寒橋 山本周五郎 ⑤
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問題文
(いへえはくがつのげじゅんにとこばらいをした。)
伊兵衛は九月の下旬にとこばらいをした。
(そのちょっとまえのことであるが、あるよるふっとめがさめると、)
そのちょっと前のことであるが、或る夜ふっと眼がさめると、
(いつもついているありあけあんどんがきえていた。)
いつも点いている有明行燈が消えていた。
(あぶらでもきれたのかとおもって、そのままねむろうとしたが、)
油でもきれたのかと思って、そのまま眠ろうとしたが、
(どうしてかめがさえてしまってねむれない。)
どうしてか眼が冴えてしまって眠れない。
(しばらくしてそっとおき、おとをたてないようにきをつけててあらいにゆこうとした。)
暫くしてそっと起き、音を立てないように気をつけて手洗いにゆこうとした。
(するとろうかのむこうですっとふすまのあくおとがし、)
すると廊下の向うですっと襖の明く音がし、
(ひとこと、ひくくだれかのささやくこえがきこえた。)
ひと言、低く誰かの囁く声が聞えた。
(ちちがおたみになにかいったのだろうとおもい、ろうかへでると、)
父がおたみになにか云ったのだろうと思い、廊下へ出ると、
(あしおとがこっちへきた。)
足音がこっちへ来た。
(たかいれんじまどはあるがよなかのことで、まっくらでわからない。)
高いれんじ窓はあるが夜中のことで、まっ暗でわからない。
(おこうはようじんして、「だあれ、おたみかえ」)
お孝は用心して、「だあれ、おたみかえ」
(とこえをかけた。ぶっつかってはいけないとおもったからだ。)
と声をかけた。ぶっつかってはいけないと思ったからだ。
(するとむこうはきがつかなかったとみえ、よほどびっくりしたようすで、)
すると向うは気がつかなかったとみえ、よほどびっくりしたようすで、
(「わたしだ、どうしたんだ」)
「私だ、どうしたんだ」
(へんにうわずったこえでときぞうがこたえた。)
へんにうわずった声で時三が答えた。
(「あんたなの、くらくってわからなかったわ」)
「あんたなの、暗くってわからなかったわ」
(「どうしたんだ、そんなところで、なにをしているんだ」)
「どうしたんだ、そんなところで、なにをしているんだ」
(「ばかねえ、こんなじこくになにをするわけがないじゃないの」)
「ばかねえ、こんな時刻になにをするわけがないじゃないの」
(おこうはひくくわらいながら、)
お孝は低く笑いながら、
(「ああきをつけてね、あんどんがきえててよ」)
「ああ気をつけてね、行燈が消えててよ」
(こういっておっととすれちがった。)
こう云って良人とすれ違った。
(もういちどはもとのときわづのししょうがびょうきだというので、)
もういちどはもとの常磐津の師匠が病気だというので、
(しごにんのけいこともだちとみまいにゆくことになった。)
四五人の稽古友達とみまいにゆくことになった。
(おたみのてがはなせないので、みまいのしなをもってひとりででかけたが、)
おたみの手がはなせないので、みまいの品を持って独りででかけたが、
(かえりにはみんなでゆうはんをすることになっていたから、)
帰りにはみんなで夕飯をすることになっていたから、
(ねんのためうねめちょうのみせへよった。)
念のため采女町の店へ寄った。
(「たぶんにほんばしのはなかわだとおもうの、)
「たぶん日本橋の花川だと思うの、
(おふみちゃんもよんちゃんもいけるくちだからすこしおそくなるかもしれないけど、)
お文ちゃんもよんちゃんもいける口だから少しおそくなるかもしれないけど、
(もしはやかったらまきちょうへちょっとかおだししてきますからね」)
もし早かったら槇町へちょっと顔出しして来ますからね」
(おっとにこうことわっていった。)
良人にこう断わっていった。
(ししょうのいえはこびきちょうさんちょうめにある。)
師匠の家は木挽町三丁目にある。
(もうごじゅうろくしちになるようきなひとで、こしのすじをちがえたというだけの、)
もう五十六七になる陽気な人で、腰の筋を違えたというだけの、
(びょうきとはいえないかるいこしょうだった。)
病気とはいえない軽い故障だった。
(あつまったともだちはみんなけっこんしていたし、)
集まった友達はみんな結婚していたし、
(したまちでそだってしたまちぐらしの、それぞれいきのいいものばかりだから、)
下町で育って下町ぐらしの、それぞれ活きのいい者ばかりだから、
(いっそはなかわなどはやめてここでにぎやかにやろうということになり、)
