有島武郎 或る女114

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問題文

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(あるときでんせんびょうしつのいちょうがきて、ようこがいまのままでいてはとてもけんこうが)

ある時伝染病室の医長が来て、葉子が今のままでいてはとても健康が

(つづかないから、おもいきってしゅじゅつをしたらどうだとかんこくした。)

続かないから、思いきって手術をしたらどうだと勧告した。

(だまってきいていたようこは、すぐおかのさしいれぐちだとじゃすいしてとった。)

黙って聞いていた葉子は、すぐ岡の差し入れ口だと邪推して取った。

(そのうしろにはあいこがいるにちがいない。ようこがついていたのでは)

その後ろには愛子がいるに違いない。葉子が付いていたのでは

(さだよのびょうきはなおるどころかわるくなるばかりだ(それはようこも)

貞世の病気はなおるどころか悪くなるばかりだ(それは葉子も

(そうおもっていた。ようこはさだよをぜんかいさせてやりたいのだ。けれども)

そう思っていた。葉子は貞世を全快させてやりたいのだ。けれども

(どうしてもいびらなければいられないのだ。それはよくようこじしんが)

どうしてもいびらなければいられないのだ。それはよく葉子自身が

(しっているとおもっていた)。それにはようこをなんとかしてさだよから)

知っていると思っていた)。それには葉子をなんとかして貞世から

(はなしておくのがだいいちだ。そんなそうだんをいちょうとしたものがいないはずがない。)

離しておくのが第一だ。そんな相談を医長としたものがいないはずがない。

(ふむ、・・・うまいことをかんがえたものだ。そのふくしゅうはきっとしてやる。)

ふむ、・・・うまい事を考えたものだ。その復讐はきっとしてやる。

(こんぽんてきにびょうきをなおしてからしてやるからみているがいい。)

根本的に病気をなおしてからしてやるから見ているがいい。

(ようこはいちょうとのたいわのなかにはやくもこうけっしんした。そうしておもいのほか)

葉子は医長との対話の中に早くもこう決心した。そうして思いのほか

(てっとりばやくしゅじゅつをうけようとすすんでへんとうした。)

手っ取り早く手術を受けようと進んで返答した。

(ふじんかのへやはでんせんびょうしつとはずっとはなれたところにちかごろしんちくされたたてものの)

婦人科の室(へや)は伝染病室とはずっと離れた所に近ごろ新築された建物の

(なかにあった。しちがつのなかばにようこはそこににゅういんすることになったが、)

中にあった。七月の半ばに葉子はそこに入院する事になったが、

(そのまえにおかとことうとにいらいして、じぶんのみぢかにあるきちょうひんから、)

その前に岡と古藤とに依頼して、自分の身近にある貴重品から、

(くらちのげしゅくにはこんであるいるいまでをしょぶんしてもらわなければならなかった。)

倉地の下宿に運んである衣類までを処分してもらわなければならなかった。

(かねのでどころはまったくとだえてしまっていたから。)

金の出所は全くとだえてしまっていたから。

(おかがしきりとゆうずうしようともうしでたのもすげなくことわった。おとうとどうようの)

岡がしきりと融通しようと申し出たのもすげなく断わった。弟同様の

(しょうねんからかねまでゆうずうしてもらうのはどうしてもようこのぷらいどが)

少年から金まで融通してもらうのはどうしても葉子のプライドが

など

(しょうちしなかった。)

承知しなかった。

(ようこはとくとうをえらんでひあたりのいいひろびろとしたへやにはいった。そこは)

葉子は特等を選んで日当たりのいい広々とした部屋にはいった。そこは

(でんせんびょうしつとはくらべものにもならないくらいしんしきのせつびのととのった)

伝染病室とは比べものにもならないくらい新式の設備の整った

(いごこちのいいところだった。まどのまえのにわはまだほりくりかえしたままで)

居心地のいい所だった。窓の前の庭はまだ掘りくり返したままで

(あかつちのうえにくさもはえていなかったけれども、ひろいろうかのひややかなくうきは)

赤土の上に草も生えていなかったけれども、広い廊下の冷ややかな空気は

(すずしくびょうしつにとおりぬけた。ようこはろくがつのすえいらいはじめてねどこのうえに)

涼しく病室に通りぬけた。葉子は六月の末以来始めて寝床の上に

(やすやすとからだをよこたえた。ひろうがかいふくするまでしばらくのあいだしゅじゅつは)

安々とからだを横たえた。疲労が回復するまでしばらくの間手術は

(みあわせるというのでようこはまいにちいちどずつないしんをしてもらうだけで)

見合わせるというので葉子は毎日一度ずつ内診をしてもらうだけで

(することもなくひをすごした。)

する事もなく日を過ごした。

(しかしようこのせいしんはこうふんするばかりだった。)

しかし葉子の精神は興奮するばかりだった。

(ひとりになってひまになってみると、じぶんのしんしんがどれほどはかいされているかが)

