夢十夜 第二夜 夏目漱石

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プレイ回数1061難易度(4.2) 3354打 長文 かな
「こんな夢を見た。」で始まる10の夢の物語。

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問題文

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(こんなゆめをみた。 おしょうのむろをさがって、ろうかづたいにじぶんのへやへかえると)

こんな夢を見た。  和尚の室を退がって、廊下伝いに自分の部屋へ帰ると

(あんどうがぼんやりともっている。かたひざをざぶとんのうえについて、あんどうを)

行灯(あんどう)がぼんやり点っている。片膝を座蒲団の上に突いて、灯心を

(かきたてたとき、はなのようなちょうじがぱたりとしゅぬりのだいにおちた。)

掻き立てたとき、花のような丁子(ちょうじ)がぱたりと朱塗の台に落ちた。

(どうじにへやがぱっとあかるくなった。 ふすまのえはぶそんのふでである。くろいやなぎを)

同時に部屋がぱっと明かるくなった。  襖の画は蕪村の筆である。黒い柳を

(こくうすく、おちこちとかいて、さむそうなぎょふがかさをかたむけてどてのうえを)

濃く薄く、遠近(おちこち)とかいて、寒むそうな漁夫が笠を傾けて土手の上を

(とおる。ゆかにはかいちゅうもんじゅのじくがかかっている。たきのこしたせんこうがくらいほうでいまだに)

通る。床には海中文殊の軸が懸っている。焚き残した線香が暗い方でいまだに

(におっている。ひろいてらだからしんかんとして、ひとけがない。くろいてんじょうにさすまるあんどうの)

臭っている。広い寺だから森閑として、人気がない。黒い天井に差す丸行灯の

(まるいかげが、あおむくとたんにいきてるようにみえた。 たてひざをしたまま、ひだりのてで)

丸い影が、仰向く途端に生きてるように見えた。  立膝をしたまま、左の手で

(ざぶとんをまくって、みぎをさしこんでみると、おもったところに、ちゃんとあった。)

座蒲団を捲って、右を差し込んで見ると、思った所に、ちゃんとあった。

(あればあんしんだから、ふとんをもとのごとくなおして、そのうえにどっかりすわった。)

あれば安心だから、蒲団をもとのごとく直して、その上にどっかり坐った。

(おまえはさむらいである。さむらいならさとれぬはずはなかろうとおしょうがいった。)

お前は侍である。侍なら悟れぬはずはなかろうと和尚が云った。

(そういつまでもさとれぬところをもってみると、おまえはさむらいではあるまいといった。)

そういつまでも悟れぬところをもって見ると、御前は侍ではあるまいと言った。

(にんげんのくずじゃといった。ははあおこったなといってわらった。くやしければさとった)

人間の屑じゃと言った。ははあ怒ったなと云って笑った。口惜しければ悟った

(しょうこをもってこいといってぷいとむこうをむいた。けしからん。)

証拠を持って来いと云ってぷいと向(むこう)をむいた。怪(け)しからん。

(となりのひろまのゆかにすえてあるおきどけいがつぎのこくをうつまでには、きっとさとって)

隣の広間の床に据えてある置時計が次の刻を打つまでには、きっと悟って

(みせる。さとったうえで、こんやまたにゅうしつする。そうしておしょうのくびとさとりとひきかえに)

見せる。悟った上で、今夜また入室する。そうして和尚の首と悟りと引替に

(してやる。さとらなければ、おしょうのいのちがとれない。どうしてもさとらなければ)

してやる。悟らなければ、和尚の命が取れない。どうしても悟らなければ

(ならない。じぶんはさむらいである。 もしさとれなければじじんする。さむらいがはずかしめられて)

ならない。自分は侍である。  もし悟れなければ自刃する。侍が辱しめられて

(いきているわけにはいかない。きれいにしんでしまう。 こうかんがえたとき、)

生きている訳には行かない。綺麗に死んでしまう。  こう考えた時、

(じぶんのてはまたおもわずふとんのしたへはいった。そうしてしゅさやのたんとうを)

自分の手はまた思わず布団の下へ這入った。そうして朱鞘の短刀を

など

(ひきずりだした。ぐっとつかをにぎって、あかいさやをむこうへはらったら、つめたいはがいちどに)

引き摺り出した。ぐっと束を握って、赤い鞘を向へ払ったら、冷たい刃が一度に

(くらいへやでひかった。すごいものがてもとから、すうすうとにげていくようにおもわれる)

暗い部屋で光った。凄いものが手元から、すうすうと逃げて行くように思われる

(そうして、ことごとくきっさきへあつまって、さっきをいってんにこめている。じぶんはこの)

そうして、ことごとく切先へ集まって、殺気を一点に籠めている。自分はこの

(するどいはが、むねんにもはりのあたまのようにちぢめられて、くすんごぶのさきへきてやむをえず)

