吸血鬼71

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明智小五郎シリーズ
江戸川乱歩の作品です。句読点以外の記号は省いています。

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問題文

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(つねかわけいぶは、ふくしゅうきののろいのどくはくをきいているうちに、ひじょうなふあんに)

恒川警部は、復讐鬼の呪いの独白を聞いている内に、非常な不安に

(おそわれはじめた。かれは、あにとのやくそくをすっかりはたしてしまったと、こうげんしている。)

襲われ始めた。彼は、兄との約束をすっかり果してしまったと、広言している。

(あにとのやくそくのもっともじゅうようなぶぶんは、しずこをころすことではなかったか。するとかれは)

兄との約束の最も重要な部分は、倭文子を殺すことではなかったか。すると彼は

(すでにそのさいしゅうのもくてきまで、はたしてしまったのではなかろうか。けいぶはそれを)

既にその最終の目的まで、果してしまったのではなかろうか。警部はそれを

(かんがえると、ぞっとしないではいられなかった。で、しずこさんはどこに)

考えると、ゾッとしないではいられなかった。「で、倭文子さんはどこに

(いるのだ。きみはよもや、あのひとを・・・・・・かれはそのつぎのことばを、くちにするゆうきが)

いるのだ。君はよもや、あの人を……」彼はその次の言葉を、口にする勇気が

(なかった。しずこは、ここにいるといったじゃありませんか たにやまはこうふんの)

なかった。「倭文子は、ここにいるといったじゃありませんか」谷山は昂奮の

(さめやらぬ、まっかなかお、あわをふいたくちびるでこたえた。ここにいるんだって。おい、)

さめやらぬ、真赤な顔、泡を吹いた唇で答えた。「ここにいるんだって。オイ、

(でたらめをいうと、しょうちしないぞ けいぶは、とうとうかんしゃくをおこして)

でたらめをいうと、承知しないぞ」警部は、とうとうかん癪を起して

(どなりつけた。ははは・・・・・・いまになって、でたらめなんかいいませんよ。なにも)

呶鳴りつけた。「ハハハ……今になって、でたらめなんかいいませんよ。なにも

(いそぐことはありません。しずこもしげも、にげだすようなことはありませんからね。)

急ぐことはありません。倭文子も茂も、逃げ出す様なことはありませんからね。

(いや、にげだすちからをうしなってしまったのですからね たにやまは、すてばちなわらいとともに)

イヤ、逃出す力を失ってしまったのですからね」谷山は、すてばちな笑いと共に

(いようないいかたをした。ああ、しずこたちは にげるちからをうしなってしまった という。)

異様ないい方をした。アア、倭文子達は「逃げる力を失ってしまった」という。

(いったい、どんなふうににげるちからをうしなったのであろうか。じゃ、しずこにあわせて)

一体、どんな風に逃げる力を失ったのであろうか。「じゃ、倭文子に会わせて

(あげましょう。ここにいるのです たにやまは、つかつかとへやのすみへいって、)

上げましょう。ここにいるのです」谷山は、ツカツカと部屋の隅へ行って、

(ちいさなどあのひきてをにぎった。そこはりんしつへのつうろになっているらしい。ああ、)

小さなドアの引手を握った。そこは隣室への通路になっているらしい。「アア、

(そのへやにかんきんしてあったのか けいぶは、いきごんで、どあのまえにはしりよった。)

その部屋に監禁してあったのか」警部は、意気込んで、ドアの前に走り寄った。

(さあ、ゆっくりごめんかいなさい。しかし、いっしょにつれてかえるには、すこしおもすぎる)

「サア、ゆっくり御面会なさい。しかし、一緒に連れて帰るには、少し重過ぎる

(かもしれませんぜ たにやまはあざけるようにいいながら、どあをおしひらいた。)

かも知れませんぜ」谷山はあざけるようにいいながら、ドアを押し開いた。

(とどうじに、さっとふきだすいようなれいき。あ、まっくらじゃないか、すいっちは、)

と同時に、サッと吹き出す異様な冷気。「ア、真暗じゃないか、スイッチは、

など

(すいっちは?けいぶにせきたてられて、たにやまはいっぽりんしつへふみいり、かべの)

スイッチは?」警部にせき立てられて、谷山は一歩隣室へ踏み入り、壁の

(すいっちをおした。ぱっとあかるくなったでんとうのひかりでみると、そのへやは)

スイッチを押した。パッと明るくなった電燈の光りで見ると、その部屋は

(やっぱりきかいしつのつづきで、こんくりーとのいけのようなきょだいなせいひょうたんくが、むろの)

