有島武郎 或る女110

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(しちがつにはいってからきこうはめっきりあつくなった。しいのきのこばもすっかり)

七月にはいってから気候はめっきり暑くなった。椎の木の古葉もすっかり

(ちりつくして、まつもあたらしいみどりにかわって、くさもきもあおいほのおのようになった。)

散り尽くして、松も新しい緑にかわって、草も木も青い焔のようになった。

(ながくさむくつづいたさみだれのなごりで、すいじょうきがくうきちゅうにきみわるく)

長く寒く続いた五月雨のなごりで、水蒸気が空気中に気味わるく

(ほうわされて、さらぬだにきゅうにたえがたくあつくなったきこうをますます)

飽和されて、さらぬだに急に堪え難く暑くなった気候をますます

(たえがたいものにした。ようこはじしんのごたいが、さだよのかいふくをもまたずに)

堪え難いものにした。葉子は自身の五体が、貞世の回復をも待たずに

(ずんずんくずれていくのをかんじないわけにはいかなかった。それとともに)

ずんずんくずれて行くのを感じないわけには行かなかった。それと共に

(ぼっぱつてきにおこってくるひすてりーはいよいよつのるばかりで、そのほっさに)

勃発的に起こって来るヒステリーはいよいよ募るばかりで、その発作に

(おそわれたがさいご、じぶんながらきがちがったとおもうようなことがたびたびに)

襲われたが最後、自分ながら気が違ったと思うような事がたびたびに

(なった。ようこはこころひそかにじぶんをおそれながら、ひびのじぶんをみまもることを)

なった。葉子は心ひそかに自分を恐れながら、日々の自分を見守る事を

(よぎなくされた。)

余儀なくされた。

(ようこのひすてりーはだれかれのみさかいなくはれつするようになったが)

葉子のヒステリーはだれかれの見境なく破裂するようになったが

(ことにあいこにくっきょうのにげばをみいだした。なんといわれてもののしられても、)

ことに愛子に屈強の逃げ場を見いだした。なんといわれてもののしられても、

(うちすえられさえしても、としょのひつじのようにじゅうじゅんにだまったまま、)

打ち据えられさえしても、屠所の羊のように柔順に黙ったまま、

(ようこにはまどろこしくみえるくらいゆっくりおちついてはたらくあいこを)

葉子にはまどろこしく見えるくらいゆっくり落ち着いて働く愛子を

(みせつけられると、ようこのかんしゃくはこうじるばかりだった。あんなすなおな)

見せつけられると、葉子の疳癪は嵩じるばかりだった。あんな素直な

(しゅしょうげなふうをしていながらしらじらしくもあねをあざむいている。それが)

殊勝げなふうをしていながら白々しくも姉を欺いている。それが

(くらちとのかんけいにおいてであれ、おかとのかんけいにおいてであれ、ひょっとすると)

倉地との関係においてであれ、岡との関係においてであれ、ひょっとすると

(ことうとのかんけいにおいてであれ、あいこはようこにうちあけないひみつを)

古藤との関係においてであれ、愛子は葉子に打ち明けない秘密を

(もちはじめているはずだ。そうおもうとようこはむりにもへいちにはらんが)

持ち始めているはずだ。そう思うと葉子は無理にも平地に波瀾が

(おこしてみたかった。ほとんどまいにちーーそれはあいこがびょういんにねとまり)

起こしてみたかった。ほとんど毎日ーーそれは愛子が病院に寝泊まり

など

(するようになったためだとようこはじぶんぎめにきめていたーーいくじかんかのあいだ、)

するようになったためだと葉子は自分決めに決めていたーー幾時間かの間、

(みまいにきてくれるおかにたいしても、ようこはもうもとのようなようこでは)

見舞いに来てくれる岡に対しても、葉子はもう元のような葉子では

(なかった。どうかするとおもいもかけないときにあからさまなひにくがやのように)

なかった。どうかすると思いもかけない時に明白な皮肉が矢のように

(ようこのくちびるからおかにむかってとばされた。おかはじぶんがはじるように)

葉子の口びるから岡に向かって飛ばされた。岡は自分が恥じるように

(かおをあからめながらも、じょうひんなたいどでそれをこらえた。それがまたなおさら)

顔を紅らめながらも、上品な態度でそれをこらえた。それがまたなおさら

(ようこをいらつかすたねになった。)

葉子をいらつかす種になった。

(もうこられそうもないといいながらくらちもみっかにいちどぐらいはびょういんをみまう)

もう来られそうもないといいながら倉地も三日に一度ぐらいは病院を見舞う

(ようになった。ようこはそれをもあいこゆえとかんがえずにはいられなかった。)

