晩年 ㉕

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太宰 治

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問題文

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(ここにはあさひがまっすぐにあたり、なごやかなかぜさえほおにかんぜられるのだ。)

ここには朝日がまっすぐに当り、なごやかな風さえ頬に感ぜられるのだ。

(わたしはかしににたきのそばへいって、こしをおろした。これは、ほんとうにかしであろうか)

私は樫に似た木の傍へ行って、腰をおろした。これは、ほんとうに樫であろうか

(それともならかもみであろうか。わたしはこずえまでずっとみあげたのである。)

それとも楢か樅であろうか。私は梢までずっと見あげたのである。

(かれたほそいえだがごろっぽん、そらにむかい、てづかなところにあるえだは、)

枯れた細い枝が五六本、空にむかい、手づかなところにある枝は、

(たいていぶざまにへしおられていた。のぼってみようか。)

たいていぶざまにへし折られていた。のぼってみようか。

(ふぶきのこえわれをよぶかぜのおとであろう。わたしはするするのぼりはじめた。)

ふぶきのこえ われをよぶ 風の音であろう。私はするするのぼり始めた。

(きづかれがひどいと、さまざまなうたごえがきこえるものだ。わたしはこずえにまでたっした。)

気疲れがひどいと、さまざまな歌声がきこえるものだ。私は梢にまで達した。

(こずえのかれえだをにさんどばさばさゆさぶってみた。)

梢の枯れ枝をニ三度ばさばさゆさぶってみた。

(いのちともしきわれをよぶ)

いのちともしき われをよぶ

(あしだまりにしていたかれえだがぽきっとおれた。ふかくにもわたしは、)

足だまりにしていた枯れ枝がぽきっと折れた。不覚にも私は、

(みきずたいにすべりおちた。「おったな。」そのこえを、ついあたまのうえで、)

幹ずたいに滑り落ちた。「折ったな。」その声を、つい頭の上で、

(はっきりきいた。わたしはみきにすがってたちあがり、うつろなめでこえのあかりを)

はっきり聞いた。私は幹にすがって立ちあがり、うつろな眼で声のあかりを

(さがしたのである。ああ。せんりつがわたしのせをはしる。あさひをうけてきんいろにかがやく)

捜したのである。ああ。戦慄が私の背を走る。朝日を受けて金色にかがやく

(だんがいをいっぴきのさるがのそのそとおりてくるのだ。わたしのからだのなかでそれまで)

断崖を一匹の猿がのそのそと降りて来るのだ。私のからだの中でそれまで

(ねむらされていたものが、いちどにきらっとひかりだした。)

眠らされていたものが、いちどにきらっと光り出した。

(「おりてこい。えだをおったのはおれだ。」「それは、おれのきだ。」)

「降りて来い。枝を折ったのはおれだ。」「それは、おれの木だ。」

(がけをおりつくしたかれは、そうこたえてたきぐちのほうへあるいてきた。わたしはみがまえた。)

崖を降りつくした彼は、そう答えて滝口のほうへ歩いて来た。私は身構えた。

(かれはまぶしそうにひたいへたくさんのしわをよせて、わたしのすがたをじろじろながめ、やがて、)

彼はまぶしそうに額へたくさんの皺をよせて、私の姿をじろじろ眺め、やがて、

(まっしろいはをむきだしてわらった。わらいはわたしをいらだたせた。)

まっ白い歯をむきだして笑った。笑いは私をいらだたせた。

(「おかしいか。」「おかしい。」かれはいった。「うみをわたってきたろう。」)

「おかしいか。」「おかしい。」彼は言った。「海を渡って来たろう。」

など

(「うん。」また、うなずいてやった。「やっぱり、おれとおなじだ。」)

「うん。」また、うなずいてやった。「やっぱり、おれと同じだ。」

(かれはそうつぶやき、たきぐちのみずをすくってのんだ。いつのまにか、わたしたちはならんで)