一人になって暇になってみると、自分の心身がどれほど破壊されているかが

(じぶんながらおそろしいくらいかんぜられた。よくこんなありさまでいままで)

自分ながら恐ろしいくらい感ぜられた。よくこんなありさまで今まで

(とおしてきたとおどろくばかりだった。しんだいのうえにねてみるとにどとおきてあるく)

通して来たと驚くばかりだった。寝台の上に臥てみると二度と起きて歩く

(ゆうきもなく、またじっさいできもしなかった。ただどんつうとのみおもっていた)

勇気もなく、また実際できもしなかった。ただ鈍痛とのみ思っていた

(いたみは、どっちにねがえってみてもがまんのできないほどなげきつうになっていて、)

痛みは、どっちに臥返ってみても我慢のできないほどな激痛になっていて、

(きがくるうようにあたまはおもくうずいた。がまんにもさだよをみまうなどということは)

気が狂うように頭は重くうずいた。我慢にも貞世を見舞うなどという事は

(できなかった。)

できなかった。

(こうしてねながらにもようこはだんぺんてきにいろいろなことをかんがえた。)

こうして臥ながらにも葉子は断片的にいろいろな事を考えた。

(じぶんのてもとにあるかねのことをまずしあんしてみた。くらちからうけとったかねの)

自分の手もとにある金の事をまず思案してみた。倉地から受け取った金の

(のこりと、ちょうどるいをうりはらってもらってできたまとまったかねとが)

残りと、調度類を売り払ってもらってできたまとまった金とが

(なにもかにもこれからしまいさんにんをやしなっていくただひとつのしほんだった。)

何もかにもこれから姉妹三人を養って行くただ一つの資本だった。

(そのかねがつかいつくされたあとにはいまのところ、なにをどうするというあては)

その金が使い尽くされた後には今の所、何をどうするという目途(あて)は

(つゆほどもなかった。ようこはふだんのようこににあわずそれがきになりだして)

露ほどもなかった。葉子はふだんの葉子に似合わずそれが気になり出して

(しかたがなかった。とくとうしつなぞにはいりこんだことがこうかいされるばかりだった。)

しかたがなかった。特等室なぞにはいり込んだ事が後悔されるばかりだった。

(といっていまになってとうきゅうのさがったびょうしつにうつしてもらうなどとは)

といって今になって等級の下がった病室に移してもらうなどとは

(ようことしてはおもいもよらなかった。)

葉子としては思いもよらなかった。

(ようこはぜいたくなしんだいのうえによこになって、はねまくらにふかぶかとあたまをしずめて、)

葉子はぜいたくな寝台の上に横になって、羽根枕に深々と頭を沈めて、

(ひょうのうをひたいにあてがいながら、かんかんとあかつちにさしているまなつのひのひかりを、)

氷嚢を額にあてがいながら、かんかんと赤土にさしている真夏の日の光を、

(ひろびろととったまどをとおしてながめやった。そうしてものごころついてからの)

広々と取った窓を通してながめやった。そうして物心ついてからの

(じぶんのかこをはりでもみこむようなあたまのなかでずっとみわたすように)

自分の過去を針で揉み込むような頭の中でずっと見渡すように

(かんがえたどってみた。そんなかこがじぶんのものなのか、そううたがってみねば)

考えたどってみた。そんな過去が自分のものなのか、そう疑って見ねば

(ならぬほどにそれははるかにもかけへだたったことだった。)

ならぬほどにそれははるかにもかけ隔たった事だった。

(ちちははーーことにちちのなめるようなちょうあいのもとになにひとつくろうを)

父母ーーことに父のなめるような寵愛の下(もと)に何一つ苦労を

(しらずにきよいうつくしいどうじょとしてすらすらとそだったあのじぶんが)

知らずに清い美しい童女としてすらすらと育ったあの時分が

(やはりじぶんのかこなのだろうか。)

やはり自分の過去なのだろうか。

(きべとのこいによいふけって、こくぶんじのくぬぎのはやしのなかで、そのむねに)

木部との恋に酔いふけって、国分寺の櫟の林の中で、その胸に

(じぶんのあたまをたくして、きべのいういちごいちごをびしゅのようにのみほした)

自分の頭を託して、木部のいう一語一語を美酒のように飲みほした

(あのしょうじょはやはりじぶんなのだろうか。)

あの少女はやはり自分なのだろうか。

(おんなのほこりというほこりをいっしんにあつめたようなびぼうとさいのうのもちぬしとして、)

女の誇りという誇りを一身に集めたような美貌と才能の持ち主として、

(おんなたちからはせんぼうのまととなり、おとこたちからはたんびのさいだんとされた)

女たちからは羨望の的となり、男たちからは嘆美の祭壇とされた

(あのせいしゅんのじょせいはやはりこのじぶんなのだろうか。)

あの青春の女性はやはりこの自分なのだろうか。

(ごかいのなかにもこうげきのなかにもこうぜんとくびをもたげて、じぶんはいまのにほんにうまれて)

