有島武郎 或る女118

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問題文

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(しのうとするときはとうとうようこにはこないで、おもいもかけず)

死のうとする時はとうとう葉子には来ないで、思いもかけず

(しぬときがきたんだ。)

死ぬ時が来たんだ。

(いままでとめどなくながしていたなみだは、ちかづくあらしのまえのそよかぜのように)

今までとめどなく流していた涙は、近づくあらしの前のそよ風のように

(どこともなくすがたをひそめてしまっていた。ようこはあわてふためいて、)

どこともなく姿をひそめてしまっていた。葉子はあわてふためいて、

(おおきくめをみひらき、するどくみみをそびやかして、そこにあるもの、そこにある)

大きく目を見開き、鋭く耳をそびやかして、そこにある物、そこにある

(ひびきをとらえて、それにすがりつきたいとおもったが、めにもみみにも)

響きを捕えて、それにすがり付きたいと思ったが、目にも耳にも

(なにかかんぜられながら、なにがなにやらすこしもわからなかった。)

何か感ぜられながら、何が何やら少しもわからなかった。

(ただかんぜられるのは、こころのなかがわけもなくただわくわくとして、)

ただ感ぜられるのは、心の中がわけもなくただわくわくとして、

(すがりつくものがあればなににでもすがりつきたいとむしょうにあせっている、)

すがり付くものがあれば何にでもすがり付きたいと無性にあせっている、

(そのめまぐるしいよっきゅうだけだった。ようこはふるえるてでまくらをなでまわしたり、)

その目まぐるしい欲求だけだった。葉子は震える手で枕をなで回したり、

(しーつをつまみあげてじっとにぎりしめてみたりした。つめたいあぶらあせが)

シーツをつまみ上げてじっと握り締めてみたりした。冷たい油汗が

(てのひらににじみでるばかりで、にぎったものはなんのちからにもならないことを)

手のひらににじみ出るばかりで、握ったものは何の力にもならない事を

(しった。そのしつぼうはけいようのできないほどおおきなものだった。)

知った。その失望は形容のできないほど大きなものだった。

(ようこはひとつのどりょくごとにがっかりして、またけんめいにたよりになるもの、)

葉子は一つの努力ごとにがっかりして、また懸命にたよりになるもの、

(ねのあるようなものをおいもとめてみた。しかしどこをさがしてみても)

根のあるようなものを追い求めてみた。しかしどこをさがしてみても

(すべてのどりょくがまったくむだなのをこころではほんのうてきにしっていた。)

すべての努力が全くむだなのを心では本能的に知っていた。

(しゅういのせかいはすこしのこだわりもなくずるずるとへいきでにちじょうのいとなみを)

周囲の世界は少しのこだわりもなくずるずると平気で日常の営みを

(していた。かんごふがぞうりでろうかをあるいていく、そのおとひとつをかんがえてみても、)

していた。看護婦が草履で廊下を歩いて行く、その音一つを考えてみても、

(そこにはあきらかにせいめいがみいだされた。そのあしはたしかにろうかをふみ、)

そこには明らかに生命が見いだされた。その足は確かに廊下を踏み、

(ろうかはいしずえにつづき、いしずえはだいちにすえられていた。かんじゃとかんごふとのあいだに)

廊下は礎に続き、礎は大地に据えられていた。患者と看護婦との間に

など

(とりかわされることばひとつにも、それをあたえるひととうけるひとがちゃんと)

取りかわされる言葉一つにも、それを与える人と受ける人がちゃんと

(だいちのうえにそんざいしていた。しかしそれらはきみょうにもようことはまったくむかんけいで)

大地の上に存在していた。しかしそれらは奇妙にも葉子とは全く無関係で

(ぼつこうしょうだった。ようこのいるところにはどこにもそこがないことをしらねばならなかった。)

没交渉だった。葉子のいる所にはどこにも底がない事を知らねばならなかった。

(ふかいたににあやまっておちこんだひとがおちたしゅんかんにかんずるあのしょうそう・・・)