彼はそう呟き、滝口の水を掬って飲んだ。いつの間にか、私たちは並んで

(すわっていたのである。「ふるさとがおなじなのさ。ひとめ、みるとわかる。)

坐っていたのである。「ふるさとが同じなのさ。一目、見ると判る。

(おれたちのくにのものは、みんなみみがひかっているのだよ。」かれはわたしのみみをつよく)

おれたちの国のものは、みんな耳が光っているのだよ。」彼は私の耳を強く

(つまみあげた。わたしはおこって、かれのそのいたずらしたみぎてをひっかいてやった。)

つまみあげた。私は怒って、彼のそのいたずらした右手を引っ搔いてやった。

(それからわたしたちはかおをみあわせてわらった。わたしは、なにやらくつろいだきぶんに)

それから私たちは顔を見合わせて笑った。私は、なにやらくつろいだ気分に

(なっていたのだ。けたたましいさけびごえがすぐみぢかでおきた。)

なっていたのだ。けたたましい叫び声がすぐ身ぢかで起きた。

(おどろいてふりむくと、ひとむらのおのふといけむくじゃらなさるが、)

おどろいて振りむくと、ひとむらの尾の太い毛むくしゃらな猿が、

(おかのてっぺんにじんどってわたしたちへほえかけているのである。わたしはたちあがった。)

丘のてっぺんに陣どって私たちへ吠えかけているのである。私は立上った。

(「よせ、よせ。こっちへてむかっているのじゃないよ。ほえざるというやつ。)

「よせ、よせ。こっちへ手むかっているのじゃないよ。ほえざるという奴。

(まいあさあんなにしてたいようにむかってほえたてるのだ。」わたしはぼうぜんとたちつくした。)

毎朝あんなにして太陽に向かって吠えたてるのだ。」私は呆然と立ちつくした。

(どのやまのみねにも、さるがいっぱいにむらがり、せをまるくしてあさひを)

どの山の峯にも、猿がいっぱいにむらがり、背をまるくして朝日を

(あびているのである。「これは、みんなさるか。」わたしはゆめみるようであった。)

浴びているのである。「これは、みんな猿か。」私は夢みるようであった。

(「そうだよ。しかし、おれたちとちがうさるだ。ふるさとがちがうのさ。」)

「そうだよ。しかし、おれたちとちがう猿だ。ふるさとがちがうのさ。」

(わたしはかれらをいっぴきいっぴきたんねんにながめわたした。ふさふさしたしろいけをあさかぜに)

私は彼等を一匹一匹たんねんに眺め渡した。ふさふさした白い毛を朝風に

(ふかせながらこざるにちちをのませているもの、あかいおおきなはなをそらにむけてなにかしら)

吹かせながら児猿に乳を飲ませている者、紅い大きな鼻を空にむけてなにかしら

(うたっているもの、しまのみごとなおをふりながらにっこうのなかでつるんでいるもの。)

歌っている者、縞の美事な尾を振りながら日光のなかでつるんでいる者。

(しかめつらをして、せわしげにあちこちさんぽしているもの。わたしはかれにささやいた。)

しかめつらをして、せわしげにあちこち散歩している者。私は彼に囁いた。

(「ここは、どこだろう。」かれはじひふかげなまなざしでこたえた。)

「ここは、どこだろう。」彼は慈悲ふかげな眼ざしで答えた。

(「おれもしらないのだよ。しかし、にほんではないようだ。」「そうか。」)

「おれも知らないのだよ。しかし、日本ではないようだ。」「そうか。」

(わたしはためいきをついた。「でも、このきはきそかしのようだが。」かれはふりかえって)

私は溜息をついた。「でも、この木は木曾樫のようだが。」彼は振りかえって

(かれきのみきをぴたぴたとたたき、ずっとこずえをみあげたのである。)

