晩年 ④

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太宰 治

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問題文

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(にほんのひとは、おちぶれたいじんをみると、きっとしろけいのろしあじんにきめてしまう)

日本のひとは、おちぶれた異人を見ると、きっと白系の露西亜人にきめてしまう

(にくいしゅうせいをもっている。いま、こののうむのなかでてぶくろのやぶれをきにしながら)

憎い習性を持っている。今、この濃霧のなかで手袋のやぶれを気にしながら

(はなたばをもってたっているちいさいこどもをみても、おおかたのにほんのひとは、ああ)

花束を持って立っている小さい子供を見ても、おおかたの日本のひとは、ああ

(ろしあがいる、とらくなきもちでつぶやくにちがいない。しかも、ちえほふをよんだ)

ロシアがいる、と楽な気持ちで呟くにちがいない。しかも、チエホフを読んだ

(ことのあるせいねんならば、ちちはたいしょくのりくぐんにとうたいい、はははごうまんなきぞく、と)

ことのある青年ならば、父は退職の陸軍二等大尉、母は傲慢な貴族、と

(うっとりとどくだんしながら、すこしほをゆるめるであろう。)

うっとりと独断しながら、すこし歩をゆるめるであろう。

(また、どふとえーふすきいをのぞきはじめたがくせいならば、おや、ねるり!とこえを)

また、ドフトエーフスキイを覗きはじめた学生ならば、おや、ネルリ!と声を

(だしてさけんで、あわててがいとうのえりをかきたてるかもしれない。けれども、)

出して叫んで、あわてて外套の襟を搔き立てるかも知れない。けれども、

(それだけのことであって、そのうえおんなのこについてのふかいたんさくをしてみよう)

それだけのことであって、そのうえ女の子に就いてのふかい探索をして見よう

(とはおもわない。しかし、だれかひとりがかんがえる。なぜ、にほんばしをえらぶのか。)

とは思わない。しかし、誰かひとりが考える。なぜ、日本橋をえらぶのか。

(こんな、ひとどおりのすくないほのぐらいはしのうえで、はなをうろうなどというのは、)

こんな、人通りのすくないほの暗い橋のうえで、花を売ろうなどというのは、

(よくないことなのに、なぜ?そのふしんには、かんたんではあるがすこぶるろまんちっくな)

よくないことなのに、なぜ?その不振には、簡単ではあるが頗るロマンチックな

(かいとうをあたええるのである。それはかのじょのおやたちのにほんばしにたいするげんえいにゆらいして)

回答を与え得るのである。それは彼女の親たちの日本橋に対する幻影に由来して

(いる。にほんでいちばんにぎやかなよいはしはにほんばしにちがいない、という)

いる。ニホンでいちばんにぎやかな良い橋はニホンバシにちがいない、という

(かれらのおだやかなはんだんにほかならぬ。おんなのこのにほんばしでのあきないはひじょうにすくな)

彼等のおだやかな判断に他ならぬ。女の子の日本橋でのあきないは非常に少な

(かった。だいいちにちめには、あかいはながいっぽんうれた。おきゃくはおどりこである。おどりこは、)

かった。第一日目には、赤い花が一本売れた。お客は踊り子である。踊り子は、

(ゆるくひらきかけているあかいつぼみをえらんだ。「さくだろうね。」と、らんぼうなきき)

ゆるく開きかけている紅い蕾を選んだ。「咲くだろうね。」と、乱暴な聞き

(かたをした。おんなのこは、はっきりこたえた。「さきます。」)

かたをした。女の子は、はっきり答えた。「咲キマス。」

(ふつかめには、よいどれのわかいしんしが、いっぽんかった。このおきゃくはよっていながら、)

二日目には、酔いどれの若い紳士が、一本買った。このお客は酔っていながら、

(うれいがおをしていた。「どれでもいい。」おんなのこは、きのうのうれのこりのその)

うれい顔をしていた。「どれでもいい。」女の子は、きのうの売れのこりのその

など

(はなたばから、しろいつぼみをえらんでやったのである。しんしはぬすむように、こっそり)

