夢野久作 人の顔 3/5

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(それからのち、ははおやはあまりちえこをかわいがらなくなった。)

それから後(のち)、母親はあまりチエ子を可愛がらなくなった。

(「もうちえこさんは、じきがっこうにいくのですから、)

「…もうチエ子さんは、じき学校に行くのですから、

(ひとりでねんねしならわなくてはいけません」といって、)

独りでねんねし習わなくてはいけません」と云って、

(ちゃのまにべつのとこをとってねかしてじぶんはひとりでざしきのほうにねるようにした。)

茶の間に別の床を取って寝かして自分は一人で座敷の方に寝るようにした。

(かつどうなぞにも、それからいちどもつれていかないで、)

活動なぞにも、それから一度も連れて行かないで、

(じぶんばかりあさはやくからおけしょうをしてでかけると、)

自分ばかり朝早くからお化粧をして出かけると、

(よるおそくまでかえってこないひがつづくようになった。)

夜遅くまで帰って来ない日が続くようになった。

(かえりがけにちえこのだいすきな、えほんをかってくるようなこともなくなった。)

帰りがけにチエ子の大好きな、絵本を買って来るようなこともなくなった。

(けれどもちえこは、べつにさびしがるようなようすはなかった。)

けれどもチエ子は、別に淋しがるような様子はなかった。

(それかといってじょちゅうとあそぶでもなく、)

それかといって女中と遊ぶでもなく、

(いままでのとおりふるいえほんをくりかえしてひろげたり、)

今までの通り古い絵本を繰り返して拡げたり、

(いろんなものをじっとみつめたり、)

いろんなものをジッと見つめたり、

(ひとのかおらしいものをじべたにかいてはけしたりしてあそんだ。)

人の顔らしいものを地べたに描(か)いては消したりして遊んだ。

(それからひがくれて、じょちゅうといっしょにおちゃのまで、)

それから日が暮れて、女中と一緒にお茶の間で、

(ごはんをたべてしまうとまもなくかたすみにしいてあるねどこのなかに、)

御飯をたべてしまうと間もなく片隅に敷いてある寝床の中に、

(ゆたんぽをいれてもらって、ちいさなからだをもぐりこませる。)

湯タンポを入れてもらって、小さな身体(からだ)をもぐり込ませる。

(それでもあさねぼうはいままでのとおりにしたので、)

それでも朝寝坊は今までの通りにしたので、

(どうかするとにさんにちもははおやのかおをみないことがあった。)

どうかすると二三日も母親の顔を見ないことがあった。

(「どうしてあなたは、そんなにあさねをするのですか」)

「どうしてあなたは、そんなに朝寝をするのですか」

(あるあさ、めずらしくでていかなかったははおやがこうたずねると、)

或る朝、珍らしく出て行かなかった母親がこう尋ねると、

など

(ちえこはいつものとおりははおやのかおをみつめながら、したくちびるをむつむつさしていたが、)

チエ子はいつもの通り母親の顔を見つめながら、下唇をムツムツさしていたが、

(やがておずおずとこうこたえた。)

やがてオズオズとこう答えた。

(「あのねあたし、おかあさまとおねんねしなくなってから、)

「あのね…あたし、お母さまとおネンネしなくなってから、

(よなかにきっとめがさめるの。そうするとね)

夜中にきっと眼がさめるの。ソウスルトネ…

(でんきがきえてまっくらになっているの。そうしてね)

電燈(でんき)が消えて真っ暗になっているの。ソウシテネ…

(うえのほうをじいーーとみていると、おむかいだの、)

上の方をジイ――と見ていると、お向家(むかい)だの、

(おとなりだの、おうちのおにわにあるごみくただの、いしころだのが、)

お隣家(となり)だの、おうちのお庭にあるゴミクタだの、石ころだのが、

(いろんなひとのかおになって、いくつもいくつもみえてくるのそうしてね)

いろんな人の顔になって、いくつもいくつも見えて来るの…ソウシテネ…

(それをやっぱしじいっとみていると、そんなひとのかおがみんないっしょになって、)