枯木の幹をぴたぴたと叩き、ずっと梢を見あげたのである。

(「そうでないよ。えだのはえかたがちがうし、それにきはだのひのはんしゃの)

「そうでないよ。枝の生えかたがちがうし、それに木肌の日の反射の

(しかただってにぶいじゃないか。もっとも、めがでてみないとわからぬけれど。」)

しかただって鈍いじゃないか。もっとも、芽が出てみないと判らぬけれど。」

(わたしはたったまま、かれきへよりかかってかれにたずねた。「どうしてめがでないのだ」)

私は立ったまま、枯木へ寄りかかって彼に尋ねた。「どうして芽が出ないのだ」

(「はるからかれているのさ、おれがここへきたときにもかれていた。あれから、)

「春から枯れているのさ、おれがここへ来たときにも枯れていた。あれから、

(しがつ、ごがつ、ろくがつ、とみつきもたっているが、しなびていくだけじゃないか。)

四月、五月、六月、と三つきも経っているが、しなびて行くだけじゃないか。

(これは、ことによったらさしきでないかな。ねがないのだよ。きっと。)

これは、ことに依ったら挿木でないかな。根がないのだよ。きっと。

(あっちのきは、もっとひどいよ。やつらのくそだらけだ。」そういってかれは、)

あっちの木は、もっとひどいよ。奴等のくそだらけだ。」そう言って彼は、

(ほえざるのいちぐんをゆびさした。ほえざるは、もうなきやんでいて、しまはわりあいに)

ほえざるの一群を指さした。ほえざるは、もう啼きやんでいて、島は割合に

(へいせいであった。「すわらないか。はなしをしよう。」わたしはかれにぽったりくっついて)

平静であった。「坐らないか。話をしよう。」私は彼にぽったりくっついて

(すわった。「ここは、いいところだろう。このしまのうちでは、ここがいちばん)

坐った。「ここは、いいところだろう。この島のうちでは、ここがいちばん

(いいのだよ。ひがあたるし、きがあるし、おまけに、みずのおとがきこえるし。」)

いいのだよ。日が当たるし、木があるし、おまけに、水の音が聞こえるし。」

(かれはきゃっかのちいさいたきをまんぞくげにみおろしたのである。)

彼は脚下の小さい滝を満足げにみおろしたのである。

(「おれは、にほんのほっぽうのかいきょうちかくにうまれたのだ。よるになるとなみのおとがかすかに)

「おれは、日本の北方の海峡ちかくに生まれたのだ。夜になると波の音が幽かに

(どぶんどぶんときこえたよ。なみのおとって、いいものだな。なんだかじわじわむねを)

どぶんどぶんと聞えたよ。波の音って、いいものだな。なんだかじわじわ胸を

(そそるよ。」わたしもふるさとのことをかたりたくなった。)

そそるよ。」私もふるさとのことを語りたくなった。

(「おれには、みずのおとよりもきがなつかしいな。にほんのちゅうぶのやまのおくのおくで)

「おれには、水の音よりも木がなつかしいな。日本の中部の山の奥の奥で

(うまれたものだから。あおばのかおりはいいぞ。」)

生まれたものだから。青葉の香りはいいぞ。」

(「それあ、いいさ。みんなきをなつかしがっているよ。だから、このしまに)

「それあ、いいさ。みんな木をなつかしがっているよ。だから、この島に

(いるやつはだれにしたって、いっぽんでもきのあるところにすわりたいのだよ。」)

いる奴は誰にしたって、一本でも木のあるところに坐りたいのだよ。」

(いいながらかれはまたのけわけて、ふかいあかぐろいきずあとをいくつもわたしにみせた。)

言いながら彼は股の毛わけて、深い赤黒い傷跡をいくつも私に見せた。

(「ここをおれのばしょにするのに、こんなくろうをしたのさ。」)

「ここをおれの場所にするのに、こんな苦労をしたのさ。」

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