有島武郎 或る女112
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問題文
(そのあたまのまわりにあてがわるべきりょうてのゆびはおもわずしらずくまでのように)
その頭のまわりにあてがわるべき両手の指は思わず知らず熊手のように
(おれまがって、はげしいちからのためにこまかくふるえた。ようこはきょうきにかわったような)
折れ曲がって、激しい力のために細かく震えた。葉子は凶器に変わったような
(そのてをひとにみられるのがおそろしかったので、ちゃわんとさじとをしょくたくに)
その手を人に見られるのが恐ろしかったので、茶わんと匙とを食卓に
(かえして、まえだれのしたにかくしてしまった。うわまぶたのいちもんじになっためを)
かえして、前だれの下に隠してしまった。上まぶたの一文字になった目を
(きりっとすえてはたとさだよをにらみつけた。ようこのめにはさだよのほかに)
きりっと据えてはたと貞世をにらみつけた。葉子の目には貞世のほかに
(そのへやのものはくらちからあいこにいたるまですっかりみえなくなって)
その部屋のものは倉地から愛子に至るまですっかり見えなくなって
(しまっていた。)
しまっていた。
(「たべないかい」)
「食べないかい」
(「たべないかい。たべなければうんぬん」とこごとをいってさだよを)
「食べないかい。食べなければ云々」と小言をいって貞世を
(せめるはずだったが、しょくをだしただけで、じぶんのこえのあまりに)
責めるはずだったが、初句を出しただけで、自分の声のあまりに
(はげしいふるえようにことばをきってしまった。)
激しい震えように言葉を切ってしまった。
(「たべない・・・たべない・・・ごはんでなくってはいやあだあ」)
「食べない・・・食べない・・・御飯でなくってはいやあだあ」
(ようこのこえのしたからすぐこうしたわがままなさだよのすねにすねたこえが)
葉子の声の下からすぐこうしたわがままな貞世のすねにすねた声が
(きこえたとようこはおもった。まっくろなちしおがどっとしんぞうをやぶってのうてんに)
聞こえたと葉子は思った。まっ黒な血潮がどっと心臓を破って脳天に
(つきすすんだとおもった。めのまえでさだよのかおがみっつにもよっつにもなっておよいだ。)
衝き進んだと思った。目の前で貞世の顔が三つにも四つにもなって泳いだ。
(そのあとにはいろもこえもしびれはててしまったようなあんこくのぼうががきた。)
そのあとには色も声もしびれ果ててしまったような暗黒の忘我が来た。
(「おねえさま・・・おねえさまひどい・・・いやあ・・・」)
「おねえ様・・・おねえ様ひどい・・・いやあ・・・」
(「ようちゃん・・・あぶない・・・」)
「葉ちゃん・・・あぶない・・・」
(さだよとくらちのこえとがもつれあって、とおいところからのようにきこえてくるのを、)
貞世と倉地の声とがもつれ合って、遠い所からのように聞こえて来るのを、
(ようこはだれかがなにかさだよにらんぼうをしているのだなとおもったり、)
葉子はだれかが何か貞世に乱暴をしているのだなと思ったり、
(このいきおいでいかなければさだよはころせやしないとおもったりしていた。)
この勢いで行かなければ貞世は殺せやしないと思ったりしていた。
(いつのまにかようこはただひとすじにさだよをころそうとばかりあせっていたのだ。)
いつのまにか葉子はただ一筋に貞世を殺そうとばかりあせっていたのだ。
(ようこはあんこくのなかでなにかじぶんにさからうちからとこんかぎりあらそいながら、)
葉子は暗黒の中で何か自分に逆らう力と根限りあらそいながら、
(ものすごいほどのちからをふりしぼってたたかっているらしかった。)
物すごいほどの力を振り絞ってたたかっているらしかった。
(なにがなんだかわからなかった。そのこんらんのなかに、あるいはいまじぶんは)
何がなんだかわからなかった。その混乱の中に、あるいは今自分は
(くらちののどぶえにはりのようになったじぶんのじゅっぽんのつめをたてて、ねじり)
倉地の喉笛に針のようになった自分の十本の爪を立てて、ねじり
(もがきながらあらそっているのではないかともおもった。それもやがて)
もがきながら争っているのではないかとも思った。それもやがて
