晩年 ⑤
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問題文
(おもいで)
思い出
(たそがれのころわたしはおばとならんでかどぐちにたっていた。おばはだれかをおんぶしている)
黄昏のころ私は叔母と並んで門口に立っていた。叔母は誰かをおんぶしている
(らしく、ねんねこをきていた。そのときの、ほのぐらいがいろのしずけさをわたしは)
らしく、ねんねこを着て居た。その時の、ほの暗い街路の静けさを私は
(わすれずにいる。おばはてんしさまがおかくれになったのだ、とわたしにおしえて、)
忘れずにいる。叔母はてんしさまがお隠れになったのだ、と私に教えて、
(いきがみさま、といいそえた。いきがみさま、とわたしもきょうふかげにつぶやいたようなきがする)
生き神様、と言い添えた。いきがみさま、と私も興深げに呟いたような気がする
(それから、わたしはなにかふけいなことをいったらしい。おばは、そんなことをいうもの)
それから、私は何か不敬なことを言ったらしい。叔母は、そんなことを言うもの
(でない、おかくれになったといえ、とわたしをたしなめた。どこへおかくれになったの)
でない、お隠れになったと言え、と私をたしなめた。どこへお隠れになったの
(だろう、とわたしはしっていながら、わざとそうたずねておばをわらわせたのをおもいだす)
だろう、と私は知っていながら、わざとそう尋ねて叔母を笑わせたのを思い出す
(わたしはめいじよんじゅうにねんのなつのうまれであるから、このたいていほうぎょのときはかぞえどしの)
私は明治四十二年の夏の生まれであるから、此の大帝崩御のときは数えどしの
(よっつをすこしこえていた。たぶんおなじころのことであったろうとおもうが、わたしはおばと)
四つをすこし越えていた。多分おなじ頃の事であったろうと思うが、私は叔母と
(ふたりでわたしのむらからにりほどはなれたあるむらのしんるいのいえへいき、そこでみたたきを)
ふたりで私の村から二里ほどはなれた或る村の親類の家へ行き、そこで見た滝を
(わすれない。たきはむらにちかいやまのなかにあった。あおあおとこけのはえたがけからはばのひろい)
忘れない。滝は村にちかい山の中にあった。青々と苔の生えた崖から幅の広い
(たきがしろくおちていた。しらないおとこのひとのかたぐるまにのってわたしはそれをながめた。)
滝がしろく落ちていた。知らない男の人の肩車に乗って私はそれを眺めた。
(なにかのやしろがあって、そのおとこのひとがわたしにそこのさまざまなえまをみせたがわたしは)
何かの社があって、その男の人が私にそこのさまざまな絵馬を見せたが私は
(だんだんとさびしくなって、がちゃ、がちゃ、とないた。わたしはおばをがちゃとよんで)
段々とさびしくなって、がちゃ、がちゃ、と泣いた。私は叔母をがちゃと呼んで
(いたのである。おばはしんるいのひとたちととおくのくぼちにもうせんをしいてさわいで)
いたのである。叔母は親類のひとたちと遠くの窪地に毛氈を敷いて騒いで
(いたらしく、おじぎでもするようにからだをふかくよろめかした。ほかのひとたちは)
いたらしく、お辞儀でもするようにからだを深くよろめかした。他のひとたちは
(それをみて、よった、よったとおばをはやしたてた。わたしははるかはなれてこれを)
それを見て、酔った、酔ったと叔母をはやしたてた。私は遥かはなれてこれを
(みおろし、くやしくてくやしくて、いよいよおおごえをたててなきわめいた。)
見おろし、口惜しくて口惜しくて、いよいよ大声を立てて泣き喚いた。
(またあるよる、おばがわたしをすてていえをでていくゆめをみた。おばのむねはげんかんの)
またある夜、叔母が私を捨てて家を出ていく夢を見た。叔母の胸は玄関の
(くぐりどいっぱいにふさがっていた。そのあかくふくれたおおきいむねから、)
くぐり戸いっぱいにふさがっていた。その赤くふくれた大きい胸から、
(つぶつぶのあせがしたたっていた。おばはそのちぶさにほおをよせて、そうしないで)
つぶつぶの汗がしたたっていた。叔母はその乳房に頬をよせて、そうしないで
(けんせ、とねがいつつしきりになみだをながした。おばがわたしをゆりおこしたときは、わたしは)
けんせ、と願いつつしきりに涙を流した。叔母が私を揺り起こした時は、私は
(とこのなかでおばのむねにかおをおしつけてないていた。めがさめてからも、わたしはまだ)
床の中で叔母の胸に顔を押しつけて泣いていた。眼が覚めてからも、私はまだ
(まだかなしくてながいことすすりないた。けれども、そのゆめのことはおばにもだれにも)
まだ悲しくて永いことすすり泣いた。けれども、その夢のことは叔母にも誰にも
(はなさなかった。おばについてのついおくはいろいろあるが、そのころのふぼのおもいでは)
話さなかった。叔母についての追憶はいろいろあるが、その頃の父母の思い出は
(あいにくとひとつももちあわせない。そうそぼ、そぼ、ちち、はは、あにさんにん、あねよにん、おとうとひとり)
生憎と一つも持ち合わせない。曾祖母、祖母、父、母、兄三人、姉四人、弟一人
(それにおばとおばのむすめよにんのだいかぞくだったはずであるが、おばをのぞいてほかの)
それに叔母と叔母の娘四人の大家族だった筈であるが、叔母を除いて他の
(ひとたちのことはわたしもごじゅうろくさいになるまではほとんどしらずにいたといってもよい。)
