めおと蝶 山本周五郎 ⑮

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妻に頑なな大目付の夫・良平、結婚は失敗だと思い夫を拒む信乃。
信乃は情の薄い夫・良平を好きになることができない。ある日かつて思いを寄せていた智也が投獄される。

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問題文

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(いまきさいべえらのつみがきまったのは、そのとしのじゅうにがつのげじゅんであった。)

井巻済兵衛らの罪がきまったのは、その年の十二月の下旬であった。

(このぎごくはいがいにおおがかりになって、ごうのうからもすうめいのざいにんがで、)

この疑獄は意外に大掛りになって、豪農からも数名の罪人が出、

(いまきさいべえはせっぷく、じゅうしんのうちにめいはかいえき、)

井巻済兵衛は切腹、重臣のうち二名は改易、

(さんめいはじゅうきんしん、そのほかしちめいついほうと、)

三名は重謹慎、その他七名追放と、

(えいきんしん、さくろく、へいもんなど、ぜんぶでにじゅうめいがもうしわたしをうけた。)

永謹慎、削禄、閉門など、全部で二十名が申渡しを受けた。

(じゅうしんのしょばつはばくふのにんかをとらなければいけない、)

重臣の処罰は幕府の認可を取らなければいけない、

(やまとのかみはそのためとどけをして、きていのさんきんよりひとつきはやく、)

大和守はそのため届けをして、規定の参覲よりひと月早く、

(しょうがつのいわいをすませるとすぐに、えどへたっていった。)

正月の祝いを済ませるとすぐに、江戸へ立っていった。

(さんがついつかにはんけつがこうひょうされた。)

三月五日に判決が公表された。

(うえむらりょうへいはついほうで、ふつかごのさんがつなのか、)

上村良平は追放で、二日後の三月七日、

(せきやぐちからおわれるということである。)

関屋口から追われるということである。

(そのぜんじつのよる、ふみよがいんきょじょへいってみると、)

その前日の夜、文代が隠居所へいってみると、

(しのはおとこものとおんなもののたびいしょうをだし、)

信乃は男物と女物の旅衣装を出し、

(なにかこまごましたものをつつんでいるところだった。)

なにかこまごました物を包んでいるところだった。

(「なにをしていらっしゃるの、おねえさま、)

「なにをしていらっしゃるの、お姉さま、

(おてつだいいたしましょうか」)

お手伝い致しましょうか」

(「ありがとう、もうおわったところよ」)

「ありがとう、もう終ったところよ」

(「こんなたびしょうぞくなんかおだしになって、)

「こんな旅装束なんかお出しになって、

(まるでどこかへいらっしゃるようね」)

まるでどこかへいらっしゃるようね」

(「だってそうなのですもの」)

「だってそうなのですもの」

など

(しのはつつんだものをわきへおき、いもうとをみてびしょうした、)

信乃は包んだ物を脇へ置き、妹を見て微笑した、

(「あしたはくらいうちにでなければならないのでしょう、)

「明日は暗いうちに出なければならないのでしょう、

(こんやこうしておかなければまにあいませんもの」)

今夜こうしておかなければまにあいませんもの」

(「いやあねえおねえさま、なにをおっしゃるの」)

「いやあねえお姉さま、なにを仰しゃるの」

(ふみよはわらおうとして、きゅうにはっといろをかえた。)

文代は笑おうとして、急にはっと色を変えた。

(あねのしずかなひょうじょうと、おちついたびしょうと、こころのきまったしせいと、)

姉の静かな表情と、おちついた微笑と、心のきまった姿勢と、

(ふみよはさけびごえをあげ、ははをよびにたとうとした。)

文代は叫び声をあげ、母を呼びに立とうとした。

(しのはそれをせいしし、ひくいこえでははにはしらせないでといった。)

信乃はそれを制止し、低い声で母には知らせないでと云った。

(「おかあさまにも、だれにもしらせたくないの、)

「お母さまにも、誰にも知らせたくないの、

(あなただけきいていただきたいことがあるのよ」)

あなただけ聞いて頂きたいことがあるのよ」

(「おねえさま、・・・いらっしゃるのね」)

「お姉さま、・・・いらっしゃるのね」

(「ええゆきます、うえむらといっしょに」)