花束から、白い蕾をえらんでやったのである。紳士は盗むように、こっそり

(うけとった。あきないはそれだけであった。みっかめは、すなわちきょうである。)

受け取った。あきないはそれだけであった。三日目は、即ちきょうである。

(つめたいきりのなかにながいことたちつづけていたが、だれもふりむいてくれなかった)

つめたい霧のなかに永いこと立ちつづけていたが、誰もふりむいて呉れなかった

(はしのむこうがわにいるおとこのこじきが、まつばづえつきながら、でんしゃみちをこえてこっちへ)

橋の向こう側にいる男の乞食が、松葉杖つきながら、電車みちをこえてこっちへ

(きた。おんなのこになわばりのことでいいがかりをつけたのだった。おんなのこはさんども)

来た。女の子に縄張りのことで言いがかりをつけたのだった。女の子は三度も

(おじぎをした。まつばづえのこじきは、まっくろいくちひげをかみしめながらしあんした)

お辞儀をした。松葉杖の乞食は、まっくろい口髭を噛みしめながら思案した

(のである。「きょうきりだぞ。」とひくくいって、またきりのなかへすいこまれて)

のである。「きょう切りだぞ。」とひくく言って、また霧のなかへ吸いこまれて

(いった。おんなのこは、まもなくかえりじたくをはじめた。はなたばをゆすぶってみた。)

いった。女の子は、間もなく帰り仕度をはじめた。花束をゆすぶって見た。

(はなやからくずばなをはらいさげてもらって、こうしてうりにでてから、もうみっかも)

花屋から屑花を払いさげてもらって、こうして売りに出てから、もう三日も

(たっているのであるからはなはいいかげんにしおれていた。おもそうにうなだれたはなが)

経っているのであるから花はいい加減にしおれていた。重そうにうなだれた花が

(ゆすぶられるたびごとに、みんなあたまをふるわせた。それをそっとこわきにかかえ、)

ゆすぶられる度毎に、みんなあたまを顫わせた。それをそっと小わきにかかえ、

(ちかくのしなそばのやたいへ、さむそうにかたをすぼめながらはいっていった。)

ちかくの支那蕎麦の屋台へ、寒そうに肩をすぼめながらはいって行った。

(みばんつづけてここでわんたんをたべるのである。そこのあるじは、しなのひとで)

三晩つづけてここで雲吞を食べるのである。そこのあるじは、支那のひとで

(あって、おんなのこをひとなみのきゃくとしてとりあつかった。かのじょにはそれがうれしかったので)

あって、女の子を人並みの客として取扱った。彼女にはそれが嬉しかったので

(ある。あるじは、わんたんのかわをまきながらたずねた。「うれましたか。」めを)

ある。あるじは、雲吞の皮を巻きながら尋ねた。「売レマシタカ。」眼を

(まるくしてこたえた。「いいえ。・・・・・かえります。」このことばが、あるじの)

まるくして答えた。「イイエ。・・・・・カエリマス。」この言葉が、あるじの

(むねをうった。きこくするのだ。きっとそうだ、とうつくしくはげたあたまをにさんどかるく)

胸を打った。帰国するのだ。きっとそうだ、と美しく禿げた頭を二三度かるく

(ふった。じぶんのふるさとをおもいつつかまからわんたんのみをすくっていた。)

振った。自分のふるさとを思いつつ釜から雲吞の実を掬っていた。

(「これ、ちがいます。」あるじからうけとったわんたんのきいろいはちをのぞいて、)

「コレ、チガイマス。」あるじから受け取った雲吞の黄色い鉢を覗いて、

(おんなのこがとうわくそうにつぶやいた。「かまいません。ちゃしゅうわんたん。わたしの)

女の子が当惑そうに呟いた。「カマイマセン。チャシュウワンタン。ワタシノ

(ごちそうです。」あるじはかたくなっていった。わんたんはじゅっせんであるが、ちゃしゅうわんたんは)

ゴチソウデス。」あるじは固くなって言った。雲吞は十銭であるが、叉焼雲吞は

(にじゅっせんなのである。おんなのこはしばらくもじもじしていたが、やがて、わんたんのこばちを)

