寒橋 山本周五郎 ⑦

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職人の時三と妻のお孝。娘夫婦に対する父親伊兵衛の気遣いとは。

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(それからいつかいつばんおこうはおもいまどった。)

それから五日五晩お孝は思い惑った。

(おふみのはなしぶりはずばりとしていて、)

お文の話しぶりはずばりとしていて、

(おもいちがいではないかというすきがすこしもなかった。)

思い違いではないかという隙が少しもなかった。

(ようやくするしないも、おっととおたみがそういうなかになり、)

要約するもしないも、良人とおたみがそういう仲になり、

(おたみがみごもったのでじっかへかえった。)

おたみがみごもったので実家へ帰った。

(それだけのじじつをはっきりじじつとしてかたっている。)

それだけの事実をはっきり事実として語っている。

(みなみせんじゅのいえまでたずねてゆき、そこでさんざんおこって、)

南千住の家まで訪ねてゆき、そこでさんざん怒って、

(おたみがないてわびたという。なかでも、もうわかだんなには)

おたみが泣いて詫びたという。なかでも、もう若旦那には

(けっしてあわない、ということばはしんらつであった。)

決して会わない、という言葉は辛辣であった。

(それはうたがいもなくふたりのなかをりっしょうすることばだった。)

それは疑いもなく二人の仲を立証する言葉だった。

(ほんとうだろうか、いやそんなはずはない、あのひとがおたみに)

本当だろうか、いやそんな筈はない、あのひとがおたみに

(そんなことをするはずがない。そうおもえばおもうほど、)

そんなことをする筈がない。そう思えば思うほど、

(おこうにもいくつかうたがわしいきおくがよみがえってきた。)

お孝にも幾つか疑わしい記憶がよみがえってきた。

(ありあけあんどんのきえていたよるのこと、そでがきのかげでおっととふたりきりで)

有明行燈の消えていた夜のこと、袖垣の蔭で良人と二人きりで

(おたみがないていたこと、それからおっとがきてからの)

おたみが泣いていたこと、それから良人が来てからの

(おたみのなまめいたようすや、じっとおっとをみるしおのあるめつきなど。)

おたみのなまめいたようすや、じっと良人をみるしおのある眼つきなど。

(そうしてとうとうたえかねて、むいかめのよるになって、)

そうしてとうとう耐えかねて、六日めの夜になって、

(おこうはおっとにそのことをきいた。)

お孝は良人にそのことをきいた。

(このしゅんかんにじぶんのいきしにがきまるというきもちであった。)

この瞬間に自分の生き死にがきまるという気持であった。

(「ほんとうのことをいってちょうだい、あたしおちついてきくから、)

「本当のことを云って頂戴、あたしおちついて聞くから、

など

(ねえ、けっしてさわいだりなんかしないから、ほんとうのことをきかしてちょうだい」)

ねえ、決して騒いだりなんかしないから、本当のことを聞かして頂戴」

(ときぞうはだまってじぶんのひざをみていた。こころもちひたいがしろくなったようである、)

時三は黙って自分の膝を見ていた。こころもち額が白くなったようである、

(それからややしばらくして、つぶやくようにいった。)

それからやや暫くして、呟くように云った。

(「すまない、かんべんしてくれ」)

「済まない、勘弁して呉れ」

(「いいわよかんべんしてくれなんて、いいのよそんなこと」)

「いいわよ勘弁して呉れなんて、いいのよそんなこと」

(おこうはあわててわらいながらさえぎった。)

お孝は慌てて笑いながら遮ぎった。

(じぶんでもふしぎなくらいあかるいわらいかたで、)

自分でもふしぎなくらい明るい笑いかたで、

(むしろうきうきしたちょうしでさえあった。)

むしろうきうきした調子でさえあった。

(「ほんとうのことがわかればいいの、それで、おたみはいつごろおさんするの」)

「本当のことがわかればいいの、それで、おたみはいつごろお産するの」

(「ことしのごがつだったとおもうが」)

「今年の五月だったと思うが」

(「そう、ごがつね、それをきいておかなくっちゃあ、)

「そう、五月ね、それを聞いておかなくっちゃあ、

(だってしらんかおをしているわけにはいかないでしょ、)

だって知らん顔をしているわけにはいかないでしょ、

(おさんするとなればいろいろ、あたしとしたって、)

お産するとなればいろいろ、あたしとしたって、

(してあげなければならないことがあるし、でもわかってよかったわ、)

してあげなければならないことがあるし、でもわかってよかったわ、

(あたしちっともしらなかったんですもの、よっぽどばかでぬけてるのね」)

あたしちっとも知らなかったんですもの、よっぽどばかでぬけてるのね」

(「おこう、おれがわるかった」ときぞうはかおをあげておこうをみた。)