深い谷に誤って落ち込んだ人が落ちた瞬間に感ずるあの焦燥・・・

(それがれんぞくしてやむときなくようこをおそうのだった。ふかさのわからないような)

それが連続してやむ時なく葉子を襲うのだった。深さのわからないような

(くらいやみが、ようこをただひとりまんなかにすえておいて、はてしなくそのまわりを)

暗い闇が、葉子をただ一人まん中に据えておいて、果てしなくそのまわりを

(つつもうとしずかにしずかにちかづきつつある。ようこはすこしもそんなことを)

包もうと静かに静かに近づきつつある。葉子は少しもそんな事を

(ほっしないのに、ようこのこころもちにはとんじゃくなく、やすむことなく)

欲しないのに、葉子の心持ちには頓着(とんじゃく)なく、休む事なく

(とどまることなく、ゆうゆうかんかんとしてちかづいてくる。ようこはおそろしさにおびえて)

とどまる事なく、悠々閑々として近づいて来る。葉子は恐ろしさにおびえて

(こえもえあげなかった。そしてただそこからのがれでたいいっしんに)

声も得(え)上げなかった。そしてただそこからのがれ出たい一心に

(こころばかりがあせりにあせった。)

心ばかりがあせりにあせった。

(もうだめだ、ちからがつききったと、かんねんしようとしたとき、しかし、)

もうだめだ、力が尽き切ったと、観念しようとした時、しかし、

(そのきかいなしは、すうっとあさぎりがはれるように、ようこのしゅういから)

その奇怪な死は、すうっと朝霧が晴れるように、葉子の周囲から

(きえうせてしまった。みたところ、そこにはなにひとつかわったこともなければ)

消えうせてしまった。見た所、そこには何一つ変わった事もなければ

(かわったものもない。ただなつのゆうべがすずしくよるにつながろうと)

変わった物もない。ただ夏の夕(ゆうべ)が涼しく夜につながろうと

(しているばかりだった。ようこはきょとんとしてひさしのしたにみずみずしくただようつきを)

しているばかりだった。葉子はきょとんとして庇の下に水々しく漂う月を

(みやった。)

見やった。

(ただふしぎなへんかのおこったのはこころばかりだった。)

ただ不思議な変化の起こったのは心ばかりだった。

(あらいそになみまたなみがせんぺんばんかしておいかぶさってきてははげしくうちくだけて、)

荒磯に波また波が千変万化して追いかぶさって来ては激しく打ちくだけて、

(まっしろなしぶきをそらたかくつきあげるように、これといってとりとめのない)

まっ白な飛沫を空高く突き上げるように、これといって取り留めのない

(しゅうちゃくや、いきどおりや、かなしみや、うらみやがくもでによれあって、それがじぶんの)

執着や、憤りや、悲しみや、恨みやが蛛手によれ合って、それが自分の

(しゅういのひとたちとむすびついて、わけもなくようこのこころをかきむしっていたのに、)

周囲の人たちと結び付いて、わけもなく葉子の心をかきむしっていたのに、

(そのゆうがたのふしぎなけいけんのあとでは、ひとすじのとうめいなさびしさだけが)

その夕方の不思議な経験のあとでは、一筋の透明なさびしさだけが

(あきのみずのようにはてしもなくながれているばかりだった。ふしぎなことには)

秋の水のように果てしもなく流れているばかりだった。不思議な事には

(ねいってもわすれきれないほどなずのうのげきつうもあとなくなっていた。)

寝入っても忘れきれないほどな頭脳の激痛も痕なくなっていた。

(かみがかりにあったひとがかみからみはなされたときのように、ようこはふかいにくたいの)

神がかりにあった人が神から見放された時のように、葉子は深い肉体の

(ひろうをかんじて、ねどこのうえにうちふさってしまった。そうやっていると)

疲労を感じて、寝床の上に打ち伏さってしまった。そうやっていると

(じぶんのかこやげんざいがてにとるようにはっきりかんがえられだした。)

自分の過去や現在が手に取るようにはっきり考えられ出した。

(そしてひややかなかいこんがいずみのようにわきだした。)

