有島武郎 或る女116
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問題文
(「あなたはふたりからなにかそんなことをいわれたおぼえがあるでしょう。)
「あなたは二人から何かそんな事をいわれた覚えがあるでしょう。
(そのときあなたはなんとごへんじしたの」)
その時あなたはなんと御返事したの」
(あいこはしたをむいたままだまっていた。ようこはずぼしをさしたとおもって)
愛子は下を向いたまま黙っていた。葉子は図星をさしたと思って
(かさにかかっていった。)
嵩にかかって行った。
(「わたしはかんがえがあるからあなたのくちからもそのことをきいて)
「わたしは考えがあるからあなたの口からもその事を聞いて
(おきたいんだよ。おっしゃいな」)
おきたいんだよ。おっしゃいな」
(「おふたりともなんにもそんなことはおっしゃりはしませんわ」)
「お二人ともなんにもそんな事はおっしゃりはしませんわ」
(「おっしゃらないことがあるもんかね」)
「おっしゃらない事があるもんかね」
(ふんぬにともなってさしこんでくるいたみをふんぬとともにぐっとおさえつけながら)
憤怒に伴ってさしこんで来る痛みを憤怒と共にぐっと押さえつけながら
(ようこはわざとこえをやわらげた。そうしてあいこのきょどうをつめのさきほども)
葉子はわざと声を和らげた。そうして愛子の挙動を爪の先ほども
(みのがすまいとした。)
見のがすまいとした。
(あいこはだまってしまった。)
愛子は黙ってしまった。
(このちんもくはあいこのかくれがだった。そうなるとさすがのようこもこのいもうとを)
この沈黙は愛子の隠れ家だった。そうなるとさすがの葉子もこの妹を
(どうとりあつかうすべもなかった。おかなりことうなりがこくはくをしているのなら、)
どう取り扱う術もなかった。岡なり古藤なりが告白をしているのなら、
(ようこがこのつぎにいいだすことばでようすはしれる。このばあいうっかり)
葉子がこの次にいい出す言葉で様子は知れる。この場合うっかり
(ようこのくちぐるまにはのられないとあいこはおもってちんもくをまもっているのかも)
葉子の口車には乗られないと愛子は思って沈黙を守っているのかも
(しれない。おかなりことうなりからなにかきいているのなら、ようこはそれを)
しれない。岡なり古藤なりから何か聞いているのなら、葉子はそれを
(じゅうばいもにじゅうばいものつよさにしてつかいこなすすべをしっているのだけれども、)
十倍も二十倍もの強さにして使いこなす術を知っているのだけれども、
(あいにくそのそなえはしていなかった。あいこはたしかにじぶんをあなどりだしていると)
あいにくその備えはしていなかった。愛子は確かに自分をあなどり出していると
(ようこはおもわないではいられなかった。よってたかっておおきなさぎのあみを)
葉子は思わないではいられなかった。寄ってたかって大きな詐偽の網を
(つくって、そのなかにじぶんをおしこめて、しゅういからながめながら)
造って、その中に自分を押し込めて、周囲からながめながら
(おもしろそうにわらっている。おかだろうがことうだろうがなにがあてに)
おもしろそうに笑っている。岡だろうが古藤だろうが何があてに
(なるものか。・・・ようこはてきずをおったいのししのようにいっちょくせんにあれていくより)
なるものか。・・・葉子は手傷を負った猪のように一直線に荒れて行くより
(しかたがなくなった。)
しかたがなくなった。
(「さあおいいあいさん、おまえさんがだまってしまうのはわるいくせですよ。)
「さあお言い愛さん、お前さんが黙ってしまうのは悪い癖ですよ。
(ねえさんをあまくおみでないよ。・・・おまえさんほんとうにだまってる)
ねえさんを甘くお見でないよ。・・・お前さんほんとうに黙ってる
(つもりかい・・・そうじゃないでしょう、あればあるなければないで、)
つもりかい・・・そうじゃないでしょう、あればあるなければないで、
(はっきりわかるようにはなしをしてくれるんだろうね・・・あいさん)
はっきりわかるように話をしてくれるんだろうね・・・愛さん
(・・・あなたはこころからわたしをみくびってかかるんだね」)
・・・あなたは心からわたしを見くびってかかるんだね」
(「そうじゃありません」)
「そうじゃありません」
(あまりようこのことばがげきしてくるので、あいこはすこしおそれをかんじたらしく)
あまり葉子の言葉が激して来るので、愛子は少しおそれを感じたらしく
(あわててこういってことばでささえようとした。)
あわててこういって言葉でささえようとした。
(「もっとこっちにおいで」)
