晩年 ⑮
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問題文
(そのひめしをしらせにきたのは、しあわせと、みよでなかった。おもやへとおるまめばたけの)
その日めしを知らせに来たのは、仕合せと、みよでなかった。母屋へ通る豆畑の
(あいだのせまいみちを、てんてんといちれつにつらなってあるいていくみなのうしろへついて)
あいだの狭い道を、てんてんと一列につらなって歩いて行く皆のうしろへついて
(わたしはようきにはしゃぎながらまめのまるいはをいくまいもいくまいもむしりとった。)
私は陽気にはしゃぎながら豆の丸い葉を幾枚も幾枚もむしりとった。
(ぎせいなどということははじめからかんがえてなかった。ただいやだったのだ。)
犠牲などということは始めから考えてなかった。ただいやだったのだ。
(らいらっくのしろいしげみがどろをあびせられた。ことにそのにいたずらものがにくしんであるのが)
ライラックの白い茂みが泥を浴びせられた。殊にそのに悪戯者が肉親であるのが
(いっそういやであった。それからのにさんにちは、さまざまにおもいなやんだ)
いっそういやであった。それからのニ三日は、さまざまに思いなやんだ
(みよだってにわをあるくことがあるでないか。かれはわたしのあくしゅにはほとんどとうわくした。)
みよだって庭を歩くことがあるでないか。彼は私の握手にはほとんど当惑した。
(ようするにわたしはめでたいのではないだろうか。わたしにとって、めでたいということほど)
要するに私はめでたいのではないだろうか。私にとって、めでたいという事ほど
(ひどいちじょくはなかったのである。おなじころ、よくないことがつづいておこった。)
ひどい恥辱はなかったのである。おなじころ、よくないことが続いて起こった。
(あるひのちゅうしょくのさいに、わたしはおとうとやゆうじんたちといっしょにしょくたくへむかっていたが、)
ある日の昼食の際に、私は弟や友人たちといっしょに食卓へ向かっていたが、
(そのそばでみよが、あかいさるのめんのえうちわでぱさぱさとわたしたちをあおぎながら)
その傍でみよが、紅い猿の面の絵団扇でぱさぱさと私たちをあおぎながら
(きゅうじしていた。わたしはそのうちわのかぜのりょうで、みよのこころをこっそりはかっていたものだ)
給仕していた。私はその団扇の風の量で、みよの心をこっそり計っていたものだ
(みよは、わたしよりもおとうとのほうをおおくあおいだ。わたしはぜつぼうして、かつれつのさらへ)
みよは、私よりも弟の方を多くあおいだ。私は絶望して、カツレツの皿へ
(ばちっとふおくをおいた。みんなしてわたしをいじめるのだ、とおもいこんだ。)
ばちっとフオクを置いた。みんなして私をいじめるのだ、と思い込んだ。
(ゆうじんたちだってまえからしっていたにちがいない、とむやみにひとをうたがった。)
友人たちだってまえから知っていたに違いない、と無闇に人を疑った。
(もう、みよをわすれてやるからいい、とわたしはひとりできめていた。)
もう、みよを忘れてやるからいい、と私はひとりできめていた。
(またにさんにちたって、あるあさのこと、わたしは、ぜんやふかしたたばこがまだごろっぽん)
またニ三日たって、ある朝のこと、私は、前夜ふかした煙草がまだ五六ぽん
(はこにはいってのこっているのをまくらもとへおきわすれたままでばんごやへでかけ、)
箱にはいって残っているのを枕元へ置き忘れたままで番小屋へ出掛け、
(あとできがついてうろたえてへやへひきかえしてみたが、へやはきれいにかたづけられ)
あとで気がついてうろたえて部屋へ引返して見たが、部屋は綺麗に片づけられ
(はこがなかったのである。わたしはかんねんした。みよをよんで、たばこはどうした、)
箱がなかったのである。私は観念した。みよを呼んで、煙草はどうした、