誤解の中にも攻撃の中にも昂然と首をもたげて、自分は今の日本に生まれて

(くべきおんなではなかったのだ。ふこうにもときとところとをまちがえててんじょうから)

来(く)べき女ではなかったのだ。不幸にも時と所とを間違えて天上から

(おくられたおうじょであるとまでじぶんにたいするほこりにみちていた、)

送られた王女であるとまで自分に対する 矜誇(ほこり)に満ちていた、

(あのようえんなじょせいはまごうかたなくじぶんなのだろうか。)

あの妖婉な女性はまごうかたなく自分なのだろうか。

(えじままるのなかであじわいつくしなめつくしたかんらくととうすいとのかぎりは、)

絵島丸の中で味わい尽くしなめ尽くした歓楽と陶酔との限りは、

(はじめてよにうまれでたいきがいをしみじみとかんじたほこりがな)

始めて世に生まれ出た生きがいをしみじみと感じた誇りがな

(しばらくはいまのじぶんとむすびつけていいかこのひとつなのだろうか・・・)

しばらくは今の自分と結びつけていい過去の一つなのだろうか・・・

(ひはかんかんとあかつちのうえにてりつけていた。あぶらぜみのこえはごてんのいけを)

日はかんかんと赤土の上に照りつけていた。油蝉の声は御殿の池を

(めぐるうっそうたるこだちのほうからしみいるようにきこえていた。)

めぐる鬱蒼たる木立ちのほうからしみ入るように聞こえていた。

(ちかいびょうしつではけいびょうのかんじゃがあつまって、なにかみだららしいざつだんに)

近い病室では軽病の患者が集まって、何かみだららしい雑談に

(わらいきょうじているこえがきこえてきた。)

笑い興じている声が聞こえて来た。

(それはじっさいなのかゆめなのか。)

それは実際なのか夢なのか。

(それらのすべてははらだたしいことなのか、かなしいことなのか、)

それらのすべては腹立たしい事なのか、哀しい事なのか、

(わらいすつべきことなのか、なげきうらまねばならぬことなのか。)

笑い捨つべき事なのか、嘆き恨まねばならぬ事なのか。

(・・・きどあいらくのどれかひとつだけではあらわしえない、ふしぎにこうさくしたかんじょうが、)

・・・喜怒哀楽のどれか一つだけでは表わし得ない、不思議に交錯した感情が、

(ようこのめからとめどなくなみだをさそいだした。あんなせかいがこんなせかいに)

葉子の目からとめどなく涙を誘い出した。あんな世界がこんな世界に

(かわってしまった。そうださだよがせいしのさかいにさまよっているのは)

変わってしまった。そうだ貞世が生死の境にさまよっているのは

(まちがいようのないじじつだ。じぶんのけんこうがおとろえはてたのもまちがいのない)

間違いようのない事実だ。自分の健康が衰え果てたのも間違いのない

(できごとだ。もしまいにちさだよをみまうことができるのならばこのままここに)

出来事だ。もし毎日貞世を見舞う事ができるのならばこのままここに

(いるのもいい。しかしじぶんのからだのじゆうさえいまはきかなくなった。)

いるのもいい。しかし自分のからだの自由さえ今はきかなくなった。

(しゅじゅつをうければどうせとうぶんはみうごきもできないのだ。おかやあいこ・・・)

手術を受ければどうせ当分は身動きもできないのだ。岡や愛子・・・

(そこまでくるとようこはゆめのなかにいるおんなではなかった。まざまざとしたぼんのうが)

そこまで来ると葉子は夢の中にいる女ではなかった。まざまざとした煩悩が

(ぼつぜんとしてそのはがみしたものすごいかまくびをきっともたげるのだった。)

勃然としてその歯がみした物すごい鎌首をきっともたげるのだった。

(それもよし。ちかくいてもかんしのきかないのをりようしたくばおもうさま)

それもよし。近くいても看視のきかないのを利用したくば思うさま

(りようするがいい。くらちとさんにんでかってないんぼうをくわだてるがいい。どうせ)

利用するがいい。倉地と三人で勝手な陰謀を企てるがいい。どうせ

(かんしのきかないものなら、じぶんはさだよのためにどこかだいにりゅうかだいさんりゅうの)

看視のきかないものなら、自分は貞世のためにどこか第二流か第三流の

(びょういんにうつろう。そしていくらでもさだよのほうをあんらくにしてやろう。)

病院に移ろう。そしていくらでも貞世のほうを安楽にしてやろう。

(ようこはさだよからはなれるといちずにそのあわれさがみにしみてこうおもった。)

葉子は貞世から離れるといちずにそのあわれさが身にしみてこう思った。

(ようこはふとつやのことをおもいだした。つやはかんごふになってきょうばしあたりの)

葉子はふとつやの事を思い出した。つやは看護婦になって京橋あたりの

(びょういんにいるとそうかくかんからいってきたのをおもいだした。あいこをよびよせて)

病院にいると双鶴館からいって来たのを思い出した。愛子を呼び寄せて

(でんわでさがさせようとけっしんした。)

電話でさがさせようと決心した。

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