「もっとこっちにおいで」
(あいこはうごかなかった。ようこのあいこにたいするぞうおはきょくてんにたっした。)
愛子は動かなかった。葉子の愛子に対する憎悪は極点に達した。
(ようこはふくぶのいたみもわすれて、ねどこからおどりあがった。)
葉子は腹部の痛みも忘れて、寝床から跳(おど)り上がった。
(そうしていきなりあいこのたぶさをつかもうとした。)
そうしていきなり愛子の髻をつかもうとした。
(あいこはふだんのれいせいににず、ようこのほっさをみてとると、)
愛子はふだんの冷静に似ず、葉子の発作を見て取ると、
(びんしょうにようこのてもとをすりぬけてみをかわした。)
敏捷に葉子の手もとをすり抜けて身をかわした。
(ようこはふらふらとよろけていっぽうのてをしょうじがみにつっこみながら、)
葉子はふらふらとよろけて一方の手を障子紙に突っ込みながら、
(それでもたおれるはずみにあいこのそでさきをつかんだ。ようこはたおれながら)
それでも倒れるはずみに愛子の袖先をつかんだ。葉子は倒れながら
(それをたぐりよせた。)
それをたぐり寄せた。
(みにくいしまいのそうとうが、なき、わめき、さけびたてるこえのなかにえんぜられた。)
醜い姉妹の争闘が、泣き、わめき、叫び立てる声の中に演ぜられた。
(あいこはかおやてにかききずをうけ、かみをおどろにみだしながらも、ようやく)
愛子は顔や手に掻き傷を受け、髪をおどろに乱しながらも、ようやく
(ようこのてをふりはなしてろうかにとびだした。ようこはよろよろとしたあしどりで)
葉子の手を振り放して廊下に飛び出した。葉子はよろよろとした足取りで
(そのあとをおったが、とてもあいこのびんしょうさにはかなわなかった。)
そのあとを追ったが、とても愛子の敏捷さにはかなわなかった。
(そしてはしごだんのおりぐちのところでつやにくいとめられてしまった。ようこは)
そして階子段の降り口の所でつやに食い止められてしまった。葉子は
(つやのかたにみをなげかけながらおいおいとこえをたててこどものように)
つやの肩に身を投げかけながらおいおいと声を立てて子供のように
(なきしずんでしまった。)
泣き沈んでしまった。
(いくじかんかのじんじふせいのあとにいしきがはっきりしてみると、ようこは)
幾時間かの人事不省の後に意識がはっきりして見ると、葉子は
(あいことのいきさつをただあくむのようにおもいだすばかりだった。)
愛子とのいきさつをただ悪夢のように思い出すばかりだった。
(しかもそれはじじつにちがいない。まくらもとのしょうじにはようこのてのさしこまれた)
しかもそれは事実に違いない。枕もとの障子には葉子の手のさし込まれた
(あなが、おおきくやぶれたままのこっている。にゅういんのそのひから、ようこのなは)
孔が、大きく破れたまま残っている。入院のその日から、葉子の名は
(くちさがないふじんかんじゃのくちのはにうるさくのぼっているにちがいない。)
口さがない婦人患者の口の端(は)にうるさくのぼっているに違いない。
(それをおもうといっときでもそこにじっとしているのが、たえられないことだった。)
それを思うと一時でもそこにじっとしているのが、堪えられない事だった。
(ようこはすぐほかのびょういんにうつろうとおもってつやにいいつけた。しかし)
葉子はすぐほかの病院に移ろうと思ってつやにいいつけた。しかし
(つやはどうしてもそれをしょうちしなかった。じぶんがみにひきうけて)
つやはどうしてもそれを承知しなかった。自分が身に引き受けて
(かんごするから、ぜひともこのびょういんでしゅじゅつをうけてもらいたいとつやは)
看護するから、ぜひともこの病院で手術を受けてもらいたいとつやは
(いいはった。ようこからひまをだされながら、みょうにようこにこころをひきつけられて)
いい張った。葉子から暇を出されながら、妙に葉子に心を引きつけられて
(いるらしいすがたをみると、このばあいようこはつやにしみじみとしたあいをかんじた。)
いるらしい姿を見ると、この場合葉子はつやにしみじみとした愛を感じた。
(せいけつなちがほそいしなやかなけっかんをとどこおりなくながれまわっているような、)
清潔な血が細いしなやかな血管を滞りなく流れ回っているような、
(すべすべとけんこうらしい、あさぐろいつやのひふはなによりもようこにはあいらしかった。)
すべすべと健康らしい、浅黒いつやの皮膚は何よりも葉子には愛らしかった。
(しじゅうふきでものでもしそうな、うみっぽいおんなをようこはなによりものろわしいものに)
始終吹き出物でもしそうな、膿っぽい女を葉子は何よりも呪わしいものに
