イワンとイワンの兄1 渡辺温
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問題文
(1 ちちおやはびょうきになりました。あんまりとしをとりすぎているので)
1 父親は病気になりました。あんまり年をとり過ぎているので
(ふたたびこころよくなりませんでした。ちちおやはじぶんのいっしょうがもうおしまいに)
再び快くなりませんでした。父親は自分の一生がもうおしまいに
(なってしまったことをさとって、ふたりのむすこをーーすなわちいわんのあにといわんとを)
なってしまったことを覚って、二人の息子を――即ちイワンの兄とイワンとを
(まくらもとへよびよせてゆいごんしました。 まずあににいいました。)
枕元へ呼び寄せて遺言しました。 先ず兄に云いました。
(「おまえはかしこいむすこだから、わたしはちっともしんぱいにならない。このいえもはたけもおかねも、)
『お前は賢い息子だから、私はちっとも心配にならない。この家も畑もお金も、
(ざいさんはすべておまえにゆずります。そのかわり、おまえは、いわんがおまえといっしょに)
財産はすべてお前に譲ります。その代り、お前は、イワンがお前と一緒に
(いるかぎり、わたしにかわってかならずしんせつにめんどうをみてやってもらいたい。」)
いる限り、私に代って必ず親切に面倒をみてやって貰い度い。』
(それからさてちちおやはちいさなぎんせいのはこをべっどのしたからとりだしながら)
それからさて父親は小さな銀製の箱を寝床(ベッド)の下から取り出しながら
(いわんのほうをむいてこういいました。 「いわん。おまえはにいさんとひきかえて、)
イワンの方を向いてこう云いました。 『イワン。お前は兄さんと引きかえて、
(まことにわがこながらあきれかえるほどのばかでこまる。おまえには、はたけやおかねなぞを)
まことに我が子ながら呆れ返る程の馬鹿で困る。お前には、畑やお金なぞを
(いくらわけてやったところで、どうせすぐにたにんのてにわたしてしまうにちがいない)
いくら分けてやったところで、どうせ直ぐに他人の手に渡してしまうに違いない
(そこでわたしは、おまえにこのぎんのこばこをたったひとつのこしてゆこうとかんがえた。)
そこで私は、お前にこの銀の小箱をたった一つ遺してゆこうと考えた。
(このこばこのなかに、わたしはおまえのゆくすえをしまっておいた。おまえが、まんいちにいさんと)
この小箱の中に、私はお前の行末を蔵って置いた。お前が、万一兄さんと
(わかれたりしてどうにもならないなんぎなめにあったときには、このふたをあけるがいい)
別れたりしてどうにもならない難儀な目に会った時には、この蓋を開けるがいい
(そうすれば、おまえはこのなかにおまえのしょうがいあんらくにしてたべるにこまらないだけの)
そうすれば、お前はこの中にお前の生涯安楽にして食べるに困らないだけの
(ものをみだすことができるだろう。だが、そのときまでは、どんなことがあっても)
ものを見出すことが出来るだろう。だが、その時迄は、どんな事があっても
(かまえてあけてみてはならない。さあ、ここにかぎがあるからだれにも)
かまえて開けてみてはならない。さあ、此処に鍵があるから誰にも
(ぬすまれぬようにたいせつにはだみにつけておきなさい。・・・・・・」 いわんのあにも、)
盗まれぬように大切に肌身につけて置きなさい。……』 イワンの兄も、
(いわんも、けっしてふへいはいいませんでした。 ふたりはただちちおやのめいふくを)
イワンも、決して不平は云いませんでした。 二人はただ父親の冥福を
(かみにいのりました。 もはやおもいのこすことのないちちおやは、やがて、えんぜるの)
神に祈りました。 最早や思い残すことのない父親は、やがて、エンゼルの
(すがたをしたふたりのむすこにてをとられていろとりどりのうるわしいはなぞのをあるいているゆめを)
姿をした二人の息子に手をとられて色とりどりの麗わしい花園を歩いている夢を
(みながら、てんごくへさりました。)
見ながら、天国へ去りました。