そして冷ややかな悔恨が泉のようにわき出した。

(「まちがっていた・・・こうよのなかをあるいてくるんじゃなかった。)

「間違っていた・・・こう世の中を歩いて来るんじゃなかった。

(しかしそれはだれのつみだ。わからない。)

しかしそれはだれの罪だ。わからない。

(しかしとにかくじぶんにはこうかいがある。できるだけ、いきてるうちに)

しかしとにかく自分には後悔がある。できるだけ、生きてるうちに

(それをつぐなっておかなければならない」)

それを償っておかなければならない」

(うちだのかおがふとようこにはおもいだされた。あのげんかくなきりすとのきょうしは)

内田の顔がふと葉子には思い出された。あの厳格なキリストの教師は

(はたしてようこのところにたずねてきてくれるかどうかわからない。)

はたして葉子の所に尋ねて来てくれるかどうかわからない。

(そうおもいながらもようこはもういちどうちだにあってはなしをしたいこころもちを)

そう思いながらも葉子はもう一度内田に会って話をしたい心持ちを

(とめることができなかった。)

止める事ができなかった。

(ようこはまくらもとのべるをおしてつやをよびよせた。)

葉子は枕もとのベルを押してつやを呼び寄せた。

(そしててぶんこのなかからようしでとじたてちょうをとりださして、)

そして手文庫の中から洋紙でとじた手帳を取り出さして、

(それにもうひつでようこのいうことをかきとらした。)

それに毛筆で葉子のいう事を書き取らした。

(「きむらさんに。)

「木村さんに。

(「わたしはあなたをいつわっておりました。)

「わたしはあなたを詐っておりました。

(わたしはこれからほかのおとこによめいります。あなたはわたしを)

わたしはこれから他の男に嫁入ります。あなたはわたしを

(わすれてくださいまし。わたしはあなたのところにいけるおんなではないのです。)

忘れてくださいまし。わたしはあなたの所に行ける女ではないのです。

(あなたのおおもいちがいをじゅうぶんごじぶんでしらべてみてくださいまし。)

あなたのお思い違いを充分御自分で調べてみてくださいまし。

(「くらちさんに。)

「倉地さんに。

(「わたしはあなたをしぬまで。)

「わたしはあなたを死ぬまで。

(けれどもふたりともまちがっていたことをいまはっきりしりました。)

けれども二人とも間違っていた事を今はっきり知りました。

(しをみてからしりました。あなたにはおわかりになりますまい。)

死を見てから知りました。あなたにはおわかりになりますまい。

(わたしはなにもかもうらみはしません。)

わたしは何もかも恨みはしません。

(あなたのおくさんはどうなさっておいでです。・・・わたしはいっしょに)

あなたの奥さんはどうなさっておいでです。・・・わたしは一緒に

(なくことができる。)

泣く事ができる。

(「うちだのおじさんに。)

「内田のおじさんに。

(「わたしはこんやになっておじさんをおもいだしました。おばさまによろしく。)

「わたしは今夜になっておじさんを思い出しました。おば様によろしく。

(「きべさんに。)

「木部さんに。

(「ひとりのろうじょがあなたのところにおんなのこをつれてまいるでしょう。)

「一人の老女があなたの所に女の子を連れて参るでしょう。

(そのこのかおをみてやってくださいまし。)

その子の顔を見てやってくださいまし。

(「あいことさだよに。)

「愛子と貞世に。

(「あいさん、さあちゃん、もういちどそうよばしておくれ。それでたくさん。)

「愛さん、貞(さあ)ちゃん、もう一度そう呼ばしておくれ。それでたくさん。

(「おかさんに。)

「岡さんに。

(「わたしはあなたをもおこってはいません。)

「わたしはあなたをも怒ってはいません。

(「ことうさんに。)

「古藤さんに。

(「おはなとおてがみとをありがとう。あれからわたしはしをみました。)

「お花とお手紙とをありがとう。あれからわたしは死を見ました。

(しちがつにじゅういちにちようこ」)

七月二十一日  葉子」

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