やっぱり機械室の続きで、コンクリートの池の様な巨大な製氷タンクが、室の

(なかばをふさいでいた。おや、だれもいないじゃないか けいぶは、あたりを)

半をふさいでいた。「オヤ、誰も居ないじゃないか」警部は、あたりを

(みまわしながら、けげんらしくいった。だが、そのじつ、かれのこころのすみには、すでに、)

見廻しながら、けげんらしくいった。だが、その実、彼の心の隅には、既に、

(あるせんりつすべきよかんが、あまぐものようにひろがりはじめていたのだ。)

ある戦慄すべき予感が、雨雲のようにひろがり始めていたのだ。

(ここにいるのですよ たにやまはみがるに、いけのふちをつたわって、むこうのすみにある)

「ここにいるのですよ」谷山は身軽に、池の縁を伝わって、向うの隅にある

(しょうはいでんばんのところへいき、すいっちのひとつを、かちんといれた。と、どうじに、)

小配電盤の所へ行き、スイッチの一つを、カチンと入れた。と、同時に、

(ぎりぎりとはぐるまのきしむおとがして、たんくのちゅうおうから、あえんのきょだいなかくちゅうが、)

ギリギリと歯車のきしむ音がして、タンクの中央から、亜鉛の巨大な角柱が、

(にゅーっとくびをだして、じょじょにてんじょうへまきあげられ、それがたんくから)

ニューッと首を出して、徐々に天井へまき上げられ、それがタンクから

(できれてしまうと、こんどはよこにちゅうづりをして、たんくのそとがわへ、ずるずるとおりて)

出切てしまうと、今度は横に宙づりをして、タンクの外側へ、ズルズルと降りて

(きた。ちょうどそのしたに、たしょうねっとうをたたえたものであろう、もやもやとゆげの)

来た。丁度その下に、多少熱湯をたたえたものであろう、モヤモヤと湯気の

(たちのぼるべつのちいさなこんくりーとのいけがある。きょだいなるかくちゅうは、ずぶずぶと)

立昇る別の小さなコンクリートの池がある。巨大なる角柱は、ズブズブと

(そのなかへつかっていった。ややしばらくあって、かくちゅうはふたたびいけからつりあげられ)

その中へつかって行った。ややしばらくあって、角柱は再び池からつり上げられ

(こんどはこんくりーとのゆかのうえに、ずっしりとあんちせられた。もはやすこしもうたがうところは)

今度はコンクリートの床の上に、ズッシリと安置せられた。最早少しも疑う所は

(ない。しずことしげるが、どんなめにあわされたのか、あけちにも、つねかわしにも、)

ない。倭文子と茂が、どんな目にあわされたのか、明智にも、恒川氏にも、

(わかりすぎるほどわかっている。だが、あまりといえばきかいせんばんなさつじんしゅだんに、さすがの)

分り過ぎる程分っている。だが、あまりといえば奇怪千万な殺人手段に、流石の

(けいぶも、ぼうぜんじしつのていにみえた。しずことしげるしょうねんです たにやまはだいかくちゅうのそばに)

警部も、茫然自失の体に見えた。「倭文子と茂少年です」谷山は大角柱の側に

(よると、まるでみせもののこうじょうでものべるちょうしで、そらうそぶきながら、かくちゅうの)

よると、まるで見世物の口上でも述べる調子で、空うそぶきながら、角柱の

(むかいがわで、かちかちとおとをさせた。と、きょだいなあえんばこは、そこがひらいて、なかみをゆかに)

向側で、カチカチと音をさせた。と、巨大な亜鉛箱は、底が開いて、中味を床に

(のこしたまま、するするとてんじょうしていった。そのしたからあらわれたものは、)

残したまま、スルスルと天上して行った。その下から現われたものは、

(ひとめみたときには、なにかしらひじょうにうつくしい、きらきらとひかりかがやいた、きょだいな)

一目見た時には、何かしら非常に美しい、キラキラと光りかがやいた、巨大な

(はなのようにかんじられた。よきはしていたものの、あくむのようにかいきで、えんれいな)

花のように感じられた。予期はしていたものの、悪夢のように怪奇で、艶麗な

(こうけいに、りょうにんとも あっ といったまま、にのくがつげなかった。ああ、)

光景に、両人とも「アッ」といったまま、二の句がつげなかった。アア、

(なんといういたましくも、うつくしいこうけいであったろう。そこには、かつてみたことも)

何といういたましくも、美しい光景であったろう。そこには、かつて見たことも

(ない、ずばぬけておおきなはなごおりがでんとうをはんしゃして、きらきらとうつくしいにじをうかべて)