(みつけられたろう、としかるようにしてきいた。みよはまじめなかおをして)
見つけられたろう、と叱るようにして聞いた。みよは真面目な顔をして
(くびをふった。そしてすぐ、へやのなげしのうらへせのびしててをつっこんだ。)
首を振った。そしてすぐ、部屋のなげしの裏へ脊のびして手をつっこんだ。
(きんいろのふたつのかわほりがとんであるみどりいろのちいさなかみばこはそこからでた。)
金色の二つの蝙蝠が飛んである緑いろの小さな紙箱はそこから出た。
(わたしはこのことからゆうきをひゃくばいにもしてとりもどし、まえからのけついにふたたび)
私はこのことから勇気を百倍にもして取りもどし、まえからの決意にふたたび
(めざめたのである。しかし、おとうとのことをおもうとやはりきがふさがって、)
眼ざめたのである。しかし、弟のことを思うとやはり気がふさがって、
(みよのわけでゆうじんたちとさわぐことをもさけたし、そのほかおとうとには、なにかに)
みよのわけで友人たちと騒ぐことをも避けたし、そのほか弟には、なにかに
(つけていやしいえんりょをした。じぶんからすすんでみよをゆうわくすることもひかえた。)
つけていやしい遠慮をした。自分から進んでみよを誘惑することもひかえた。
(わたしはみよからうちあけられるのをまつことにした。わたしはいくらでもそのきかいを)
私はみよから打ち明けられるのを待つことにした。私はいくらでもその機会を
(みよにあたえることができたのだ。わたしはしばしばみよをへやへよんでいらないようじを)
みよに与えることができたのだ。私は屡々みよを部屋へ呼んで要らない用事を
(いいつけた。そして、みよがわたしのへやへはいってくるときには、わたしはどこかしら)
言いつけた。そして、みよが私の部屋へはいって来るときには、私はどこかしら
(ゆだんのあるくつろいだかっこうをしてみせたのである。)
油断のあるくつろいだ格好をして見せたのである。
(みよのこころをうごかすために、わたしはかおにもきをくばった。そのころになってわたしのかおの)
みよの心を動かすために、私は顔にも気をくばった。その頃になって私の顔の
(ふきでものもどうやらなおっていたが、それでもだせいで、わたしはなにかと)
吹出物もどうやら直っていたが、それでも惰性で、私はなにかと
(かおをこしらえていた。わたしはそのふたのおもてにつたのようなながくくねったつるくさが)
顔をこしらえていた。私はその蓋のおもてに蔦のような長くくねった蔓草が
(いっぱいほりこまれてあるうつくしいぎんのこんぱくとをもっていた。それでもって)
いっぱい彫り込まれてある美しい銀のコンパクトを持っていた。それでもって
(わたしのきめをときおりうめていたのだけれど、それをなおすこしこころをいれてしたのである)
私のきめを時折うめていたのだけれど、それを尚すこし心をいれてしたのである
(これからはもう、みよのけっしんしだいであるとおもった。しかし、きかいはなかなか)
これからはもう、みよの決心しだいであると思った。しかし、機会はなかなか
(こなかったのである。ばんごやでべんきょうしているあいだも、ときどきそこからぬけでて、)
来なかったのである。番小屋で勉強している間も、ときどきそこから抜け出て、
(みよをみにおもやへかえった。ほとんどあらっぽいほどばたんばたんとはきそうじしている)
みよを見に母屋へ帰った。殆どあらっぽいほどばたんばたんとはき掃除している
(みよのすがたをそっとながめてはくちびるをかんだ。)
みよの姿をそっと眺めては唇をかんだ。
(そのうちにとうとうなつやすみもおわりになって、わたしはおとうとやゆうじんたちとともに)
そのうちにとうとう夏やすみも終わりになって、私は弟や友人たちとともに
(こきょうをたちさらなければいけなくなった。せめてこのつぎのきゅうかまで)
