有島武郎 或る女113

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問題文

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(よんじゅうごこのことがあったひからいつかたったけれどもくらちはぱったり)

【四五】 この事があった日から五日たったけれども倉地はぱったり

(こなくなった。たよりもよこさなかった。かねもおくってはこなかった。)

来なくなった。たよりもよこさなかった。金も送っては来なかった。

(あまりにへんなのでおかにたのんでげしゅくのほうをしらべてもらうとみっかまえに)

あまりに変なので岡に頼んで下宿のほうを調べてもらうと三日前に

(にもつのだいぶぶんをもってりょこうにでるといってすがたをかくしてしまったのだそうだ。)

荷物の大部分をもって旅行に出るといって姿を隠してしまったのだそうだ。

(くらちがいなくなるとけいじだというおとこがにどかさんどいろいろなことをたずねに)

倉地がいなくなると刑事だという男が二度か三度いろいろな事を尋ねに

(きたともいっているそうだ。おかはくらちからのいっつうのてがみをもって)

来たともいっているそうだ。岡は倉地からの一通の手紙を持って

(かえってきた。ようこはすぐにふうをひらいてみた。)

帰って来た。葉子はすぐに封を開いて見た。

(「ことじゅうだいとなりすがたをかくす。ゆうびんではるいをおよぼさんことをおそれ、これをしゅじんに)

「事重大となり姿を隠す。郵便では累を及ぼさん事を恐れ、これを主人に

(たくしおく。かねもとうぶんはおくれぬ。こまったらかざいどうぐをうれ。そのうちには)

託しおく。金も当分は送れぬ。困ったら家財道具を売れ。そのうちには

(なんとかする。どくごかちゅう」)

なんとかする。読後火中」

(とだけしたためてようこへのあてなもじぶんのなもかいてはなかった。)

とだけしたためて葉子へのあて名も自分の名も書いてはなかった。

(くらちのしゅせきにはまちがいない。しかしあのほっさいごますますひすてりっくに)

倉地の手跡には間違いない。しかしあの発作以後ますますヒステリックに

(こんじょうのひねくれてしまったようこは、てがみをよんだしゅんかんにこれはつくりごとだと)

根性のひねくれてしまった葉子は、手紙を読んだ瞬間にこれは造り事だと

(おもいこまないではいられなかった。とうとうくらちもじぶんのてから)

思い込まないではいられなかった。とうとう倉地も自分の手から

(のがれられてしまった。やるせないうらみといきどおりがめもくらむほどに)

のがれられてしまった。やる瀬ない恨みと憤りが目もくらむほどに

(あたまのなかをかきみだした。)

頭の中を攪き乱した。

(おかとあいことがすっかりうちとけたようになって、おかがほとんど)

岡と愛子とがすっかり打ち解けたようになって、岡がほとんど

(いりびたりにびょういんにきてさだよのかいほうをするのがようこには)

入りびたりに病院に来て貞世の介抱をするのが葉子には

(みていられなくなってきた。)

見ていられなくなって来た。

(「おかさん、もうあなたこれからここにはいらっしゃらないでくださいまし。)

「岡さん、もうあなたこれからここにはいらっしゃらないでくださいまし。

など

(こんなことになるとごめいわくがあなたにかからないともかぎりませんから。)

こんな事になると御迷惑があなたにかからないとも限りませんから。

(わたしたちのことはわたしたちがしますから。わたしはもうたにんに)

わたしたちの事はわたしたちがしますから。わたしはもう他人に

(たよりたくはなくなりました」)

頼りたくはなくなりました」

(「そうおっしゃらずにどうかわたしをあなたのおそばにおかしてください。)

「そうおっしゃらずにどうかわたしをあなたのおそばに置かしてください。

(わたし、けっしてでんせんなぞをおそれはしません」)

わたし、決して伝染なぞを恐れはしません」

(おかはくらちのてがみをよんではいないのにようこはきがついた。めいわくといったのを)

岡は倉地の手紙を読んではいないのに葉子は気がついた。迷惑といったのを

(びょうきのでんせんとおもいこんでいるらしい。そうじゃない。)

病気の伝染と思い込んでいるらしい。そうじゃない。

(おかがくらちのいぬでないとどうしていえよう。くらちがおかをとおしてあいこといんぎんを)

岡が倉地の犬でないとどうしていえよう。倉地が岡を通して愛子と慇懃を

(かよわしあっていないとだれがだんげんできる。あいこはおかをたらしこむぐらいは)

通わし合っていないとだれが断言できる。愛子は岡をたらし込むぐらいは

(へいきでするむすめだ。ようこはじぶんのあいこぐらいのとしごろのときのじぶんのけいけんの)