いっそ花川などはやめて此処で賑やかにやろうということになり、
(たちまちうけもちをきめてひつようじゅんびをととのえ、まさしくにぎやかにしゅえんをはじめた。)
たちまち受持をきめて必要準備をととのえ、まさしく賑やかに酒宴を始めた。
(おんどとりはおふみちゃんであった。おこうとはとなりづきあいのおさなともだちで、)
音頭取りはお文ちゃんであった。お孝とは隣りづきあいの幼な友達で、
(いえはさのしょうというおおきなたびや、おこうよりにねんはやくむこをとって、)
家は佐野庄という大きな足袋屋、お孝より二年はやく婿を取って、
(もうさんにんのこもちだった。)
もう三人の子持ちだった。
(ていしゅなんてのさばらしちゃだめ、あばれうまをあつかうこつでやるのよ、)
亭主なんてのさばらしちゃだめ、暴れ馬を扱うこつでやるのよ、
(がっちりくつわをかませてぎゅうぎゅうたづなをしめておくの、)
がっちりくつわを噛ませてぎゅうぎゅう手綱を緊めておくの、
(あたしなんかぐっともいわせやしないわ。こんなふうにいせいがいい。)
あたしなんかぐっとも云わせやしないわ。こんなふうに威勢がいい。
(じょちゅうのおたみもおふみちゃんがせわをしてくれたものだ。)
女中のおたみもお文ちゃんが世話をして呉れたものだ。
(なにがさてみんなにじゅうにさんのわかいせたいもちで、)
なにがさてみんな二十二三の若い世帯持ちで、
(いっぱしせけんのあじをしったつもりでいるのだから、)
いっぱし世間の味を知ったつもりでいるのだから、
(すこしさけがはいるといちざはそうかんをていしてきた。)
少し酒がはいると一座は壮観を呈してきた。
(おこうもいくらかのめるくちではあるが、あまりにみんなのはなしがしげきてきなのと、)
お孝もいくらか飲める口ではあるが、あまりにみんなの話が刺げき的なのと、
(いつもよりすこしすごしたせいかまもなくきもちがわるくなり、)
いつもより少し過したせいかまもなく気持が悪くなり、
(とうていつきあいきれないとみこみをつけ、)
とうていつきあいきれないと見込みをつけ、
(うまくごまかしてひとりだけさきにぬけだした。)
うまくごまかして独りだけ先にぬけだした。
(じこくはまだはやかった。そとへでてかぜにあたってみるとさしたることもない、)
時刻はまだ早かった。外へ出て風に当ってみるとさしたることもない、
(まきちょうへゆこうかとおもったが、それもおっくうで、みせへもよらずいえへかえった。)
槇町へゆこうかと思ったが、それも億劫で、店へも寄らず家へ帰った。
(すると、もともとりょうふうにつくったいえで、)
すると、もともと寮ふうに造った家で、
(かなりなにわにふじつぼのからのついたしびのかきねをまわし、)
かなりな庭にふじつぼの殻からの付いたしびの垣根をまわし、
(はぎをあんだおりどのちいさなもんがあるが、そのもんをはいるとすぐそこの、)
萩を編んだ折戸の小さな門があるが、その門をはいるとすぐそこの、
(そでがきのかげのところにときぞうとおたみがたちばなしをしていた。)
袖垣の蔭のところに時三とおたみが立ち話をしていた。
(このときはどきりとした。)
このときはどきりとした。
(おたみはないているらしい、おっとはうでぐみをし、)
おたみは泣いているらしい、良人は腕組みをし、
(うなだれて、なにかひくいこえではなしていた。)
うなだれて、なにか低い声で話していた。
(ほんのいっしゅんのことだったが、おこうはあしがすくみそうになった、)
ほんの一瞬のことだったが、お孝は足がすくみそうになった、
(しかしそれよりはやくおっとがこっちへふりかえった。)
しかしそれより早く良人がこっちへ振返った。
(もんのあくおとできがついたのだろう、こっちへふりかえって、)
門のあく音で気がついたのだろう、こっちへ振返って、
(おちついためつきで、いいからいえへあがれ。)
おちついた眼つきで、いいから家へあがれ。
(というようなあいずをした。そのおちついためつき、)
というような合図をした。そのおちついた眼つき、
(すこしもあわてたようすのないそぶりでおこうはほっとし、)
少しも慌てたようすのないそぶりでお孝はほっとし、
(だまっていえへはいったが、きがえをするときもまだむねがどきどきしていた。)
黙って家へはいったが、着替えをするときもまだ胸がどきどきしていた。
(「おとっつぁんにしかられたんだ、おまえはしらないつもりでいるほうがいい」)
「お父つぁんに叱られたんだ、おまえは知らないつもりでいるほうがいい」
(あとからきてときぞうはそういった。)
あとから来て時三はそう云った。