吸血鬼52

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明智小五郎シリーズ
江戸川乱歩の作品です。句読点以外の記号は省いています。

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問題文

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(みみをすますと、きのせいか、ぼーともえあがるほのおのおとまできこえてくる。)

耳をすますと、気のせいか、ボーと燃え上る炎の音まで聞こえて来る。

(かあさま、どうしたの?あれなに?しげるがちぶさをはなして、おずおずとたずねた。)

「母さま、どうしたの?アレなに?」茂が乳房を離して、おずおずとたずねた。

(もちろんささやきごえだからひつぎとてっぴとにじゅうのそとまで、きこえるはずはない。)

勿論ささやき声だから棺と鉄扉と二重の外まで、聞こえる筈はない。

(しげるちゃん、いよいよてんごくへいけるのよ。いま、かみさまがおむかえにいらっしゃる)

「茂ちゃん、いよいよ天国へ行けるのよ。今、神様がお迎えにいらっしゃる

(のよ とはいうものの、しずこのしんぞうは、きょうふのためにわれそうだ。かみさま、)

のよ」とはいうものの、倭文子の心臓は、恐怖のために破れ相だ。「神様、

(どこにいるの?ほら、きこえるでしょう。ぼーっというおと、あれかみさまの)

どこにいるの?」「ホラ、聞こえるでしょう。ボーッという音、アレ神様の

(はねのおとなのよ かのじょはもうきがちがいそうだ。しげるはじっとききみみをたてていたが、)

はねの音なのよ」彼女はもう気が違い相だ。茂はじっと聞耳を立てていたが、

(かれにもひのもえるかすかなおとがきこえたのか、にわかにははにしがみついて、ちぶさに)

彼にも火の燃えるかすかな音が聞こえたのか、俄に母にしがみついて、乳房に

(かおをうずめた。かあさま、こわい!にげようよ いいえ、ちっともこわくは)

顔を埋めた。「母さま、怖い!逃げようよ」「イイエ、ちっとも怖くは

(ないのよ。ちょっとのあいだよ。ほんのすこしくるしいのをがまんすれば、わたしたちはてんごくへ)

ないのよ。ちょっとの間よ。ほんの少し苦しいのを我慢すれば、私達は天国へ

(いかれるのよ。ね、いいこだから かえんのおとは、こくいっこくつよくなるばかりで)

行かれるのよ。ネ、いい子だから」火焔の音は、刻一刻強くなるばかりで

(あった。それにつれて、ひつぎないのおんどがじょじょにのぼりはじめた。いたにもえうつるのも、)

あった。それにつれて、棺内の温度が徐々に昇り始めた。板に燃え移るのも、

(まもあるまい。かあさま、あつい ええ、でも、もっともっとあつくならなければ)

間もあるまい。「母さま、熱い」「エエ、でも、もっともっと熱くならなければ

(てんごくへはいけないのよ しずこは、はをくいしばって、わがこをしっかり)

天国へは行けないのよ」倭文子は、歯を食いしばって、我子をしっかり

(だきしめていた。たえがたいあつさだ。もうひつぎのそこにひがうつったのであろう。)

抱きしめていた。たえ難い熱さだ。もう棺の底に火が移ったのであろう。

(ぴちぴちといたのはぜるおととともに、ふたのすきまから、まっかなひかりが、じごくの)

ピチピチと板のはぜる音と共に、ふたの隙間から、真っ赤な光が、地獄の

(いなずまのように、ちら、ちらとひつぎのなかをてらしはじめた。かじ!かあさま、かじ!)

稲妻の様に、チラ、チラと棺の中を照らし始めた。「火事!母さま、火事!