平気でする娘だ。葉子は自分の愛子ぐらいの年ごろの時の自分の経験の

(いちいちがいきかえってさいぎしんをあおりたてるのにじぶんからくるしまねば)

一々が生き返って猜疑心をあおり立てるのに自分から苦しまねば

(ならなかった。あのとしごろのとき、おもいさえすればじぶんにはそれほどのことは)

ならなかった。あの年ごろの時、思いさえすれば自分にはそれほどの事は

(てもなくしてのけることができた。そしてじぶんはあいこよりももっとむじゃきな、)

手もなくしてのける事ができた。そして自分は愛子よりももっと無邪気な、

(おまけにかいかつなしょうじょでありえた。よってたかってじぶんをだましに)

おまけに快活な少女であり得た。寄ってたかって自分をだましに

(かかるのなら、じぶんにだってしてみせることがある。)

かかるのなら、自分にだってして見せる事がある。

(「そんなにおかんがえならおいでくださるのはおかってですが、あいこをあなたに)

「そんなにお考えならおいでくださるのはお勝手ですが、愛子をあなたに

(さしあげることはできないんですからそれはごしょうちくださいましよ。)

さし上げる事はできないんですからそれは御承知くださいましよ。

(ちゃんともうしあげておかないとあとになっていさくさがおこるのは)

ちゃんと申し上げておかないと後になっていさくさが起こるのは

(いやですから・・・あいさんおまえもきいているだろうね」)

いやですから・・・愛さんお前も聞いているだろうね」

(そういってようこはたたみのうえでさだよのむねにあてるしっぷをぬっているあいこのほうにも)

そういって葉子は畳の上で貞世の胸にあてる湿布を縫っている愛子のほうにも

(ふりむいた。うなだれたあいこはかおもあげずへんじもしなかったから、)

振り向いた。うなだれた愛子は顔も上げず返事もしなかったから、

(どんなようすをかおにみせたかをしるよしはなかったが、おかはしゅうちのために)

どんな様子を顔に見せたかを知る由はなかったが、岡は羞恥のために

(ようこをみかえることもできないくらいになっていた。それはしかしおかが)

葉子を見返る事もできないくらいになっていた。それはしかし岡が

(ようこのあまりといえばろこつなことばをはじたのか、じぶんのこころもちを)

葉子のあまりといえば露骨な言葉を恥じたのか、自分の心持ちを

(あばかれたのをはじたのかようこのまよいやすくなったこころには)

あばかれたのを恥じたのか葉子の迷いやすくなった心には

(しっかりとみきわめられなかった。)

しっかりと見窮められなかった。

(これにつけかれにつけもどかしいことばかりだった。)

これにつけかれにつけもどかしい事ばかりだった。

(ようこはじぶんのめでふたりをかんししてどうじにくらちをかんせつにかんしするよりほかは)

葉子は自分の目で二人を看視して同時に倉地を間接に看視するよりほかは

(ないとおもった。こんなことをおもうすぐそばからようこはくらちのさいくんのこともおもった。)

ないと思った。こんな事を思うすぐそばから葉子は倉地の細君の事も思った。

(いまごろはかれらはのうのうとしてじゃまものがいなくなったのをよろこびながら)

今ごろは彼らはのうのうとして邪魔者がいなくなったのを喜びながら

(ひとつやにすんでいないともかぎらないのだ。それともくらちのことだ、)

一つ家に住んでいないとも限らないのだ。それとも倉地の事だ、

(だいにだいさんのようこがようこのふこうをいいことにしてくらちのそばにあらわれて)

第二第三の葉子が葉子の不幸をいい事にして倉地のそばに現われて

(いるのかもしれない。・・・しかしいまのばあいくらちのゆくえをたずねあてることは)

いるのかもしれない。・・・しかし今の場合倉地の行方を尋ねあてる事は

(ちょっとむずかしい。)

ちょっとむずかしい。

(それからというものようこのこころはいちびょうのあいだもやすまらなかった。)

それからというもの葉子の心は一秒の間も休まらなかった。

(もちろんいままででもようこはひといちばいこころのはたらくおんなだったけれども、そのころの)

もちろん今まででも葉子は人一倍心の働く女だったけれども、そのころの

(ようなはげしさはかつてなかった。しかもそれがいつもおもてからうらをいく)

ような激しさはかつてなかった。しかもそれがいつも表から裏を行く

(はたらきかただった。それはじぶんながらまったくじごくのかしゃくだった。)

働きかただった。それは自分ながら全く地獄の呵責だった。

(そのころからようこはしばしばじさつということをふかくかんがえるようになった。)