(ゆめのようだった。とおざかりながらひとのこえともけもののこえともしれぬおんきょうが)
夢のようだった。遠ざかりながら人の声とも獣の声とも知れぬ音響が
(かすかにみみにのこって、むねのところにさしこんでくるいたみをはきけのように)
かすかに耳に残って、胸の所にさし込んで来る痛みを吐き気のように
(かんじたつぎのしゅんかんには、ようこはこんこんとしてねつもひかりもこえもないものすさまじい)
感じた次の瞬間には、葉子は昏々として熱も光も声もない物すさまじい
(あんこくのなかにまっさかさまにひたっていった。)
暗黒の中にまっさかさまに浸って行った。
(ふとようこはくすむるようなものをみみのところにかんじた。それがおんきょうだと)
ふと葉子は擽むるようなものを耳の所に感じた。それが音響だと
(わかるまでにはどのくらいのじかんがけいかしたかしれない。とにかくようこは)
わかるまでにはどのくらいの時間が経過したかしれない。とにかく葉子は
(がやがやというこえをだんだんとはっきりきくようになった。そして)
がやがやという声をだんだんとはっきり聞くようになった。そして
(ぽっかりしりょくをかいふくした。みるとようこはいぜんとしてさだよのびょうしつに)
ぽっかり視力を回復した。見ると葉子は依然として貞世の病室に
(いるのだった。あいこがうしろむきになってしんだいのうえにいるさだよを)
いるのだった。愛子が後ろ向きになって寝台の上にいる貞世を
(かいほうしていた。じぶんは・・・じぶんはとようこははじめてじぶんをみまわそうと)
介抱していた。自分は・・・自分はと葉子は始めて自分を見回そうと
(したが、からだはじゆうをうしなっていた。そこにはくらちがいてようこの)
したが、からだは自由を失っていた。そこには倉地がいて葉子の
(くびねっこにうでをまわして、ひざのうえにいっぽうのあしをのせて、しっかりと)
首根っこに腕を回して、膝の上に一方の足を乗せて、しっかりと
(だきすくめていた。そのあしのおもさがいたいほどかんじられだした。)
抱きすくめていた。その足の重さが痛いほど感じられ出した。
(やっぱりじぶんはくらちをしにがみのもとへおいこくろうとしていたのだなと)
やっぱり自分は倉地を死に神のもとへ追いこくろうとしていたのだなと
(おもった。そこにははくいをきたいしゃもかんごふもみえだした。)
思った。そこには白衣を着た医者も看護婦も見え出した。
(ようこはそれだけのことをみるときゅうにきのゆるむのをおぼえた。そしてなみだが)
葉子はそれだけの事を見ると急に気のゆるむのを覚えた。そして涙が
(ぼろぼろとでてしかたがなくなった。おかしな・・・どうしてこうなみだが)
ぼろぼろと出てしかたがなくなった。おかしな・・・どうしてこう涙が
(でるのだろうとあやしむうちに、やるせないひあいがどっとこみあげてきた。)
出るのだろうと怪しむうちに、やる瀬ない悲哀がどっとこみ上げて来た。
(そこのないようなさびしいひあい・・・そのうちにようこはひあいともねむさとも)
底のないようなさびしい悲哀・・・そのうちに葉子は悲哀とも睡さとも
(くべつのできないおもいちからにあっせられてまたちかくからもののないせかいに)
区別のできない重い力に圧せられてまた知覚から物のない世界に
(おちこんでいった。)
落ち込んで行った。
(ほんとうにようこがめをさましたときには、まっさおにせいてんのあとのゆうぐれが)
ほんとうに葉子が目をさました時には、まっさおに晴天の後の夕暮れが
(もよおしているころだった。ようこはへやのすみのさんじょうにかやのなかに)
催しているころだった。葉子は部屋のすみの三畳に蚊帳の中に
(よこになってねていたのだった。そこにはあいこのほかにおかもきあわせて)
横になって寝ていたのだった。そこには愛子のほかに岡も来合わせて
(さだよのせわをしていた。くらちはもういなかった。)
貞世の世話をしていた。倉地はもういなかった。
(あいこのいうところによると、ようこはさだよにそっぷをのまそうとして)
愛子のいう所によると、葉子は貞世にソップを飲まそうとして
(いろいろにいったが、ねつがさがってきゅうにしょくよくのついたさだよは)