故郷を立ち去らなければいけなくなった。せめて此のつぎの休暇まで
(わたしをわすれさせないでおくようななにかちょっとしたおもいでだけでも、みよのこころに)
私を忘れさせないで置くような何か鳥渡した思い出だけでも、みよの心に
(うえつけたいとねんじたが、それもだめであった。)
植えつけたいと念じたが、それも駄目であった。
(しゅっぱつのひがきて、わたしたちはうちのくろいはこばしゃへのりこんだ。うちのひとたちと)
出発の日が来て、私たちはうちの黒い箱馬車へ乗り込んだ。うちの人たちと
(ならんでげんかんのさきへ、みよもみおくりにたっていた。みよは、わたしのほうもおとうとのほうも、)
並んで玄関の先へ、みよも見送りに立っていた。みよは、私の方も弟の方も、
(みなかった。はずしたもえぎのたすきをじゅずのようにりょうてでつまぐりながら)
見なかった。はずした萌黄のたすきを数珠のように両手でつまぐりながら
(したばかりをむいていた。いよいよばしゃがうごきだしてもそうしていた。)
下ばかりを向いていた。いよいよ馬車が動き出してもそうしていた。
(わたしはおおきいこころのこりをかんじてこきょうをはなれたのである。)
私はおおきい心残りを感じて故郷を離れたのである。
(あきになって、わたしはそのとかいからきしゃでさんじゅっぷんぐらいかかっていけるかいがんの)
秋になって、私はその都会から汽車で三十分ぐらいかかって行ける海岸の
(おんせんちへ、おとうとをつれてでかけた。そこには、わたしのははとびょうごのすえのあねとが)
温泉地へ、弟をつれて出掛けた。そこには、私の母と病後の末の姉とが
(いえをかりてとうじしていたのだ。わたしはずっとそこへねとまりして、じゅけんべんきょうを)
家を借りて湯治していたのだ。私はずっとそこへ寝泊まりして、受験勉強を
(つづけた。わたしはしゅうさいというぬきさしならぬめいよのために、どうしても、)
つづけた。私は秀才というぬきさしならぬ名誉のために、どうしても、
(ちゅうがくよねんからこうとうがっこうへはいってみせなければならなかったのである。)
中学四年から高等学校へはいって見せなければならなかったのである。
(わたしのがっこうぎらいはそのころになって、いっそうひどかったのであるが、なにかに)
私の学校ぎらいはその頃になって、いっそうひどかったのであるが、何かに
(おわれているわたしは、それでもいちずにべんきょうしていた。わたしはそこからきしゃでがっこうへ)
追われている私は、それでも一途に勉強していた。私はそこから汽車で学校へ
(かよった。にちようごとにゆうじんたちがあそびにくるのだ。わたしたちは、もうみよのことを)
通った。日曜毎に友人たちが遊びに来るのだ。私たちは、もうみよの事を
(わすれたようにしていた。わたしはゆうじんたちとかならずぴくにっくにでかけた。)
忘れたようにしていた。私は友人たちと必ずピクニックにでかけた。
(かいがんのひらたいいわおのうえで、にくなべをこさえ、ぶどうしゅをのんだ。おとうとはこえもよくて)
海岸のひらたい岩の上で、肉鍋をこさえ、葡萄酒をのんだ。弟は声もよくて
(おおくのあたらしいうたをしっていたから、わたしたちはそれらをおとうとにおしえてもらって、)
多くのあたらしい歌を知っていたから、私たちはそれらを弟に教えてもらって、
(こえをそろえてうたった。あそびつかれてそのいわのうえでねむって、めがさめるとしおが)
声をそろえて歌った。遊びつかれてその岩の上で眠って、眼がさめると潮が
(みちてりくつづきだったはずのそのいわが、いつかはなれじまになっているので、)
満ちて陸つづきだった筈のその岩が、いつか離れ島になっているので、
(わたしたちはまだゆめからさめないでいるようなきがするのである。)
私たちはまだ夢から醒めないでいるような気がするのである。