晩年 ⑫

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プレイ回数837難易度(4.2) 5425打 長文 かな
太宰 治

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問題文

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(わたしはかおにきょうみをもっていたのである。どくしょにあきるとてかがみをとりだし、)

私は顔に興味を持っていたのである。読書にあきると手鏡をとり出し、

(ほほえんだりまゆをひそめたりほおづえついてしあんにくれたりして、そのひょうじょうをあかず)

微笑んだり眉をひそめたり頬杖ついて思案にくれたりして、その表情をあかず

(ながめた。わたしはかならずひとをわらわせることのできるひょうじょうをえとくした。めをほそくして)

眺めた。私は必ずひとを笑わせることのできる表情を会得した。目を細くして

(はなをしわめ、くちをちいさくとがらすと、こぐまのようでかわいかったのである。わたしはふまんな)

鼻を皺め、口を小さく尖らすと、児熊のようで可愛かったのである。私は不満な

(ときやとうわくしたときにそのかおをした。わたしのすぐのあねはそのじぶん、まちの)

ときや当惑したときにその顔をした。私のすぐの姉はそのじぶん、まちの

(けんりつびょういんのないかへにゅういんしていたが、わたしはあねをみまいにいってそのかおをして)

県立病院の内科へ入院していたが、私は姉を見舞いに行ってその顔をして

(みせると、あねははらをおさえてしんだいのうえをころげまわった。あねはうちからつれてきた)

見せると、姉は腹をおさえて寝台の上をころげ廻った。姉はうちから連れてきた

(ちゅうねんのじょちゅうとふたりきりでびょういんにくらしていたものだから、ずいぶんさびしがって)

中年の女中とふたりきりで病院に暮らしていたものだから、ずいぶん淋しがって

(びょういんのながいろうかをのしのしあるいてくるわたしのあしおとをきくと、もうはしゃいでいた。)

病院の長い廊下をのしのし歩いてくる私の足音を聞くと、もうはしゃいでいた。

(わたしのあしおとはなみはずれてたかいのだ。わたしがもしいっしゅうかんでもあねのところをおとずれないと、)

私の足音は並はずれて高いのだ。私が若し一週間でも姉のところを訪れないと、

(あねはじょちゅうをつかってわたしをむかえによこした。わたしがいかないと、あねのねつはふしぎに)

姉は女中を使って私を迎えによこした。私が行かないと、姉の熱は不思議に

(あがってようだいがよくない、とそのじょちゅうがまがおでいっていた。)

あがって容態がよくない、とその女中が真顔で言っていた。

(そのころはもうわたしもじゅうごろくになっていたし、てのこうにはじょうみゃくのあおいけっかんが)

その頃はもう私も十五六になっていたし、手の甲には静脈の青い血管が

(うっすりとすいてみえて、からだもいようにおもおもしくかんじられていた。)

うっすりと透いて見えて、からだも異様におもおもしく感じられていた。

(わたしはおなじくらすのいろのくろいちいさなせいととひそかにあいしあった。がっこうからの)

私は同じクラスのいろの黒い小さな生徒とひそかに愛し合った。学校からの

(かえりにはきっとふたりしてならんであるいた。おたがいのこゆびがすれあってさえも、)

帰りにはきっと二人してならんで歩いた。お互いの小指がすれあってさえも、

(わたしたちはかおをあかくした。いつぞや、ふたりでがっこうのうらみちのほうをあるいてかえったら、)

私たちは顔を赤くした。いつぞや、二人で学校の裏道の方を歩いて帰ったら、

(せりやはこべのあおあおとのびているたみぞのなかにいもりがいっぴきういているのを)

芹やはこべの青々と伸びている田溝の中にいもりがいっぴき浮いているのを

(そのせいとがみつけ、だまってそれをすくってわたしにくれた。わたしは、いもりは)

その生徒が見つけ、黙ってそれを掬って私に呉れた。私は、いもりは

(きらいであったけれど、うれしそうにはしゃぎながらそれをはんけちへくるんだ。)

嫌いであったけれど、嬉しそうにはしゃぎながらそれを手巾へくるんだ。

など

(うちへもってかえって、なかにわのちいさないけにはなした。いもりはみじかいくびをふりふりおよぎ)

うちへ持って帰って、中庭の小さな池に放した。いもりは短い首をふりふり泳ぎ

(まわっていたが、つぎのあさみたらにげてしまっていなかった。)

廻っていたが、次の朝みたら逃げて了っていなかった。

(わたしはたかいじきょうのこころをもっていたから、わたしのおもいをあいてにうちあけるなどかんがえも)

私はたかい自矜の心を持っていたから、私の思いを相手に打ち明けるなど考えも

(つかぬことであった。そのせいとへはふだんからくちもあんまりきかなかったし、)