いろいろにいったが、熱が下がって急に食欲のついた貞世は
(めしでなければどうしてもたべないといってきかなかったのを、)
飯でなければどうしても食べないといってきかなかったのを、
(ようこはなみだをながさんばかりになってしゅうねくそっぷを)
葉子は涙を流さんばかりになって執念(しゅうね)くソップを
(のませようとしたけっか、さだよはそこにあったそっぷざらをねていながら)
飲ませようとした結果、貞世はそこにあったソップ皿を臥ていながら
(ひっくりかえしてしまったのだった。そうするとようこはいきなりたちあがって)
ひっくり返してしまったのだった。そうすると葉子はいきなり立ち上がって
(さだよのむなもとをつかむなりしんだいからひきずりおろしてこづきまわした。)
貞世の胸もとをつかむなり寝台から引きずりおろしてこづき回した。
(さいわいにいあわしたくらちがだいじにならないうちにようこからさだよを)
幸いに居合わした倉地が大事にならないうちに葉子から貞世を
(とりはなしはしたが、こんどはようこはくらちにしにものぐるいにくってかかって、)
取り放しはしたが、今度は葉子は倉地に死に物狂いに食ってかかって、
(そのうちにはげしいしゃくをおこしてしまったのだとのことだった。)
そのうちに激しい癪を起してしまったのだとの事だった。
(ようこのこころはむなしくいたんだ。どこにとてとりつくものもないような)
葉子の心はむなしく痛んだ。どこにとて取りつくものもないような
(むなしさがこころにはのこっているばかりだった。さだよのねつはすっかりもとどおりに)
むなしさが心には残っているばかりだった。貞世の熱はすっかり元通りに
(のぼってしまって、ひどくおびえるらしいうわごとをたえまなしにくちばしった。)
のぼってしまって、ひどくおびえるらしい譫言を絶え間なしに口走った。
(ふしぶしはひどくいたみをおぼえながら、ほっさのすぎさったようこは、)
節々はひどく痛みを覚えながら、発作の過ぎ去った葉子は、
(ふだんどおりになっておきあがることもできるのだった。しかしようこは)
ふだんどおりになって起き上がる事もできるのだった。しかし葉子は
(あいこやおかへのてまえすぐおきあがるのもへんだったのでそのひはそのまま)
愛子や岡への手前すぐ起き上がるのも変だったのでその日はそのまま
(ねつづけた。)
寝続けた。
(さだよはこんどこそはしぬ。とうとうじぶんのまつろもきてしまった。)
貞世は今度こそは死ぬ。とうとう自分の末路も来てしまった。
(そうおもうとようこはやるかたなくかなしかった。たといさだよとじぶんとがさいわいに)
そう思うと葉子はやるかたなく悲しかった。たとい貞世と自分とが幸いに
(いきのこったとしても、さだよはきっとえいごうじぶんをいのちのかたきとうらむにちがいない。)
生き残ったとしても、貞世はきっと永劫自分を命の敵と怨むに違いない。
(「しぬにかぎる」)
「死ぬに限る」
(ようこはまどをとおしてあおからあいにかわっていきつつあるしょかのよるのけしきを)
葉子は窓を通して青から藍に変わって行きつつある初夏の夜の景色を
(ながめた。しんぴてきなおだやかさとふかさとはのうしんにしみとおるようだった。)
ながめた。神秘的な穏やかさと深さとは脳心にしみ通るようだった。
(さだよのまくらもとにはわかいおかとあいことがむつまじげにいたりたったりして)
貞世の枕もとには若い岡と愛子とがむつまじげに居たり立ったりして
(さだよのかんごによねんなくみえた。そのときのようこにはそれはうつくしくさえみえた。)
貞世の看護に余念なく見えた。その時の葉子にはそれは美しくさえ見えた。
(しんせつなおか、じゅうじゅんなあいこ・・・ふたりがあいしあうのはとうぜんでいいことらしい。)
親切な岡、柔順な愛子・・・二人が愛し合うのは当然でいい事らしい。
(「どうせすべてはすぎさるのだ」)
「どうせすべては過ぎ去るのだ」
(ようこはうつくしいふしぎなげんえいでもみるように、でんきとうのみどりのひかりのなかにたつ)
葉子は美しい不思議な幻影でも見るように、電気灯の緑の光の中に立つ
(ふたりのすがたを、むじょうをみぬいたいんじゃのようなこころになってうちながめた。)
二人の姿を、無常を見ぬいた隠者のような心になって打ちながめた。