
そういって倉地は言葉の激昂している割合に、また見かけのいかにも
(いたけだかなわりあいに、じゅうぶんのよゆうをみせて、そらうそぶくようにうちみずをしたにわの)
威丈高な割合に、充分の余裕を見せて、空うそぶくように打ち水をした庭の
(ほうをみながらうちわをつかった。)
ほうを見ながら団扇をつかった。
(ことうはしばらくだまっていてからうしろをふりあおいでようこをみやりつつ、)
古藤はしばらく黙っていてから後ろを振り仰いで葉子を見やりつつ、
(「ようこさん、・・・まあ、す、すわってください」とすこしどもるように)
「葉子さん、・・・まあ、す、すわってください」と少しどもるように
(しいておだやかにいった。ようこはそのときはじめて、われにもなくそれまでそこに)
しいて穏やかにいった。葉子はその時始めて、われにもなくそれまでそこに
(つったったままぼんやりしていたのをしって、じぶんにかつてないような)
突っ立ったままぼんやりしていたのを知って、自分にかつてないような
(とんきょうなことをしていたのにきがついた。そしてじぶんながらこのごろは)
頓狂な事をしていたのに気が付いた。そして自分ながらこのごろは
(ほんとうにへんだとおもいながらふたりのあいだに、できるだけきをおちつけて)
ほんとうに変だと思いながら二人の間に、できるだけ気を落ち着けて
(ざについた。ことうのかおをみるとややあおざめて、こめかみのところにふといすじを)
座についた。古藤の顔を見るとやや青ざめて、こめかみの所に太い筋を
(たてていた。ようこはそのじぶんになってはじめてすこしずつじぶんをかいふくしていた。)
立てていた。葉子はその時分になって始めて少しずつ自分を回復していた。
(「ことうさん、くらちさんはすこしおさけをめしあがったところだからこんなとき)
「古藤さん、倉地さんは少しお酒を召し上がった所だからこんな時
(むずかしいおはなしをなさるのはよくありませんでしたわ。なんですか)
むずかしいお話をなさるのはよくありませんでしたわ。なんですか
(しりませんけれどもこんやはもうそのおはなしはきれいにやめましょう。)
知りませんけれども今夜はもうそのお話はきれいにやめましょう。
(いかが?・・・またゆっくりね・・・あ、あいさん、あなたおにかいにいって)
いかが?・・・またゆっくりね・・・あ、愛さん、あなたお二階に行って
(ぬいかけをおおいそぎでしあげておいてちょうだい、ねえさんがあらかた)
縫いかけを大急ぎで仕上げて置いてちょうだい、ねえさんがあらかた
(してしまってあるけれども・・・」)
してしまってあるけれども・・・」
(そういってせんこくからちくいちふたりのそうろんをきいていたらしいあいこをかいじょうに)
そういって先刻から逐一二人の争論を聞いていたらしい愛子を階上に
(おいあげた。しばらくしてことうはようやくおちついてじぶんのことばを)
追い上げた。しばらくして古藤はようやく落ち着いて自分の言葉を
(みいだしたように、「くらちさんにものをいったのはぼくがまちがっていたかも)
見いだしたように、「倉地さんに物をいったのは僕が間違っていたかも
(しれません。じゃくらちさんをまえにおいてあなたにいわしてください。)
しれません。じゃ倉地さんを前に置いてあなたにいわしてください。
(おせじでもなんでもなく、ぼくははじめからあなたにはくらちさんなんかにはない)
お世辞でもなんでもなく、僕は始めからあなたには倉地さんなんかにはない
(せいじつなところが、どこかにかくれているようにおもっていたんです。ぼくのいうことを)
誠実な所が、どこかに隠れているように思っていたんです。僕のいう事を
(そのせいじつなところではんだんしてください」)
その誠実な所で判断してください」
(「まあきょうはもういいじゃありませんか、ね。わたし、あなたの)
「まあきょうはもういいじゃありませんか、ね。わたし、あなたの
(おっしゃろうとすることはよっくわかっていますわ。わたしけっして)
おっしゃろうとする事はよっくわかっていますわ。わたし決して
(あだやおろそかにはおもっていませんほんとうに。わたしだってかんがえては)
仇やおろそかには思っていませんほんとうに。わたしだって考えては
(いますわ。そのうちとっくりわたしのほうからうかがっていただきたいと)
いますわ。そのうちとっくりわたしのほうから伺っていただきたいと
(おもっていたくらいですからそれまで・・・」「きょうきいてください。)
思っていたくらいですからそれまで・・・」「きょう聞いてください。
(ぐんたいせいかつをしているとさんにんでこうしておはなしするきかいはそうありそうには)
軍隊生活をしていると三人でこうしてお話する機会はそうありそうには
(ありません。もうきえいのじかんがせまっていますから、ながくおはなしはできない)
ありません。もう帰営の時間が逼っていますから、長くお話はできない
(けれども・・・それだからがまんしてきいてください」)
けれども・・・それだから我慢して聞いてください」
(それならなんでもかってにいってみるがいい、しぎによってはだまっては)
それならなんでも勝手にいってみるがいい、仕儀によっては黙っては
(いないからというはらを、かすかにひにくにひらいたくちびるにみせてようこは)
いないからという腹を、かすかに皮肉に開いた口びるに見せて葉子は
(ことうにみみをかすたいどをみせた。くらちはしらんふりをしてにわのほうを)
古藤に耳をかす態度を見せた。倉地は知らんふりをして庭のほうを
(みつづけていた。)
見続けていた。