二十銭なのである。女の子は暫くもじもじしていたが、やがて、雲吞の小鉢を

(したへおき、ひじのなかのはなたばからおおきいつぼみのついたくさばなをいっぽんひきぬいて、)

下へ置き、肘のなかの花束からおおきい蕾のついた草花を一本引き抜いて、

(さしだした。くれてやるというのである。かのじょがそのやたいをでて、でんしゃの)

差しだした。くれてやるというのである。彼女がその屋台を出て、電車の

(ていりゅうじょうへいくとちゅう、しなびかかったわるいはなをさんにんのひとにてわたしたことを)

停留場へ行く途中、しなびかかった悪い花を三人のひとに手渡したことを

(ちくちくこうかいしだした。とつぜん、みちばたにしゃがみこんだ。むねにじゅうじかをきって、)

ちくちく後悔しだした。突然、道ばたにしゃがみ込んだ。胸に十字架を切って、

(わけのわからぬことばでもってはげしいおいのりをはじめたのである。)

わけの判らぬ言葉でもって烈しいお祈りをはじめたのである。

(「さくように。さくように。」)

「咲クヨウニ。咲クヨウニ。」

(あんらくなくらしをしているときは、ぜつぼうのうたをつくり、ひしがれたくらしをしている)

安楽なくらしをしているときは、絶望の詩を作り、ひしがれたくらしをしている

(ときはせいのよろこびをかきつづる。)

ときは生のよろこびを書きつづる。

(はるちかきや?)

春ちかきや?

(どうせしぬのだ。ねむるようなよいろまんすをいっぺんだけかいてみたい。おとこが)

どうせ死ぬのだ。ねむるようなよいロマンスを一篇だけ書いてみたい。男が

(そうきがんしはじめたのは、かれのしょうがいのうちでおそらくはいちばんうっとうしいじきに)

そう祈願しはじめたのは、彼の生涯のうちでおそらくは一番うっとうしい時期に

(おいてであった。おとこは、あれこれとおもいをめぐらし、ついにぎりしゃのおんなしじん、)

於いてであった。男は、あれこれと思いをめぐらし、ついにギリシャの女詩人、

(さふぉにおうごんのやをはなった。あわれ、そのかぐわしきさいしょくをいまにかたりつがれて)

サフォに黄金の矢を放った。あわれ、そのかぐわしき才色を今に語り継がれて

(いるさふぉこそ、このおとこのもやもやしたむねをときめかすゆいいつのじょせいで)

いるサフォこそ、この男のもやもやした胸をときめかす唯一の女性で

(あったのである。おとこは、さふぉについてのいちにさつのしょもつをひらき、つぎのような)

あったのである。男は、サフォに就いての一二冊の書物をひらき、つぎのような

(ことがらをしらされた。けれどもさふぉはびじんではなかった。いろがくろくはがでて)

ことがらを知らされた。けれどもサフォは美人ではなかった。色が黒く歯が出て

(いた。ふぁおんとよぶうつくしいせいねんにしぬほどほれた。ふぁおんにはうたが)

いた。ファオンと呼ぶ美しい青年に死ぬほど惚れた。ファオンには詩が

(わからなかった。こいのみなげをするならば、よししにきれずとも、そのこがれたむねの)

判らなかった。恋の身投をするならば、よし死にきれずとも、そのこがれた胸の

(おもいがきえうせるというめいしんをしんじ、りゅうかでぃあのみさきからどとうめがけて)

おもいが消えうせるという迷信を信じ、リュウカディアの岬から怒涛めがけて

(みをおどらせた。)

身をおどらせた。

(せいかつ。)

生活。

(よいしごとをしたあとで いっぱいのおちゃをすする)

よい仕事をしたあとで 一杯のお茶をすする

(おちゃのあぶくに きれいなわたしのかおが)

お茶のあぶくに きれいな私の顔が

(いくつもいくつも うつっているのさ)

いくつもいくつも うつっているのさ

(どうにか、なる。)

どうにか、なる。

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