そのころから葉子はしばしば自殺という事を深く考えるようになった。

(それはじぶんでもおそろしいほどだった。)

それは自分でも恐ろしいほどだった。

(にくたいのせいめいをたつことのできるようなものさえめにふれれば、ようこのこころは)

肉体の生命を絶つ事のできるような物さえ目に触れれば、葉子の心は

(おびえながらもはっとたかなった。やっきょくのまえをとおるとずらっとならんだやくびんが)

おびえながらもはっと高鳴った。薬局の前を通るとずらっと並んだ薬瓶が

(ゆうわくのようにめをいた。かんごふがぼうしをかみにとめるためのながいぼうしぴん、)

誘惑のように目を射た。看護婦が帽子を髪にとめるための長い帽子ピン、

(てんじょうのはってないゆどののはり、かんごふしつにうすあかいいろをしてかなだらいに)

天井の張ってない湯殿の梁、看護婦室に薄赤い色をして金だらいに

(たたえられたしょうこうすい、ふはいしたぎゅうにゅう、かみそり、はさみ、みっぺいされたへや、)

たたえられた昇汞水、腐敗した牛乳、剃刀、鋏、密閉された部屋、

(しごきおび、・・・なんでもかでもがじぶんのにくをはむどくじゃのごとく)

しごき帯、・・・何でもかでもが自分の肉を喰む毒蛇のごとく

(かまくびをたててじぶんをまちぶせしているようにおもえた。あるときはそれらを)

鎌首を立てて自分を待ち伏せしているように思えた。ある時はそれらを

(このうえなくおそろしく、あるときはまたこのうえなくしたしみぶかくながめやった。)

この上なく恐ろしく、ある時はまたこの上なく親しみ深くながめやった。

(いっぴきのかにさされたときさえそれがまらりやをつたえるしゅるいであるかないかを)

一匹の蚊にさされた時さえそれがマラリヤを伝える種類であるかないかを

(うたがったりした。)

疑ったりした。

(「もうじぶんはこのよのなかになんのようがあろう。しにさえすればそれで)

「もう自分はこの世の中に何の用があろう。死にさえすればそれで

(ことはすむのだ。このうえじしんもくるしみたくない。たにんもくるしめたくない。)

事は済むのだ。この上自身も苦しみたくない。他人も苦しめたくない。

(いやだいやだとおもいながらじぶんとたにんとをくるしめているのがたえられない。)

いやだいやだと思いながら自分と他人とを苦しめているのが堪えられない。

(ねむりだ。ながいねむりだ。それだけのものだ」)

眠りだ。長い眠りだ。それだけのものだ」

(とさだよのねいきをうかがいながらしっかりおもいこむようなときもあったが、)

と貞世の寝息をうかがいながらしっかり思い込むような時もあったが、

(どうじにくらちがどこかでいきているのをかんがえると、たちまちつばめがえしに)

同時に倉地がどこかで生きているのを考えると、たちまち燕返しに

(しからせいのほうへ、くるしいぼんのうのせいのほうへはげしくしゅうちゃくしていった。)

死から生のほうへ、苦しい煩悩の生のほうへ激しく執着して行った。

(くらちのいきているあいだにしんでなるものか・・・それはしよりもつよい)

倉地の生きている間に死んでなるものか・・・それは死よりも強い

(ゆうわくだった。いじにかけても、にくたいのすべてのきかんがめちゃめちゃに)

誘惑だった。意地にかけても、肉体のすべての機関がめちゃめちゃに

(なっても、それでもいきていてみせる。・・・ようこはそしてそのどちらにも)

なっても、それでも生きていて見せる。・・・葉子はそしてそのどちらにも

(ほんとうのけっしんがつかないじぶんにまたくるしまねばならなかった。)

ほんとうの決心がつかない自分にまた苦しまねばならなかった。

(すべてのものをあいしているのかにくんでいるのかわからなかった。)

すべてのものを愛しているのか憎んでいるのかわからなかった。

(さだよにたいしてですらそうだった。ようこはどうかすると、ねつにうかされて)

貞世に対してですらそうだった。葉子はどうかすると、熱に浮かされて

(みさかいのなくなっているさだよを、ままははがままこをいびりぬくように)

見境のなくなっている貞世を、継母が継子をいびり抜くように

(もぎどうにとりあつかった。そしてつぎのしゅんかんにはこうかいしきって、あいこのまえでも)

没義道に取り扱った。そして次の瞬間には後悔しきって、愛子の前でも

(かんごふのまえでもかまわずにおいおいとなきくずおれた。)

看護婦の前でも構わずにおいおいと泣きくずおれた。

(さだよのびょうじょうはわるくなるばかりだった。)

貞世の病状は悪くなるばかりだった。

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