それをヤッパシじいっと見ていると、そんな人の顔がみんな一緒になって、

(いつのまにかおとうさまのかおになってくるのよそうしてね)

いつの間にかお父さまの顔になって来るのよ…ソウシテネ…

(それをもっともっと、いつまでもいつまでもみていると、)

それをモットモット、いつまでもいつまでも見ていると、

(おしまいにはきっとあたしをみてにこにこおわらいになるのそうするとね)

おしまいにはキットあたしを見てニコニコお笑いになるの…ソウスルトネ…

(そのおとうさまと、いろんなことをしてあそんでいるゆめをみるの)

そのお父様と、いろんな事をして遊んでいる夢を見るの…

(おおきなおおきなおふねにのってねきれいなきれいなところへいったりそれから」)

大きな大きなお船に乗ってネ…綺麗な綺麗なところへ行ったり…ソレカラ…」

(「いけないわねえこどものくせによなかにねむられないなんて)

「いけないわねえ子供の癖に…夜中に睡られないなんて…

(こまるわねどうかしなくちゃ」)

困るわね…どうかしなくちゃ」

(といいいいははおやは、こころもちあおざめたかおをして、)

と云い云い母親は、こころもち青褪(あおざ)めた顔をして、

(ちえこのおおきなめをいまいましそうにみつめていたが、)

チエ子の大きな眼をイマイマしそうに見つめていたが、

(やがて、きゅうにわざとらしくにっこりしててをうった。)

やがて、急にわざとらしくニッコリして手を打った。

(「あっいいことがあるわよちえこさん。)

「…アッ…いいことがあるわよチエ子さん。

(おかあさんがねおいしいおくすりをかってきてあげましょうね。)

お母さんがネ…おいしいお薬を買って来て上げましょうネ。

(それをのむときっとよくねむられて、あさはやくおきられますよね)

ソレをのむとキッとよく睡られて、朝早く起きられますよ…ネ…

(ばんによくおねんねをして、あさはやくおきるくせをつけとかないと、)

晩によくオネンネをして、朝早く起きる癖をつけとかないと、

(いまにがっこうにいくようになってからこまりますからねねね」)

今に学校に行くようになってから困りますからね…ネ…ネ…」

(ちえこはふしぎそうなかおをしいしいおとなしくうなずいた。)

チエ子は不思議そうな顔をしいしい温柔(おとな)しくうなずいた。

(そうしてそのばんから、ははおやにがんやくをのまされてねることになったが、)

そうしてその晩から、母親に丸薬をのまされて寝ることになったが、

(そのおかげかして、あくるあさはわりあいにはやくめをさましたのであった。)

そのお蔭かして、あくる朝は割り合いに早く眼をさましたのであった。

(それいらいははおやはまた、ふしぎにうちにいつくようになった。)

それ以来母親はまた、不思議に家(うち)に居つくようになった。

(あさのおけしょうもやめてしまったが、)

朝のお化粧もやめてしまったが、

(そのかわりにゆうがたになるときゅうにそわそわしだして、)

その代りに夕方になると急にソワソワし出して、

(おゆにいったり、おめかしをしたりして、まだあかるいうちにゆうはんをしまうと、)

お湯に行ったり、おめかしをしたりして、まだ明るいうちに夕飯を仕舞うと、

(じょちゅうとちえこをおいたてるようにしてねかした。)

女中とチエ子を追い立てるようにして寝かした。

(そうして、ちえこがいちどでもあさねをすると、)

そうして、チエ子が一度でも朝寝をすると、

(そのばんからがんやくをひとつぶずつうふやしたので、)

その晩から丸薬を一粒宛(ずつ)殖(ふ)やしたので、

(ひとつきとたたないうちに、つぶのかずがさいしょのときのばいほどになった。)

一と月と経たないうちに、粒の数が最初の時の倍程になった。

(ちえこはいちにちいちにちとやせほそって、かおいろがわるくなってきた。)

チエ子は一日一日と瘠せ細って、顔色がわるくなって来た。

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