つかぬことであった。その生徒へは普段から口もあんまり利かなかったし、

(またおなじころとなりのいえのやせたじょがくせいをもわたしはいしきしていたのだが、)

また同じころ隣の家の痩せた女学生をも私は意識していたのだが、

(このじょがくせいとはみちであっても、ほとんどそのひとをばかにしているようにぐっと)

此の女学生とは道で逢っても、ほとんどその人を莫迦にしているようにぐっと

(かおをそむけてやるのである。あきのじぶん、よなかにかじがあって、わたしもおきてそとへ)

顔をそむけてやるのである。秋のじぶん、夜中に火事があって、私も起きて外へ

(でてみたら、ついちかくのやしろのかげあたりがひのこをちらしてもえていた。)

出て見たら、つい近くの社の陰あたりが火の粉をちらして燃えていた。

(やしろのすぎばやしがそのほのおをかこうようにまっくろくたって、そのうえをことりがたくさん)

社の杉林がその焔を囲うようにまっくろく立って、そのうえを小鳥がたくさん

(おちばのようにくるいとんでいた。わたしは、となりのうちのかどぐちからしろいねまきの)

落ち葉のように狂い飛んでいた。私は、隣のうちの門口から白い寝巻の

(おんなのこがわたしのほうをみているのを、ちゃんとしっていながら、よこがおだけをそっちに)

女の子が私の方を見ているのを、ちゃんと知っていながら、横顔だけをそっちに

(むけてじっとかじをながめた。ほのおのあかいひかりをあびたわたしのよこがおは、きっときらきら)

むけてじっと火事を眺めた。焔の赤い光を浴びた私の横顔は、きっときらきら

(うつくしくみえるだろうとおもっていたのである。こんなあんばいであったから、)

美しく見えるだろうと思っていたのである。こんな案配であったから、

(わたしはまえのせいととでも、またこのじょがくせいとでも、もっとすすんだこうしょうをもつことが)

私はまえの生徒とでも、また此の女学生とでも、もっと進んだ交渉を持つことが

(できなかった。けれどもひとりでいるときには、わたしはもっとだいたんだったはずである)

できなかった。けれどもひとりでいるときには、私はもっと大胆だった筈である

(かがみのわたしのかおへ、かためをつぶってわらいかけたり、つくえのうえにこがたなでうすいくちびるを)

鏡の私の顔へ、片眼をつぶって笑いかけたり、机の上に小刀で薄い唇を

(ほりつけて、それへわたしのくちびるをのせたりした。このくちびるには、あとであかいいんくを)

ほりつけて、それへ私の唇をのせたりした。この唇には、あとで赤いインクを

(ぬってみたが、みょうにどすくろくなっていやなかんじがしてきたから、わたしはこがたなで)

塗ってみたが、妙にどすくろくなっていやな感じがして来たから、私は小刀で

(すっかりけずりとってしまった。わたしがさんねんせいになって、はるのあるあさ、)

すっかり削りとって了った。私が三年生になって、春のあるあさ、

(とうこうのみちすがらにしゅでそめたはしのまるいらんかんへもたれかかって、わたしはしばらく)

登校の道すがらに朱で染めた橋のまるい欄干へもたれかかって、私はしばらく

(ぼんやりしていた。はしのしたにはすみだがわににたひろいかわがゆるゆるとながれていた。)

ぼんやりしていた。橋の下には隅田川に似た広い川がゆるゆると流れていた。

(まったくぼんやりしているけいけんなど、それまでのわたしにはなかったのである。)

全くぼんやりしている経験など、それまでの私にはなかったのである。

(うしろでだれかみているようなきがして、わたしはいつでもなにかのたいどを)

うしろで誰か見ているような気がして、私はいつでも何かの態度を

(つくっていたのである。わたしのいちいちのこまかいしぐさにも、かれはとうわくしててのひらを)

つくっていたのである。私のいちいちのこまかい仕草にも、彼は当惑して掌を

(ながめた、かれはみみのうらをかきながらつぶやいた、などとそばからせつめいくをつけていたので)

眺めた、彼は耳の裏を搔きながら呟いた、などと傍から説明句をつけていたので

(あるから、わたしにとって、ふと、とか、われしらず、とかいうどうさは)

あるから、私にとって、ふと、とか、われしらず、とかいう動作は

(ありえなかったのである。はしのうえでのほうしんからさめたのち、わたしはさびしさに)

あり得なかったのである。橋の上での放心から覚めたのち、私は寂しさに

(わくわくした。そんなきもちのときには、わたしもまた、じぶんのきしかたゆくすえを)

わくわくした。そんな気持ちのときには、私もまた、自分の来しかた行末を

(かんがえた。はしをかたかたわたりながら、いろんなことをおもいだし、またむそうした。)