(おもっていた。ようこはつやのまめやかなこころとことばにひかされて)
思っていた。葉子はつやのまめやかな心と言葉に引かされて
(そこにいのこることにした。)
そこに居残る事にした。
(これだけさだよからへだたるとようこははじめてすこしきのゆるむのをおぼえて、)
これだけ貞世から隔たると葉子は始めて少し気のゆるむのを覚えて、
(ふくぶのいたみでとつぜんめをさますほかにはたわいなくねむるようなこともあった。)
腹部の痛みで突然目をさますほかにはたわいなく眠るような事もあった。
(しかしなんといってもいちばんこころにかかるものはさだよだった。)
しかしなんといってもいちばん心にかかるものは貞世だった。
(ささくれて、あかくかわいたくちびるからもれでるあのうわごと・・・それが)
ささくれて、赤くかわいた口びるからもれ出るあの譫言・・・それが
(どうかするとちかぢかとみみにきこえたり、ぼんやりとめをひらいたりするそのかおが)
どうかすると近々と耳に聞こえたり、ぼんやりと目を開いたりするその顔が
(うきだしてみえたりした。そればかりではない、ようこのごかんはひじょうに)
浮き出して見えたりした。そればかりではない、葉子の五官は非常に
(びんしょうになって、おまけにいりゅうじょんやはるしねーしょんを)
敏捷になって、おまけにイリュウジョンやハルシネーションを
(たえずみたりきいたりするようになってしまった。くらちなんぞは)
絶えず見たり聞いたりするようになってしまった。倉地なんぞは
(すぐそばにすわっているなとおもって、くるしさにめをつぶりながら)
すぐそばにすわっているなと思って、苦しさに目をつぶりながら
(てをのばしてたたみのうえをさぐってみることなどもあった。そんなにはっきりと)
手を延ばして畳の上を探ってみる事などもあった。そんなにはっきりと
(みえたりきこえたりするものが、すべてきょこうであるのをみいだすさびしさは)
見えたり聞こえたりするものが、すべて虚構であるのを見いだすさびしさは
(たとえようがなかった。)
たとえようがなかった。
(あいこはようこがにゅういんのひいらいかんしんにまいにちおとずれてさだよのようだいをはなしていった。)
愛子は葉子が入院の日以来感心に毎日訪れて貞世の容体を話して行った。
(もうはじめのひのようなろうぜきはしなかったけれども、そのかおをみたばかりで、)
もう始めの日のような狼藉はしなかったけれども、その顔を見たばかりで、
(ようこはびょうきがおもるようにおもった。ことにさだよのびょうじょうが)
葉子は病気が重(おも)るように思った。ことに貞世の病状が
(かるくなっていくというほうこくははげしくようこをおこらした。じぶんが)
軽くなって行くという報告は激しく葉子を怒らした。自分が
(あれほどのあいちゃくをこめてかんごしてもよくならなかったものが、)
あれほどの愛着をこめて看護してもよくならなかったものが、
(あいこなんぞのとおりいっぺんのせわでなおるはずがない。またあいこは)
愛子なんぞの通り一ぺんの世話でなおるはずがない。また愛子は
(いいかげんなきやすめにうそをついているのだ。さだよはもう)
いいかげんな気休めに虚言(うそ)をついているのだ。貞世はもう
(ひょっとするとしんでいるかもしれない。そうおもっておかがたずねてきたときに)
ひょっとすると死んでいるかもしれない。そう思って岡が尋ねて来た時に
(ねほりはほりきいてみるが、ふたりのことばがあまりにふごうするので、)
根掘り葉掘り聞いてみるが、二人の言葉があまりに符合するので、
(さだよのだんだんよくなっていきつつあるのをうたがうよちはなかった。)
貞世のだんだんよくなっていきつつあるのを疑う余地はなかった。
(ようこにはうんめいがくるいだしたようにしかおもわれなかった。)
葉子には運命が狂い出したようにしか思われなかった。
(あいじょうというものなしにびょうきがなおせるなら、ひとのせいめいはきかいでも)
愛情というものなしに病気がなおせるなら、人の生命は機械でも
(つくりあげることができるわけだ。そんなはずはない。それだのにさだよは)
造り上げる事ができるわけだ。そんなはずはない。それだのに貞世は
(だんだんよくなっていっている。ひとばかりではない、かみまでが、)
だんだんよくなって行っている。人ばかりではない、神までが、
(じぶんをしぜんほうのほかのほうそくでもてあそぼうとしているのだ。)
自分を自然法の他の法則でもてあそぼうとしているのだ。
(ようこははがみをしながらさだよがしねかしといのるようなしゅんかんをもった。)
葉子は歯がみをしながら貞世が死ねかしと祈るような瞬間を持った。