ない、ずばぬけて大きな花氷が電燈を反射して、キラキラと美しい虹を浮かべて

(たっていた。はなごおり!いかにもはなごおりにはそういなかった。しかし、よにありふれた、)

立っていた。花氷!如何にも花氷には相違なかった。しかし、世にありふれた、

(くさばなのはなごおりではない。そこにはいたましいだんまつまのくもんをそのままに、にんげんかいの)

草花の花氷ではない。そこにはいたましい断末魔の苦悶をそのままに、人間界の

(はなが、うつくしいしずこのいっしまとわぬらたいすがたがむざんにもとじこめられていたのだ。)

花が、美しい倭文子の一糸まとわぬ裸体姿が無慙にもとじこめられていたのだ。

(そのそばには、やっぱりはだかのしげるしょうねんが、くるしさのあまりしずこのこしに)

その側には、やっぱりはだかの茂少年が、苦しさのあまり倭文子の腰に

(しがみついたかたちで、こおっていた。ああ、にんげんの、しかもよにもうつくしいじょせいと)

しがみついた形で、凍っていた。アア、人間の、しかも世にも美しい女性と

(しょうねんの、らたいぞうをとじこめたはなごおり。かつてこのよに、かくもざんぎゃくな、どうじに、)

少年の、裸体像をとじこめた花氷。かつて此世に、かくも残虐な、同時に、

(かくもえんれいな、さつじんほうほうをあんしゅつしたものが、ひとりでもあっただろうか。あけちは、)

かくも艶麗な、殺人方法を案出したものが、一人でもあっただろうか。明智は、

(さしたるおどろきもしめさなかったが、つねかわけいぶは、このじんたいはなごおりをみると、ほんとうに)

さしたる驚きも示さなかったが、恒川警部は、この人体花氷を見ると、本当に

(きもをけしてしまった。じけんぜんたいが、かれのじゅうらいのけいけんからは、ひどくとびはなれた、)

肝を消してしまった。事件全体が、彼の従来の経験からは、ひどく飛び離れた、

(まじゅつのれんぞくのようなものであったが、それゆえに、かれはことごとにおどろきをばいかしてきた)

魔術の連続のようなものであったが、それ故に、彼は事毎に驚きを倍加して来た

(のであるが、このあくまのさいごのえんぎにいたってはおどろきいじょうのものであった。)

のであるが、この悪魔の最後の演技に至っては驚き以上のものであった。

(けいぶは さつじんげいじゅつろん というようなもののそんざいを、すこしもしらなかったけれど、)

警部は「殺人芸術論」というようなものの存在を、少しも知らなかったけれど、

(こおりにつつまれた、ひがいしゃのすがたの、あまりのうつくしさに、ふしぎなこんわくをかんじた。)

氷に包まれた、被害者の姿の、あまりの美しさに、不思議な困惑を感じた。

(かれは、いつも、ちみどろのしがいや、むごたらしいきずぐちや、いまわしいししゅうや、)

彼は、いつも、血みどろの死骸や、むごたらしい傷口や、いまわしい死臭や、

(ぞっとするようなしそうばかりみていた。さつじんじけんというのは、きたならしいものと)

ゾッとする様な死相ばかり見ていた。殺人事件というのは、汚ならしいものと

(きめてしまっていた。それが、いまめのまえに、いっしゅのくもんのぽーずをつくりながら、)

きめてしまっていた。それが、今目の前に、一種の苦悶のポーズを作りながら、

(たっているひがいしゃたちは、つららのにじにつつまれて、はんざいとか、さつじんとか、)

立っている被害者達は、氷柱のにじにつつまれて、犯罪とか、殺人とか、

(しがいとかいうかんねんからは、ひどくえんどおい、いっしゅのびじゅつひんのごとく、よにもうつくしい)

死骸とかいう観念からは、ひどく縁遠い、一種の美術品の如く、世にも美しい

(ものにみえたではないか。かれはほとんどこうこつとして、それがおそるべきはんざいの)

ものに見えたではないか。彼はほとんどこうこつとして、それが恐るべき犯罪の

(けっかであることも、そこにとうのはんにんがいることも、いっしゅんかんわすれはてて、)

結果であることも、そこに当の犯人がいることも、一瞬間忘れ果てて、

(すぐれたえでもながめるように、うつくしいはなごおりにみとれた。だが、つぎのしゅんかんには、かれは)

すぐれた絵でも眺める様に、美しい花氷に見とれた。だが、次の瞬間には、彼は

(はんにんのちゃくそうのあまりのおそろしさに、みぶるいしないではいられなかった。)

犯人の着想のあまりの恐ろしさに、身ぶるいしないではいられなかった。

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