ああ玉杯に花うけて 第七部 3

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大正時代の少年向け小説!
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(「どうぞ、よろしく、ありがとうございます」せんぞうはひとあしさきにいえへかえった、)

「どうぞ、よろしく、ありがとうございます」千三は一足先に家へ帰った、

(はははまだしょうたいがない。「ひえたんだからあしをあたためるがいい」)

母はまだ正体がない。「冷えたんだから足をあたためるがいい」

(こうおじがいった。おばはただうろうろしてぶつだんにひをともしたりしている、)

こう伯父がいった。伯母はただうろうろして仏壇に灯をともしたりしている、

(せんぞうはすぐひをおこしかけた。そこへくるまのおとがした。「どうもごくろうさまで・・・)

千三はすぐ火をおこしかけた。そこへ車の音がした。「どうもごくろうさまで…

(・・・どうぞ」くぐりのとをはいってきたのはてづかいしでなくてだいしんのもりというおとこ)

…どうぞ」くぐりの戸をはいってきたのは手塚医師でなくて代診の森という男

(である。このもりというのは、ずいぶんふるくからてづかのやっきょくにいるが、だいしんとして)

である。この森というのは、ずいぶん古くから手塚の薬局にいるが、代診として

(かんじゃをおうしんしたことはきわめてまれである、せんぞうはいつももりがしろいやっきょくふくをきて)

患者を往診した事はきわめてまれである、千三はいつも森が白い薬局服を着て

(おうらいできゃっちぼーるをやってるのをみているのではなはだおぼつかなくおもった)

往来でキャッチボールをやってるのを見ているのではなはだおぼつかなく思った

(「せんせいがかぜけなんで・・・・・・」もりはこういってずんずんおくへあがりこんだ、)

「先生が風邪気なんで……」森はこういってずんずん奥へあがりこんだ、

(かれはそのがいとうとぼうしをしゃふにわたした、それからめがねをちょっとはなのうえへ)

かれはその外套と帽子を車夫にわたした、それから眼鏡をちょっと鼻の上へ

(せりあげてびょうにんをみやった。「どんなにわるいんですか、ああん?」)

せりあげて病人を見やった。「どんなに悪いんですか、ああん?」

(かれはおみよのうでをとってみゃくをしらべた。それからはつびょうのもようをききながら)

かれはお美代の腕をとって脈をしらべた。それから発病の模様を聞きながら

(ちょうしんきをむねにあてたり、まぶたをひっくりかえしてみたりした、そのたいどは)

聴診器を胸にあてたり、眼瞼をひっくりかえしてみたりした、その態度は

(いかにもおちつきはらっている。これがおりおりげんかんでてづかとうでおしをしたり)

いかにもおちつきはらっている。これがおりおり玄関で手塚と腕押しをしたり

(しゃちほこだちをしたり、きんじょのこどもをからかったりするひととはおもえない。)

しゃちほこ立ちをしたり、近所の子どもをからかったりする人とは思えない。

(かどぐちでしゃふがしきりにせきばらいをしている、それは「さむくてたまらないから)

門口で車夫がしきりにせきばらいをしている、それは「寒くてたまらないから

(いいかげんにしてかえってくれ」というかのごとくみえた。「はあん・・・・・・これは)

いい加減にして帰ってくれ」というかのごとく見えた。「はあん……これは

(のうひんけつですな、ああん、たいしたことはありません、ずかんそくねつですかな、)

脳貧血ですな、ああん、たいしたことはありません、頭寒足熱ですかな、

(あしをあたためてあたまをひやしてあんみんさせるといいです、ああん、くすりはさんやくとみずぐすり・・・)

足をあたためて頭をひやして安眠させるといいです、ああん、薬は散薬と水薬…

(・・・ああん、すぐでよろしい」かれはこういってせんせいからかりてきたかばんを)

…ああん、すぐでよろしい」かれはこういって先生から借りて来た鞄を

など

(とりあげてへやをでた。「おい、こうきち!」こうきちとはしゃふのなである、)

取り上げて室を出た。「おい、幸吉!」幸吉とは車夫の名である、

(かれはいつもあさとばんにしりはしょりをしてこうきちとふたりでもんぜんにみずをまいている)

かれはいつも朝と晩に尻はしょりをして幸吉とふたりで門前に水をまいている

(のである。しょせいとしゃふはおなじくこれほうこうにんなかま、いわばどうかいきゅうである。それが)

のである。書生と車夫は同じくこれ奉公人仲間、いわば同階級である。それが

(いまごうぜんとよびすてにされたのでこうきちたるものきょうちゅういささかおだやかでない、)

いま傲然と呼び捨てにされたので幸吉たるもの胸中いささかおだやかでない、

(かれはだまってこたえなかった。「おいこうきち!なにをしとるかっ、ああん」)