(はやく、はやく しげるしょうねんは、できぬまでも、ひつぎのふたをつきやぶって、にげだそうと、)

早く、早く」茂少年は、出来ぬまでも、棺の蓋を突き破って、逃げ出そうと、

(もがきまわり、はねまわった。ひつぎないのくうきはかんそうしきって、ほとんどこきゅうもこんなんに)

もがき廻り、はね廻った。棺内の空気は乾燥し切って、ほとんど呼吸も困難に

(なってきた。それよりもおそろしいのは、そこのいたのやけるねつどだ。かんねんをした)

なって来た。それよりも恐ろしいのは、底の板の焼ける熱度だ。観念をした

など

(しずこでさえ、もうがまんがしきれなくなった。ああ、わかった。やっぱり)

倭文子でさえ、もう我慢がし切れなくなった。「アア、分った。やっぱり

(そうなのだ さいごのしゅんかん、かえんのようにはっきりと、しずこのあたまにひらめいた)

そうなのだ」最後の瞬間、火焔のようにハッキリと、倭文子の頭にひらめいた

(ものがあった。みたにさんは、わたしたちをひつぎにいれるときから、それがかそうばのろのなかで)

ものがあった。三谷さんは、私達を棺に入れる時から、それが火葬場の炉の中で

(やきすてられることを、ちゃんとしっていたのではあるまいか。みたにせいねんがすなわち)

焼捨てられることを、チャンと知っていたのではあるまいか。三谷青年が即ち

(くちびるのないかいぶつではなかったか。あのたいしゅうのいっちをなんとかいしゃくすればよいのだ。)

唇のない怪物ではなかったか。あの体臭の一致を何と解釈すればよいのだ。

(なにもかも、さいしょから、ふかくもたくらんだあくじだ。ひょっとしたら、さいとうろうじんの)

何もかも、最初から、深くも企んだ悪事だ。ひょっとしたら、斎藤老人の

(へんしじけんも、あくまがたくみなとりっくで、さもわたしがげしにんとおもいこむように、)

変死事件も、悪魔が巧なトリックで、さも私が下手人と思い込むように、

(しむけたのではあるまいか。ああ、おそろしいことだ。しずこはかつぜんとして、)

仕向けたのではあるまいか。アア、恐ろしいことだ。倭文子はかつ然として、

(なにごとかをさとったようにおもった。それなれば、それなれば、わたしはいまおめおめと)

何事かを悟った様に思った。「それなれば、それなれば、私は今おめおめと

(しぬべきときではない。どうともして、このきゅうちをのがれぬれぎぬをほさなければ)

死ぬべき時ではない。どうともして、この窮地を逃れ濡衣をほさなければ

(ならぬ かのじょはにわかに、しげるといっしょになってひつぎのふたをやぶろうと、しにものぐるいに)

ならぬ」彼女は俄に、茂と一緒になって棺のふたを破ろうと、死にもの狂いに

(もがきはじめた。しげるちゃん。さあ、もうかまわないから、どなるんです。そとの)

もがき始めた。「茂ちゃん。サア、もう構わないから、呶鳴るんです。外の

(おじさんにきこえるように、わめきたてるのです そして、ははとこは、わーっと)

小父さんに聞えるように、わめき立てるのです」そして、母と子は、ワーッと

(なくともさけぶともつかぬ、おそろしいうなりごえをたてて、めったむしょうにひつぎのいたをけり)

泣くとも叫ぶともつかぬ、恐ろしいうなり声を立てて、滅多無性に棺の板を蹴り

(たたきはじめた。だが、なにをいうにも、あついいたとてつのとびらで、にじゅうにへだてられている)

叩き始めた。だが、何をいうにも、厚い板と鉄の扉で、二重に隔てられている

(うえにごうごうともえさかるかえんのおとにさまたげられ、じゅうぶんにはそとへひびかぬ。)

上にごうごうと燃えさかる火焔の音にさまたげられ、充分には外へひびかぬ。

(のみならず、おんぼうにしてみれば、まさかひつぎのなかに、いきたにんげんがはいっていよう)

のみならず、隠亡にして見れば、まさか棺の中に、生きた人間が入っていよう

(とは、おもいもよらぬので、たといしょうしょうこえがきこえても、それときづくはずがない。)

とは、思いもよらぬので、たとい少々声が聞えても、それと気づく筈がない。

(ああ、そういううちにも、ひはすでにひつぎのそこをやきぬいて、まっかなほのおがちょろちょろと)

アア、そういう内にも、火は既に棺の底を焼抜いて、真赤な焔がチョロチョロと

(しずこのきもののすそをなめ、むせかえるけむりに、ははもこももはやさけぶちからさえなくなって)