ようになった。葉子はそれをも愛子ゆえと考えずにはいられなかった。

(そうはげしいもうそうにかりたてられてくると、どういうかんけいでくらちとじぶんとを)

そう激しい妄想に駆り立てられて来ると、どういう関係で倉地と自分とを

(つないでおけばいいのか、どうしたたいどでくらちをもちあつかえばいいのか、)

つないでおけばいいのか、どうした態度で倉地をもちあつかえばいいのか、

(ようこにはほとほとけんとうがつかなくなってしまった。しんみにもちかけて)

葉子にはほとほと見当がつかなくなってしまった。親身に持ちかけて

(みたり、よそよそしくとりなしてみたり、そのときのきぶんきぶんでかってな)

みたり、よそよそしく取りなしてみたり、その時の気分気分で勝手な

(むぎこうなことをしていながらも、どうしてものがれでることのできないのは)

無技巧な事をしていながらも、どうしてものがれ出る事のできないのは

(くらちにたいするこちんとかたまったふかいしゅうちゃくだった。それはなさけなくも)

倉地に対するこちんと固まった深い執着だった。それは情なくも

(はげしくつよくなりまさるばかりだった。もうじぶんでじぶんのこころねをびんぜんにおもって)

激しく強くなり増さるばかりだった。もう自分で自分の心根を憫然に思って

(そぞろになみだをながして、みずからをなぐさめるというよゆうすらなくなってしまった。)

そぞろに涙を流して、自らを慰めるという余裕すらなくなってしまった。

(かわききったひのようなものがいきぐるしいまでにむねのなかにぎっしり)

かわききった火のようなものが息苦しいまでに胸の中にぎっしり

(つまっているだけだった。)

詰まっているだけだった。

(ただひとりさだよだけは・・・しぬかいきるかわからないさだよだけは、)

ただ一人貞世だけは・・・死ぬか生きるかわからない貞世だけは、

(このあねをしんじきってくれている・・・そうおもうとようこはまえにもましたあいちゃくを)

この姉を信じきってくれている・・・そう思うと葉子は前にも増した愛着を

(このびょうじにだけはかんじないでいられなかった。「さだよがいるばかりで)

この病児にだけは感じないでいられなかった。「貞世がいるばかりで

(じぶんはひとごろしもしないでこうしていられるのだ」とようこはこころのなかで)

自分は人殺しもしないでこうしていられるのだ」と葉子は心の中で

(ひとりごちた。)

独語(ひとりご)ちた。

(けれどもあるあさそのかすかなきぼうさえやぶれねばならぬようなじけんが)

けれどもある朝そのかすかな希望さえ破れねばならぬような事件が

(まくしあがった。)

まくし上がった。

(そのあさはあかつきからみずがしたたりそうにそらがはれて、めずらしくすがすがしいりょうふうが)

その朝は暁から水がしたたりそうに空が晴れて、珍しくすがすがしい涼風が

(きのあいだからきてまどのしろいかーてんをそっとなでてとおるさわやかな)

木の間から来て窓の白いカーテンをそっとなでて通るさわやかな

(てんきだったので、よどおしさだよのしんだいのわきにつきそって、ねむくなると)

天気だったので、夜通し貞世の寝台のわきに付き添って、睡くなると

(そうしたままでうとうとといねむりしながらすごしてきたようこも、)

そうしたままでうとうとと居睡りしながら過ごして来た葉子も、

(おもいのほかあたまのなかがかるくなっていた。さだよもそのばんはひどくねつに)

思いのほか頭の中が軽くなっていた。貞世もその晩はひどく熱に

(うかされもせずにねつづけて、よじごろのたいおんはしちどはちぶまでさがっていた。)

浮かされもせずに寝続けて、四時ごろの体温は七度八分まで下がっていた。

(みどりいろのふろしきをとおしてくるひかりでそれをはっけんしたようこはとびたつような)

緑色の風呂敷を通して来る光でそれを発見した葉子は飛び立つような

(よろこびをかんじた。にゅういんしてからしちどだいにねつのさがったのはこのあさが)

喜びを感じた。入院してから七度台に熱の下がったのはこの朝が

(はじめてだったので、もうねつのはくりきがきたのかとおもうと、とうとう)

始めてだったので、もう熱の剥離期が来たのかと思うと、とうとう

(さだよのいのちはとりとめたというきえつのじょうでなみだぐましいまでにむねが)

貞世の命は取り留めたという喜悦の情で涙ぐましいまでに胸が

(いっぱいになった。ようやくいっしんがとどいた。じぶんのためにびょうきになった)

いっぱいになった。ようやく一心が届いた。自分のために病気になった

(さだよは、じぶんのちからでなおった。そこからじぶんのうんめいはまたあたらしく)