鋭い刃が、無念にも針の頭のように縮められて、九寸五分の先へ来てやむをえず

(とがってるのをみて、たちまちぐさりとやりたくなった。からだのちがみぎのてくびの)

尖ってるのを見て、たちまちぐさりとやりたくなった。身体の血が右の手首の

(ほうへながれてきて、にぎっているつかがにちゃにちゃする。くちびるがふるえた。)

方へ流れて来て、握っている束がにちゃにちゃする。唇が顫(ふる)えた。

(たんとうをさやへおさめてみぎわきへひきつけておいて、それからぜんがをくんだ。)

短刀を鞘へ収めて右脇へ引きつけておいてそれから全伽(ぜんが)を組んだ。

(ーーじょうしゅういわくむと。むとはなんだ。くそぼうずめとはがみをした。)

――趙州(じょうしゅう)曰く無と。無とは何だ。糞坊主めとはがみをした。

(おくばをつよくかみしめたので、はなからあついいきがあらくでる。こめかみがつっていたい)

奥歯を強く咬み締めたので、鼻から熱い息が荒く出る。こめかみが釣って痛い

(めはふつうのばいもおおきくあけてやった。 かけものがみえる。あんどうがみえる。)

眼は普通の倍も大きく開けてやった。  懸物が見える。行灯が見える。

(たたみがみえる。おしょうのやかんあたまがありありとみえる。わにぐちをあいてあざわらったこえまで)

畳が見える。和尚の薬缶頭がありありと見える。鰐口を開いて嘲笑った声まで

(きこえる。けしからんぼうずだ。どうしてもあのやかんをくびにしなくてはならん。)

聞える。怪しからん坊主だ。どうしてもあの薬缶を首にしなくてはならん。

(さとってやる。むだ、むだとしたのねでねんじた。むだというのにやっぱりせんこうの)

悟ってやる。無だ、無だと舌の根で念じた。無だと云うのにやっぱり線香の

(においがした。なんだせんこうのくせに。 じぶんはいきなりげんこつをかためて)

香(におい)がした。何だ線香のくせに。  自分はいきなり拳骨を固めて

(じぶんのあたまをいやというほどなぐった。そうしておくばをぎりぎりとかんだ。りょうわきから)

自分の頭をいやと云うほど擲った。そうして奥歯をぎりぎりと噛んだ。両腋から

(あせがでる。せなかがぼうのようになった。ひざのつぎめがきゅうにいたくなった。)

汗が出る。背中が棒のようになった。膝の接目が急に痛くなった。

(ひざがおれたってどうあるものかとおもった。けれどもいたい。くるしい。むはなかなか)

膝が折れたってどうあるものかと思った。けれども痛い。苦しい。無はなかなか

(でてこない。でてくるとおもうとすぐいたくなる。はらがたつ。むねんになる。)

出て来ない。出て来ると思うとすぐ痛くなる。腹が立つ。無念になる。

(ひじょうにくやしくなる。なみだがほろほろでる。ひとおもいにみをおおいわのうえに)

非常に口惜しくなる。涙がほろほろ出る。ひと思に身を巨巌(おおいわ)の上に

(ぶつけて、ほねもにくもめちゃめちゃにくだいてしまいたくなる。 それでもがまんして)

ぶつけて、骨も肉もめちゃめちゃに砕いてしまいたくなる。 それでも我慢して

(じっとすわっていた。たえがたいほどせつないものをむねにいれてしのんでいた。)

じっと坐っていた。堪えがたいほど切ないものを胸に盛(い)れて忍んでいた。

(そのせつないものがからだじゅうのきんにくをしたからもちあげて、けあなからそとへふきでよう)

その切ないものが身体中の筋肉を下から持上げて、毛穴から外へ吹き出よう

(ふきでようとあせるけれども、どこもいちめんにふさがって、まるででぐちがないような)

吹き出ようと焦るけれども、どこも一面に塞がって、まるで出口がないような

(ざんこくきまるじょうたいであった。 そのうちにあたまがへんになった。あんどうもぶそんのえも、)

残刻極まる状態であった。  そのうちに頭が変になった。行灯も蕪村の画も、

(たたみも、ちがいだなもあってないような、なくってあるようにみえた。といってむは)

畳も、違棚も有って無いような、無くって有るように見えた。と云って無は

(ちっともげんぜんしない。ただいいかげんにすわっていたようである。ところへこつぜん)

ちっとも現前しない。ただ好加減に坐っていたようである。ところへ忽然

(となりざしきのとけいがちーんとなりはじめた。 はっとおもった。みぎのてをすぐたんとうに)

隣座敷の時計がチーンと鳴り始めた。  はっと思った。右の手をすぐ短刀に

(かけた。とけいがふたつめをちーんとうった。)

かけた。時計が二つ目をチーンと打った。

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