(2 きょうだいはよそめにもうらやましいほどなかよくくらしました。)
2 兄弟はよそ目にも羨しい程仲よく暮しました。
(「さあさあ、いわんや、めをおさまし。したてやがふたりおそろいのしまらしゃのさんぽふくを)
『さあさあ、イワンや、眼をおさまし。仕立屋が二人お揃の縞羅紗の散歩服を
(とどけてくれたよ。きょうはそれをきてゆうえんちにでもあそびにいこうではないか・・・・・・」)
届けてくれたよ。今日はそれを着て遊園地にでも遊びに行こうではないか……』
(あさならば、いわんのあにはそんなことをいってねぼうないわんをおこしてくれました)
朝ならば、イワンの兄はそんな事を云って寝坊なイワンを起こしてくれました
(しんじんぶかいいわんはあんそくびのれいはいにしゅっせきするのをおこたるようなことは)
信心深いイワンは安息日の礼拝に出席するのを怠るようなことは
(なかったとしても、そのほかのひは、いちにちろばたにねそべってひとりしょうぎをしたり、)
なかったとしても、その他の日は、一日爐ばたに寝そべって独将棋をしたり、
(ゆうえんちへいってかんらんしゃにのったり、さもなければにかいのまどからえんぽうのみねに)
遊園地へ行って観覧車に乗ったり、さもなければ二階の窓から遠方の嶺に
(ゆきのつもっているやまをながめたりして、きままにくらすばかりでありました。)
雪の積っている山を眺めたりして、気儘に暮すばかりでありました。
(ちちおやがいきていたときは、ちちおやはばかなむすこのみをあんじて、そんなふうないわんを)
父親が生きていた時は、父親は馬鹿な息子の身を案じて、そんな風なイワンを
(ときどきしかることがあったけれども、いわんのあにはいつもいつもやさしいえがおをみせて)
時々叱ることがあったけれども、イワンの兄は何時も何時も優しい笑顔を見せて
(くれました。 いわんはあにのしんせつにまんぞくして、すこしのくろうもありませんでした)
くれました。 イワンは兄の親切に満足して、少しの苦労もありませんでした
(ばんになって、ばんごはんがすむといわんはすぐにねむくなりました。すると、)
晩になって、晩御飯がすむとイワンは直ぐに眠くなりました。すると、
(いわんのあにはいわんにねじたくをさせながらいいました。 「おやすみよ、いわん。)
イワンの兄はイワンに寝仕度をさせながら云いました。 『お休みよ、イワン。
(たのしいゆめをみたらば、おぼえていて、あしたのあさにいさんにもきかしておくれ。ーー」)
楽しい夢を見たらば、憶えていて、明日の朝兄さんにも聞かしておくれ。――』
(いわんのあには、はだかになったいわんのむねからさんかくにほそいぎんぐさりをひっぱって)
イワンの兄は、裸になったイワンの胸から三角に細い銀鎖を引っぱって
(そのはしにさがっているぎんのかぎをみると、さてきまったように、こういう)
その端にさがっている銀の鍵を見ると、さて決まったように、こう云う
(のでありました。 「いわんやきんかひとふくろとこのかぎとをとりかえてはくれまいか」)
のでありました。 『イワンや金貨一袋とこの鍵とを取り換えてはくれまいか』
(「きんかひとふくろだって?ーーでも、だめだよ。」 といわんはこたえました。)
『金貨一袋だって?――でも、だめだよ。』 とイワンは答えました。
(「だめだよ。」 「やしきをはんぶんあげてもいいのだよ。」)
『だめだよ。』 『屋敷を半分上げてもいいのだよ。』
(「だめ、だめ!・・・・・・」 いわんはひどくこまってしまうのでした。)
『だめ、だめ!……』 イワンはひどく困ってしまうのでした。
(「おとうさんがしぬときにだれにもこのかぎをやってはいけないといったんだもの。」)
『お父さんが死ぬ時に誰にもこの鍵をやってはいけないと云ったんだもの。』
(「ほんとうにそうだっけ!・・・・・・いいよ、いいよ、たいせつにしてしまっておおき。」)
『本当にそうだっけ!……いいよ、いいよ、大切にしてしまってお置き。』
(だが、あにはまいばんまいばんかならずおなじことばをくりかえしていわんをよわらせました。)
だが、兄は毎晩々々必ず同じ言葉を繰り返してイワンを弱らせました。