かれはだまって答えなかった。「おい幸吉! なにをしとるかッ、ああん」

(「はやくゆきましょうよもりさん」とこうきちはごうはらまぎれにいった。)

「早くゆきましょうよ森さん」と幸吉は業腹まぎれにいった。

(「こらっがいとうとぼうしをおくれ、ああん」もりはそとへでた、くるまのはしるおとがきこえた、)

「こらッ外套と帽子をおくれ、ああん」森は外へ出た、車の走る音が聞こえた、

(さむさはさむしふへいはふへいなり、おそらくこうきち、くるまもくつがえれとばかりはしった)

寒さは寒し不平は不平なり、おそらく幸吉、車もくつがえれとばかり走った

(ことであろう。くるまにおくれじとせんぞうもはしった、かれがいしゃのげんかんについたとき、)

ことであろう。車におくれじと千三も走った、かれが医者の玄関に着いたとき、

(おくではやはりいごのおとがきこえていた。ははのびょうじょうはそれいじょうにすすまなかった。)

奥ではやはり囲碁の音が聞こえていた。母の病状はそれ以上に進まなかった。

(が、さりとてとこをでることはできなかった。「あしたになったらおきられる)

が、さりとて床をでることはできなかった。「明日になったら起きられる

(だろう」こうはははいった、だがよくじつもおきられなかった。びょうじゃくなかのじょが)

だろう」こう母はいった、だが翌日も起きられなかった。病弱な彼女が

(さむさをおかしてまいにちまいよないしょくをはたらいたそのつかれがつもりつもってのうにおよんだ)

寒さをおかして毎日毎夜内職を働いたその疲れがつもりつもって脳におよんだ

(のである。せんぞうはとうふをかついでまちまわりのかえりしなにてづかのいえへよって)

のである。千三は豆腐をかついで町まわりの帰りしなに手塚の家へよって

(くすりをもらうのであった、さいしょくすりはふつかぶんずつであったが、ははのおみよはそれを)

薬をもらうのであった、最初薬は二日分ずつであったが、母のお美代はそれを

(こばんだ。「じきになおるから、いちにちぶんずつでいい、ふつかぶんもらってもむだに)

こばんだ。「じきになおるから、一日分ずつでいい、二日分もらっても無駄に

(なるから」これはいかにもどうりあることばであった、どういうわけかいしゃは)

なるから」これはいかにも道理ある言葉であった、どういうわけか医者は

(ふつかぶんずつのくすりをくれる、それもひとつはかならずいのくすりである、かねもちのいえは)

二日分ずつの薬をくれる、それも一つはかならず胃の薬である、金持ちの家は

(くすりだいにもこまらぬが、まずしきいえではいちにちぶんのやっかはいちにちぶんのこめだいにそうとうする。)

薬代にも困らぬが、まずしき家では一日分の薬価は一日分の米代に相当する。

(おみよはまいにちくすりをのむたびにもったいないといった。あるひせんぞうはかえって)

お美代は毎日薬を飲むたびにもったいないといった。ある日千三は帰って

(ははにこういった。「おかあさん、てづかのいえのてんじょうはこうしになってひとつひとつに)

母にこういった。「お母さん、手塚の家の天井は格子になって一つ一つに

(えをはってあります、きぬにかいたきれいなえ!」「あれをみたかえ」とははは)

絵を貼ってあります、絹にかいたきれいな絵!」「あれを見たかえ」と母は

(やまいにおとろえためをむけてさびしくいった。「あれはおうせつしつだったんです、)

病いにおとろえた目を向けてさびしくいった。「あれは応接室だったんです、

(おとうさんがしなふうがすきだったから」「そう?」「あのとなりのへやの)

お父さんが支那風が好きだったから」「そう?」「あの隣の室の

(もうひとつとなりのへやはちゃしつふうでおまえがそこでうまれたのです、はぎのてんじょうです、)

もう一つ隣の室は茶室風でおまえがそこで生まれたのです、萩の天井です、

(とこのまには・・・・・・」ははのこえははたとやんだ、かのじょはめをうっとりさせて)

床の間には……」母の声はハタとやんだ、彼女は目をうっとりさせて

(むかしそのおっとがよにありしときのぜんせいなせいかつをかいそうしたのであった。)

昔その夫が世にありしときの全盛な生活を回想したのであった。

(「あのときにはじょちゅうがごにん、しょせいがさんにん・・・・・・」まつげをつたうて)

「あのときには女中が五人、書生が三人……」睫毛を伝うて

(たまのつゆがほろりとこぼれる。「おかあさん!つまらないことをいうのはよして)

玉の露がほろりとこぼれる。「お母さん! つまらないことをいうのはよして

(ください、ぼくはいまにあれいじょうのうちをたててあげます」「そうそう、)