倭文子の着物の裾をなめ、むせ返る煙に、母も子も早や叫ぶ力さえなくなって

(しまった。いきじごく、ほんとうにいきじごくだ。だれがしたわけでもない。しずこがさつじんざいを)

しまった。生地獄、本当に生地獄だ。誰がした訳でもない。倭文子が殺人罪を

(おかした。それをこいびとのみたにせいねんが、きちをはたらかせて、かんおけというぜっこうの)

犯した。それを恋人の三谷青年が、機智を働かせて、棺桶という絶好の

(かくれみので、やしきからにがしてやった。ひとつまちがえば、このようなしょうねつじごくがまちかまえて)

隠れ簑で、邸から逃がしてやった。一つ間違えば、この様な焦熱地獄が待構えて

(いようとは、とうのしずこはもちろん、みたにさえもついきづかないでいたのだろう。)

いようとは、当の倭文子は勿論、三谷さえもつい気づかないでいたのだろう。

(さいとうろうじんをころしたといっても、しずこじしんでは、まるでしらないあいだに)

斎藤老人を殺したといっても、倭文子自身では、まるで知らない間に

(おこったことだ。かしつとでもなんとでも、べんかいのみちはあろうものを、たださいばんしょ)

起ったことだ。過失とでも何とでも、弁解の道はあろうものを、ただ裁判所

(おそろしさ、ろうごくおそろしさ、にげかくれをしたばっかりに、こうしゅだいよりもっと)

恐ろしさ、牢獄恐ろしさ、逃げ隠れをしたばっかりに、絞首台よりもっと

(むごたらしい、しょうねつじごくへおちこんでしまった。うんめいというもののおそろしさだ。)

むごたらしい、焦熱地獄へ落込んでしまった。運命というものの恐ろしさだ。

(だが、みたにもみたにである。せっかくくしんをかさねてにがしておきながら、いまになっても)

だが、三谷も三谷である。折角苦心を重ねて逃がしておきながら、今になっても

(なんのおとさたがないとは、いったいどうしたというのだろう。もしや、しずこの)

何の音沙汰がないとは、一体どうしたというのだろう。若しや、倭文子の

(おそろしいうたがいがあたって、みたにこそ、よにもにくむべきあくまではなかったか。)

恐ろしい疑いが当って、三谷こそ、世にも憎むべき悪魔ではなかったか。

(かれはさきのさきまでかんがえて、かのじょに、このしょうねつじごくのくるしみをあたえるために、かんおけの)

彼は先の先まで考えて、彼女に、この焦熱地獄の苦しみを与える為に、棺桶の

(とりっくをあんじだしたのではなかろうか。それなれば、しずこにどのようなうらみが)

トリックを案じ出したのではなかろうか。それなれば、倭文子にどの様な恨みが

(あるのかはしらぬけれど、かれのくわだては、じゅうぶんすぎるほどせいこうしたといわねば)

あるのかは知らぬけれど、彼の企ては、充分すぎる程成功したといわねば

(ならぬ。よのなかにこれほどざんこくなせめくが、またとあろうとはおもわれぬからだ。)

ならぬ。世の中にこれ程残酷な責め苦が、またとあろうとは思われぬからだ。

(それはともかく、しずこのくるしみは、もはやここにかきしるすのもおそろしいほどで)

それはとも角、倭文子の苦しみは、最早ここに書き記すのも恐ろしい程で

(あった。かえんはははのきもののすそに、このようふくのずぼんに、ちりちりともえうつり、)

あった。火焔は母の着物の裾に、子の洋服のズボンに、チリチリと燃え移り、

(さけるにも、みうごきもならぬはこのなか、そのうえふたをおしあげようと、ちからを)

避けるにも、身動きもならぬ箱の中、その上ふたを押し上げようと、力を

(こめれば、やきこげてもろくなったそこのほうが、めりめりとくずれそうで、もうひつぎを)

こめれば、焼こげてもろくなった底の方が、メリメリとくずれ相で、もう棺を

(やぶることもできぬ。ただこえをかぎりになきさけぶばかりだ。だが、そのなきさけぶこと)