「お孝、おれが悪かった」時三は顔をあげてお孝を見た。

(きれいなすんだめになみだがたまっていた。)

きれいな澄んだ眼に涙が溜まっていた。

(「まがさしたんだ、まちがいだったんだ、ほんとうにわるかった、かんべんしてくれ」)

「魔がさしたんだ、まちがいだったんだ、本当に悪かった、勘弁して呉れ」

(「いいわよ、もういいのよ、だれにだってまちがいということはあるわ、)

「いいわよ、もういいのよ、誰にだってまちがいということはあるわ、

(あたしだって、あら、おとっつぁんがよんでるんじゃないかしら」)

あたしだって、あら、お父つぁんが呼んでるんじゃないかしら」

(おこうはあたふたとそこをたった。)

お孝はあたふたとそこを立った。

(おっとのまえではとうとうなかずにすんだ。うらむこともできなかった。)

良人の前ではとうとう泣かずに済んだ。恨むこともできなかった。

(そしてそれからにさんにちはきぶんもあかるく、)

そしてそれから二三日は気分も明るく、

(ふだんとおなじようにわらったり、ようきにおしゃべりをしたりした。)

ふだんと同じように笑ったり、陽気におしゃべりをしたりした。

(があるよる、おっとがじぶんのやぐへてをかけたとき、)

が或る夜、良人が自分の夜具へ手をかけたとき、

(そのしゅんかん、おこうはげきれつなはきけをかんじ、おかってへいって、)

その瞬間、お孝は激烈なはきけを感じ、お勝手へいって、

(はこうとして、こんどはとつぜんむねをずたずたにひきさかれるような、)

はこうとして、こんどはとつぜん胸をずたずたにひき裂かれるような、

(ひじょうなくもんとぜつぼうにおそわれ、うめきごえをあげてそこへたおれた。)

非常な苦悶と絶望におそわれ、呻き声をあげてそこへ倒れた。

(「おこう、どうした、どうしたんだ」)

「お孝、どうした、どうしたんだ」

(こうよばれてわれにかえると、じぶんがおっとにだきおこされていた。)

こう呼ばれて我にかえると、自分が良人に抱き起こされていた。

(おこうはあたまをふり、わらおうとした。)

お孝は頭を振り、笑おうとした。

(なんでもないのよ、こういおうとして、)

なんでもないのよ、こう云おうとして、

(だいているおっとのてのぬくみをかたにかんじたとき、へびにでもさわったように、)

抱いている良人の手のぬくみを肩に感じたとき、蛇にでも触ったように、

(そうみをふるわせ、さけびごえをあげておっとのてをすりぬけた。)

総身を震わせ、叫び声をあげて良人の手をすりぬけた。

(「おこう、いったいどうしたんだ」)

「お孝、いったいどうしたんだ」

(「あっちへ、あっちへいって、なんでもないの、)

「あっちへ、あっちへいって、なんでもないの、

(あたしだいじょぶよ、あっちへいって」)

あたしだいじょぶよ、あっちへいって」

(ぜんしんのふるえであげいたががたがたとなった。)

全身の震えで揚板ががたがたと鳴った。

(ときぞうはくらがりのなかでじっとこちらをみつめていたが、)

時三は暗がりのなかでじっとこちらを見つめていたが、

(やがてだまっておかってをでていった。)

やがて黙ってお勝手を出ていった。

(それからおこうのくるしみがはじまった。)

それからお孝の苦しみが始まった。

(そのくるしさはにくたいてきなもので、まずはきけがおこり、)

その苦しさは肉躰的なもので、まずはきけが起おこり、

(ついでむねをしめぎにかけられるか、ひきさかれでもするようなきもちになる。)

ついで胸を搾木にかけられるか、ひき裂かれでもするような気持になる。

(めのまえがきゅうにまっくらになり、いきができなくなり、)

眼の前が急にまっ暗になり、息ができなくなり、

(そのままきがくるってしまいそうなかんじにおそわれる。)

そのまま気が狂ってしまいそうな感じにおそわれる。

(「ああ、ひどい、・・・あんまりひどい」)

「ああ、ひどい、・・・あんまりひどい」

(かたであえぎながらつぶやいて、みもだえをして、)

肩であえぎながら呟いて、身もだえをして、

(だれにもみられないところへいってなく。)

誰にも見られないところへいって泣く。

(「なによ、これくらい、ざらにあるこっちゃないの、へいきじゃないの」)

「なによ、このくらい、ざらにあるこっちゃないの、平気じゃないの」

(なきながらこんなこともいってみる、しかしそういいながらまたみをもだえ、)

泣きながらこんなことも云ってみる、しかしそう云いながらまた身をもだえ、

(ころげまわって、ぜっきょうしたいようなしょうどうにかられるのであった。)

転げまわって、絶叫したいような衝動に駆られるのであった。

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