ください、ぼくはいまにあれ以上の家を建ててあげます」「そうそう、

(そうだね」はははさびしくわらった、せんぞうはたまらなくくるしくなった、)

そうだね」母はさびしくわらった、千三はたまらなく苦しくなった、

(いままでむねのそこにおさえつけておいたゆううつがむらむらとくものごとくわいた。)

いままで胸の底におさえつけておいた憂欝がむらむらと雲のごとくわいた。

(かれはくすりをもらいにいしゃのいえへゆく、しなふうのてんじょうのしたにちいさくすわっていると)

かれは薬をもらいに医者の家へゆく、支那風の天井の下に小さく座っていると

(れいのゆううつがひしひしとせまってくる。「ああここがおれのうまれたところなんだ)

例の憂欝がひしひしとせまってくる。「ああここがおれの生まれたところなんだ

(おれがうまれたときにてづかのおやじがぺこぺこあたまをさげてみまいにきたんだ、)

おれが生まれたときに手塚の親父がぺこぺこ頭をさげて見舞いにきたんだ、

(それがいまそいつにせんりょうされてあべこべにおれのほうがあたまをさげてくすりをもらいに)

それがいまそいつに占領されてあべこべにおれの方が頭をさげて薬をもらいに

(きてる」あるひかれはこんなことをかんがえながらもんをはいろうとすると)

きてる」ある日かれはこんなことを考えながら門をはいろうとすると

(そこでだいしんもりくんがてづかときゃっちぼーるをしていた。「そらこんどは)

そこで代診森君が手塚とキャッチボールをしていた。「そらこんどは

(どろっぷだぞ」てづかはとくいになってたまをにぎりかえてもーしょんをつけた。)

ドロップだぞ」手塚は得意になって球をにぎりかえてモーションをつけた。

(「よしきた」もりくんはへっぴりごしになってかたあしをうかしてかまえた、)

「よしきた」森君はへっぴり腰になって片足を浮かしてかまえた、

(もしあしにあたりそうなたまがきたらかたあしをあげてにがそうというはらなのである。)

もし足にあたりそうな球がきたら片足をあげて逃がそうという腹なのである。

(「さあこい」「よしっ」たまはだいちをたたいてよこのへいをうちさらにおどり)

「さあこい」「よしッ」 球は大地をたたいて横の塀を打ちさらにおどり

(あがってせんぞうのとうふおけをうち、ころころとどぶのほうへころがった。)

あがって千三の豆腐おけを打ち、ころころとどぶの方へころがった。

(「おいとうふや!はやくたまをとれよ」てづかがさけんだ。「はっ」)

「おい豆腐屋! 早く球をとれよ」手塚がさけんだ。「はッ」

(せんぞうはおけをかついだままたまをおっかけた、おけのみずはだぶだぶとなみを)

千三はおけをかついだまま球をおっかけた、おけの水はだぶだぶと波を

(おどらしてふたもほうちょうもだいちにおちた。「やあやあゆうかんゆうかん」ともりくんはかっさいした、)

おどらして蓋も包丁も大地に落ちた。「やあやあ勇敢勇敢」と森君は喝采した、

(せんぞうはたまがいしのどぶはしをつたってどろのなかへおちこもうとするやつをやっと)

千三は球が石のどぶ端を伝って泥の中へ落ちこもうとするやつをやっと

(おさえようとした、てんびんぼうがどべいにがたんとつきあたったとおもうとかれは)

おさえようとした、てんびん棒が土塀にがたんとつきあたったと思うとかれは

(はねかえされてとうふおけもろともしりもちをついた。とうふはさかなのごとくはねて)

はねかえされて豆腐おけもろとも尻餅をついた。豆腐は魚の如くはねて

(ちじょうにちった。「ばかだね、おけをおいてはしればいいんだ、ばかっ」)

地上に散った。「ばかだね、おけを置いて走ればいいんだ、ばかッ」

(てづかはこういってじぶんでどぶどろのなかからたまをつまみあげ、いきなり)

手塚はこういって自分でどぶどろの中から球をつまみあげ、いきなり

(せんぞうのおけのなかでたまをあらった。「それはこまります」とせんぞうはうったえるように)

千三のおけの中で球を洗った。「それは困ります」と千三は訴えるように

(いった。「とうふだいをはらったらもんくがないだろう」てづかはわらっておくへひっこんだ)

いった。「豆腐代を払ったら文句がないだろう」手塚はわらって奥へひっこんだ

(「まてっ」とせんぞうはよびとめようとしたがじっとしたくちびるをかんだ。)

「待てッ」と千三は呼びとめようとしたがじっと下くちびるをかんだ。

(「いまてづかとけんかをすればははのくすりをもらうことができなくなる」)

「いま手塚と喧嘩をすれば母の薬をもらうことができなくなる」

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