破ることも出来ぬ。ただ声を限りに泣き叫ぶばかりだ。だが、その泣き叫ぶこと

(さえも、いまはふのうになった。たちこめるどくえんは、め、くち、はなをおおいむせかえり)

さえも、今は不能になった。立ちこめる毒煙は、目、口、鼻を覆むせ返り

(せきいって、さけぶはおろか、いきもたえだえのくるしみである。むざんにも、おさない)

咳き入って、叫ぶはおろか、息も絶え絶えの苦しみである。無慙にも、幼い

(しげるしょうねんは、もうははおやのみさかいがつかず、まるでかのじょをうらみかさなるきゅうてきでも)

茂少年は、もう母親の見境がつかず、まるで彼女を恨み重なる仇敵でも

(あるかのように、しずこのむねにむしゃぶりつき、やわらかいはだに、けもののようなつめを)

あるかの様に、倭文子の胸に武者振りつき、柔かい肌に、けものの様な爪を

(たてて、かきむしり、かきむしるのであった。そして、ああ、なんという)

立てて、かきむしり、かきむしるのであった。そして、アア、何という

(むごたらしいことだ。わがこのくもんをみるにたえかねたははおやは、じぶんもしにそうに)

むごたらしいことだ。我子の苦悶を見るにたえ兼ねた母親は、自分も死に相に

(うめきいりながら、むがむちゅうでしげるのくびにりょうてをかけ、しめころそうとした)

うめき入りながら、無我夢中で茂の頸に両手をかけ、絞め殺そうとした

(のである。ちょうどそのとき、どこかで、がちゃんというおとがしたかとおもうと、ひつぎが)

のである。丁度その時、どこかで、ガチャンという音がしたかと思うと、棺が

(じしんのようにゆれて、めりめりといたのわれるおとがした。いよいよさいごだ。なまみの)

地震の様に揺れて、メリメリと板の割れる音がした。いよいよ最後だ。生身の

(からだが、もえさかるひのなかへおちこんでちりちりとけてしまうのだ。おおかみさま!)

身体が、燃えさかる火の中へ落ち込んでチリチリ溶けてしまうのだ。オオ神様!

(・・・・・・ふとめをみひらくと、だが、ふしぎなことに、かのじょはまだしんでは)

……ふと目を見開くと、だが、不思議なことに、彼女はまだ死んでは

(いなかった。そればかりか、いつしかあのおそろしいあつさもけむりもなくなって、)

いなかった。そればかりか、いつしかあの恐ろしい熱さも煙もなくなって、

(ぽかりとひらいたひつぎのうえから、じっとかのじょをみおろしているかおは、なんと、)

ポカリと開いた棺の上から、じっと彼女を見おろしている顔は、何と、

(みたにせいねんではないか。これがだんまつまのげんかくではないかとおもうと、ぞっとした。)

三谷青年ではないか。これが断末魔の幻覚ではないかと思うと、ゾッとした。

(しずこさん、しっかりしてください。ぼくです。こんなひどいめにあわせて)

「倭文子さん、しっかりして下さい。僕です。こんなひどい目にあわせて

(しまって、じつにもうしわけがありません ききなれたみたにのこえだ。なつかしいこいびとのかおだ。)

しまって、実に申訳がありません」聞きなれた三谷の声だ。懐しい恋人の顔だ。

(ああ、げんかくではない。すくわれたのだ。とうとうすくわれたのだ。けいさつのみはりが)

アア、幻覚ではない。救われたのだ。とうとう救われたのだ。「警察の見張りが

(きびしくて、いまのいままで、ぬけだしてくるきかいがなかったのです。ぼくはどんなに)

きびしくて、今の今まで、抜け出して来る機会がなかったのです。僕はどんなに

(いらいらしたでしょう。でも、やっとまにあってしあわせでした まあ、)

イライラしたでしょう。でも、やっと間に合って仕合わせでした」「マア、

(みたにさん!しずこは、ただむねにせまって、なくよりほかはなかった。)

三谷さん!」倭文子は、ただ胸にせまって、泣くより外はなかった。

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