「ええゆきます、上村といっしょに」

(しのはひざのうえにてをかさね、めをふせて、おちついたしずかなこえでいった。)

信乃は膝の上に手を重ね、眼を伏せて、おちついた静かな声で云った。

(「あなたいつかおっしゃったわね、)

「あなたいつか仰しゃったわね、

(わたくしがしあわせではないだろうって、)

わたくしがしあわせではないだろうって、

(そのとおりだったの、うえむらへいってからすぐ、)

そのとおりだったの、上村へいってからすぐ、

(このけっこんはまちがいだったとおもいはじめ、)

この結婚はまちがいだったと思いはじめ、

(こうのすけがうまれてからもふうふらしいあいじょうはもつことができなかったの、)

甲之助が生れてからも夫婦らしい愛情はもつことができなかったの、

(そうしてしまいには、にくむようにさえなっていたわ」)

そうしてしまいには、憎むようにさえなっていたわ」

(しのはしょうじきにすべてをうちあけた。)

信乃は正直にすべてをうちあけた。

(びょうきになったこどものかんごさえおもうようにさせなかったりょうへい、)

病気になった子供の看護さえ思うようにさせなかった良平、

(いつもしのをじぶんのそばへひきつけておこうとし、)

いつも信乃を自分のそばへひきつけておこうとし、

(こちらにたいするかんじょうとかせいしんてきないたわりのないじこちゅうしんしゅぎ、)

こちらに対する感情とか精神的ないたわりのない自己中心主義、

(やりきれなくなって、こころからにくみだしたじぶんのきもちなど、)

やりきれなくなって、心から憎みだした自分の気持など、

(かくさずにみんなうちあけた。)

隠さずにみんなうちあけた。

(「そういうきもちがなければ、ともやさまをおかくまいしたか)

「そういう気持がなければ、知也さまをお匿まいしたか

(どうかわかりません、あのときはこちょうしていえば、)

どうかわかりません、あのときは誇張して云えば、

(なにかしかえしをするようなかんじもあったわ、)

なにか仕返しをするような感じもあったわ、

(でもまちがっていたのよ、うえむらにふまんばかりもって、)

でもまちがっていたのよ、上村に不満ばかりもって、

(わたくしじしん、すこしもうえむらのほんとうのきもちをしろうとしなかった。)

わたくし自身、少しも上村の本当の気持を知ろうとしなかった。

(うえむらはこどくなきのどくなひとだったのよ」)

上村は孤独な気の毒な人だったのよ」

(あのやはんのうえむらのこくはくをほとんどそのまましのはいもうとにいった。)

あの夜半の上村の告白を殆んどそのまま信乃は妹に云った。

(ーーこどもはわたしとおまえのちをわけている、だがわたしとおまえはもとはたにんだ。)

ーー子供は私とおまえの血をわけている、だが私とおまえはもとは他人だ。

(おまえがなにをのぞみなにをかんがえているか、)

おまえがなにを望みなにを考えているか、

(わたしにはしんそこまではわからない、それではたまらない。)

私には心底まではわからない、それでは堪らない。

(ーーわたしはこんなせいしつだから、じぶんのなっとくのゆくまではあんしんできない。)

ーー私はこんな性質だから、自分の納得のゆくまでは安心できない。

(ふたりだけのみっせつなじかんをもって、そこのそこからおまえをしり、)

二人だけの密接な時間を持って、底の底からおまえを知り、

(みもこころもわたしのつまにしたかった。)

身も心も私の妻にしたかった。

(かれはじぶんがしょうしんもののでだということをいった。)

彼は自分が小身者の出だということを云った。

(しのにけいぶされることをおそれるといった。)

信乃に軽侮されることを惧れると云った。

(なぜだろう、かれはしのをあいしていたのだ。)

なぜだろう、彼は信乃を愛していたのだ。

(これからはけいぶされないようなにんげんになる、)

これからは軽侮されないような人間になる、

(おれをけいぶしないでくれ、ごねんのよもいっしょにくらし、)

おれを軽侮しないで呉れ、五年の余もいっしょに暮し、

(こどもまであって、それでなおそういうこくはくをするのが、)

子供まであって、それでなおそういう告白をするのが、

(たんにじこちゅうしんなかんがえだけであろうか。)

単に自己中心な考えだけであろうか。

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