考えた。橋をかたかた渡りながら、いろんな事を思い出し、また夢想した。

(そして、おしまいにためいきついてこうかんがえた。えらくなれるかしら、そのぜんごから)

そして、おしまいに溜息ついてこう考えた。えらくなれるかしら、その前後から

(わたしはこころのあせりをはじめていたのである。わたしは、すべてについて)

私はこころのあせりをはじめていたのである。私は、すべてに就いて

(まんぞくしきれなかったから、いつもくうきょなあがきをしていた。わたしにはとえはたえの)

満足し切れなかったから、いつも空虚なあがきをしていた。私には十重二十重の

(かめんがへばりついていたので、どれがどんなにかなしいのか、みきわめをつける)

仮面がへばりついていたので、どれがどんなに悲しいのか、見極めをつける

(ことができなかったのである。そしてとうとうわたしはあるわびしいはけぐちを)

ことができなかったのである。そしてとうとう私は或るわびしいはけ口を

(みつけたのだ。そうさくであった。ここにはたくさんのどうるいがいて、みんなわたしと)

見つけたのだ。創作であった。ここにはたくさんの同類がいて、みんな私と

(おなじようにこのわけのわからぬおののきをみつめているように)

同じように此のわけのわからぬおののきを見つめているように

(おもわれたのである。さっかになろう、さっかになろう、とわたしはひそかにがんぼうした。)

思われたのである。作家になろう、作家になろう、と私はひそかに願望した。

(おとうともそのとしちゅうがっこうへはいって、わたしとひとつべやにねおきしていたが、)

弟もそのとし中学校へはいって、私とひとつ部屋に寝起きしていたが、

(わたしはおとうととそうだんして、しょかのころにごろくにんのゆうじんたちをあつめどうじんざっしをつくった。)

私は弟と相談して、初夏のころに五六人の友人たちを集め同人雑誌をつくった。

(わたしのいるうちのすじむかいにおおきいいんさつしょがあったから、そこへたのんである。ひょうしも)

私の居るうちの筋向いに大きい印刷所があったから、そこへ頼んである。表紙も

(せきばんでうつくしくすらせた。くらすのひとたちへそのざっしをくばってやった。)

石版でうつくしく刷らせた。クラスの人たちへその雑誌を配ってやった。

(わたしはそれへまいつきひとつずつそうさくをはっぴょうしたのである。はじめはどうとくについての)

私はそれへ毎月ひとつずつ創作を発表したのである。はじめは道徳に就いての

(てつがくしゃめいたしょうせつをかいた。いちぎょうかにぎょうのだんぺんてきなずいひつをもとくいとしていた。)

哲学者めいた小説を書いた。一行かニ行の断片的な随筆をも得意としていた。

(このざっしはそれからいちねんほどつづけたが、わたしはそのことでちょうけいときまずいことを)

この雑誌はそれから一年ほど続けたが、私はそのことで長兄と気まずいことを

(おこしてしまった。ちょうけいはわたしのぶんがくにねっきょうしているらしいのをしんぱいして、)

起こしてしまった。長兄は私の文学に熱狂しているらしいのを心配して、

(きょうりからながいてがみをよこしたのである。かがくにはほうていしきありきかには)

郷里から長い手紙をよこしたのである。科学には方程式あり幾何には

(ていりがあって、それをかいするかんぜんなかぎがあたえられているが、)

定理があって、それを解する完全な鍵が与えられているが、

(ぶんがくにはそれがないのです、ゆるされたねんれい、かんきょうにたっしなければぶんがくをせいとうに)

文学にはそれがないのです、ゆるされた年齢、環境に達しなければ文学を正当に

(つかむことがふかのうとぞんじます、とものがたいちょうしでかいてあった。)

掴むことが不可能と存じます、と物堅い調子で書いてあった。

(わたしもそうだとおもった。しかもわたしは、じぶんをそのゆるされたにんげんであるとしんじた。)

私もそうだと思った。しかも私は、自分をその許された人間であると信じた。

(わたしはすぐちょうけいへへんじした。あにうえのいうことはほんとうだとおもう、りっぱなあにを)

私はすぐ長兄へ返事した。兄上の言うことは本当だと思う、立派な兄を

(もつことはこうふくである、しかし、わたしはぶんがくのためにべんきょうをおこたることがない、)

持つことは幸福である、しかし、私は文学のために勉強を怠ることがない、

(そのゆえにこそいっそうべんきょうしているほどである。とこちょうしたかんじょうをさえ)

その故にこそいっそう勉強しているほどである。と誇張した感情をさえ

(ところどころにまぜてちょうけいへつげてやったのである。)

ところどころにまぜて長兄へ告げてやったのである。

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