貞世は、自分の力でなおった。そこから自分の運命はまた新しく

(ひらけていくかもしれない。きっとひらけていく。もういちどこころおきなく)

開けて行くかもしれない。きっと開けて行く。もう一度心置きなく

(このよにいきるときがきたら、それはどのくらいいいことだろう。)

この世に生きる時が来たら、それはどのくらいいい事だろう。

(こんどこそはかんがえなおしていきてみよう。もうじぶんもにじゅうろくだ。)

今度こそは考え直して生きてみよう。もう自分も二十六だ。

(いままでのようなたいどでくらしてはいられない。くらちにもすまなかった。)

今までのような態度で暮らしてはいられない。倉地にもすまなかった。

(くらちがあれほどあるかぎりのものをぎせいにして、しかもそのじぎょうといっている)

倉地があれほどある限りのものを犠牲にして、しかもその事業といっている

(しごとはどうかんがえてみてもおもわしくいっていないらしいのに、じぶんたちの)

仕事はどう考えてみても思わしく行っていないらしいのに、自分たちの

(くらしむきはまるでそんなこともかんがえないようなかんかつなものだった。)

暮らし向きはまるでそんな事も考えないような寛濶なものだった。

(じぶんはけっしんさえすればどんなきょうぐうにでもじぶんをはめこむことぐらいできる)

自分は決心さえすればどんな境遇にでも自分をはめ込む事ぐらいできる

(おんなだ。もしこんどいえをもつようになったらすべてをいもうとたちにいってきかして、)

女だ。もし今度家を持つようになったらすべてを妹たちにいって聞かして、

(くらちといっしょになろう。そしてきむらとははっきりえんをきろう。)

倉地と一緒になろう。そして木村とははっきり縁を切ろう。

(きむらといえば・・・そうしてようこはくらちとことうとがいいあいをした)

木村といえば・・・そうして葉子は倉地と古藤とがいい合いをした

(そのばんのことをかんがえだした。ことうにあんなやくそくをしながら、さだよのびょうきに)

その晩の事を考え出した。古藤にあんな約束をしながら、貞世の病気に

(まぎれていたというほかに、てんでしんそうをこくはくするきがなかったので)

紛れていたというほかに、てんで真相を告白する気がなかったので

(いままではなんのしょうそくもしないでいたじぶんがとがめられた。)

今まではなんの消息もしないでいた自分がとがめられた。

(ほんとうにきむらにもすまなかった。いまになってようやくながいあいだの)

ほんとうに木村にもすまなかった。今になってようやく長い間の

(きむらのこころのくるしさがそうぞうされる。もしさだよがたいいんするようになったら)

木村の心の苦しさが想像される。もし貞世が退院するようになったら

(ーーそしてたいいんするにきまっているがーーじぶんはなにをおいてもきむらに)

ーーそして退院するに決まっているがーー自分は何をおいても木村に

(てがみをかく。そうしたらどれほどこころがやすくそしてかるくなるかしれない。)

手紙を書く。そうしたらどれほど心が安くそして軽くなるかしれない。

(・・・ようこはもうそんなきょうがいがきてしまったようにかんがえて、だれとでも)

・・・葉子はもうそんな境涯が来てしまったように考えて、だれとでも

(そのよろこびをわかちたくおもった。で、いすにかけたままみぎうしろをむいて)

その喜びをわかちたく思った。で、椅子にかけたまま右後ろを向いて

(みると、ゆかいたのうえにさんじょうたたみをしいたへやのいちぐうにあいこがたわいもなく)

見ると、床板の上に三畳畳を敷いた部屋の一隅に愛子がたわいもなく

(すやすやとねむっていた。うるさがるのでさだよにはかやをつってなかったが、)

すやすやと眠っていた。うるさがるので貞世には蚊帳をつってなかったが、

(あいこのところにはちいさなしろいせいようかやがつってあった。そのこまかいめを)

愛子の所には小さな白い西洋蚊帳がつってあった。その細かい目を

(とおしてみるあいこのかおはにんぎょうのようにととのってうつくしかった。そのあいこを)

通して見る愛子の顔は人形のように整って美しかった。その愛子を

(これまでにくみとおしににくみ、うたがいとおしにうたがっていたのが、ふしぎを)

これまで憎み通しに憎み、疑い通しに疑っていたのが、不思議を

(とおりこして、きかいなことにさえおもわれた。ようこはにこにこしながら)

通り越して、奇怪な事にさえ思われた。葉子はにこにこしながら

(たっていってかやのそばによって、)

立って行って蚊帳のそばに寄って、

(「あいさん・・・あいさん」)

「愛さん・・・愛さん」

(そうかなりおおきなこえでよびかけた。)

そうかなり大きな声で呼びかけた。

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