人たちの事は私も五十六歳になるまでは殆ど知らずにいたと言ってもよい。
(ひろいうらにわに、むかしりんごのたいぼくがごじゅうろっぽんあったようで、どんよりくもったひ、)
広い裏庭に、むかし林檎の大木が五十六本あったようで、どんより曇った日、
(それらのきにおんなのこがおおにんずうでのぼっていったありさまや、そのおなじにわのいちぐうに)
それらの木に女の子が大人数で登って行った有様や、そのおなじ庭の一隅に
(きくばたがあって、あめのふっていたとき、わたしはやはりおおぜいのおんなのこらとかささしあって)
菊畑があって、雨の降っていたとき、私はやはり大勢の女の子らと傘さし合って
(きくのはなのさきそろっているのをながめたことなど、かすかにおぼえているけれど、)
菊の花の咲きそろっているのを眺めたことなど、幽かに覚えて居るけれど、
(あのおんなのこらがわたしのあねやいとこたちだったかもしれない。むっつななつになると)
あの女の子らが私の姉や従妹たちだったかも知れない。六つ七つになると
(おもいでもはっきりしている。わたしがたけというじょちゅうからほんをよむことをおしえられ)
思い出もはっきりしている。私がたけという女中から本を読むことを教えられ
(ふたりでさまざまのほんをよみあった。たけはわたしのきょういくにむちゅうであった。わたしはびょうしんだった)
二人で様々の本を読みあった。たけは私の教育に夢中であった。私は病身だった
(ので、ねながらたくさんほんをよんだ。よむほんがなくなればたけはむらのにちようがっこう)
ので、寝ながらたくさん本を読んだ。読む本がなくなればたけは村の日曜学校
(などからこどものほんをどしどしかりてきてわたしによませた。わたしはもくどくすることを)
などから子供の本をどしどし借りて来て私に読ませた。私は黙読することを
(おぼえていたので、いくらほんをよんでもつかれないのだ。たけはまた、わたしにどうとくを)
覚えていたので、いくら本を読んでも疲れないのだ。たけは又、私に道徳を
(おしえた。おてらへしばしばつれていって、じごくごくらくのおえかけじをみせてせつめいした。)
教えた。お寺へ屡々連れて行って、地獄極楽の御絵掛地を見せて説明した。
(ひをつけたひとはあかいひのめらめらもえているかごをせおわされ、めかけもったひとは)
火を放けた人は赤い火のめらめら燃えている籠を脊負わされ、めかけ持った人は
(ふたつのくびのあるあおいへびにからだをまかれて、せつながっていた。ちのいけや、)
二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて、せつながっていた。血の池や、
(はりのやまや、むげんならくというしろいけむりのたちこめたそこしれぬふかいあなや、いたるところで)
針の山や、無間奈落という白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や、到るところで
(あおじろくやせたひとたちがくちをちいさくあけてなきさけんでいた。うそをつけばじごくへ)
蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでいた。嘘を吐けば地獄へ
(いってこのようにおにのためにしたをぬかれるのだ、ときかされたときには)
行ってこのように鬼のために舌を抜かれるのだ、と聞かされたときには
(おそろしくてなきだした。そのおてらのうらはこだかいぼちになっていて、やまぶきかなにか)
恐ろしくて泣きだした。そのお寺の裏は小高い墓地になっていて、山吹かなにか
(のいけがきにそうてたくさんのそとばがはやしのようにたっていた。そとばには、まんげつ)
の生垣に沿うてたくさんの卒塔婆が林のように立っていた。卒塔婆には、満月
(ほどのおおきさでくるまのようなくろいてつのわのついているのがあって、そのわを)
ほどの大きさで車のような黒い鉄の輪のついているのがあって、その輪を
(からからまわして、やがて、そのままとまってじっとうごかないならそのまわしたひとは)
からから廻して、やがて、そのまま止ってじっと動かないならその廻した人は
(ごくらくいき、いったんとまりそうになってから、またからんとぎゃくにまわればじごくへおちる、)
極楽行き、一旦とまりそうになってから、又からんと逆に廻れば地獄へ落ちる、
(とたけはいった。たけがまわすと、いいおとをたててひとしきりまわって、かならず)
とたけは言った。たけが廻すと、いい音をたててひとしきり廻って、かならず
(ひっそりととまるのだけれど、わたしがまわすとあともどりすることがたまたまあるのだ。)
ひっそりと止るのだけれど、私が廻すと後戻りすることがたまたまあるのだ。
(あきのころときおくするが、わたしがひとりでおてらへいってそのこんりんのどれをまわして)
秋のころと記憶するが、私がひとりでお寺へ行ってその金輪のどれを廻して
(みてもみないいあわせたようにからんからんとぎゃくまわりしたひがあったのである。)
見ても皆言い合わせたようにからんからんと逆廻りした日があったのである。
(わたしはやぶれかけるかんしゃくだまをおさえつつなんじゅっかいとなくしつようにまわしつづけた。)
私は破れかけるかんしゃくだまを抑えつつ何十回となく執拗に廻しつづけた。
(ひがくれかけてきたので、わたしはぜつぼうしてそのぼちからたちさった。)
日が暮れかけて来たので、私は絶望してその墓地から立ち去った。