晩年 ㉖

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太宰 治

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問題文

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(わたしは、このばしょからたちさろうとおもった。「おれは、しらなかったものだから」)

私は、この場所から立ち去ろうと思った。「おれは、知らなかったものだから」

(「いいのだよ。かまわないのだよ。おれは、ひとりぼっちなのだ。いまから、)

「いいのだよ。構わないのだよ。おれは、ひとりぼっちなのだ。いまから、

(ここをふたりのばしょにしてもいい。だが、もうえだをおらないようにしろよ。」)

ここをふたりの場所にしてもいい。だが、もう枝を折らないようにしろよ。」

(きりはまったくはれわたって、わたしたちのすぐめのまえに、いようなふうけいが)

霧はまったく晴れ渡って、私たちのすぐ眼のまえに、異様な風景が

(げんしゅつしたのである。あおば。それがまずわたしのめにしみた。わたしには、いまのきせつが)

現出したのである。青葉。それがまず私の眼にしみた。私には、いまの季節が

(はっきりわかった。ふるさとでは、しいのわかばがうつくしいころなのだ。わたしはくびをふりふり)

はっきり判った。ふるさとでは、椎の若葉が美しい頃なのだ。私は首をふりふり

(このなみきのあおばをながめた。しかし、そういうとうすいもしゅんじにやぶれた。)

この並木の青葉を眺めた。しかし、そういう陶酔も瞬時に破れた。

(わたしはふたたびきょうがくのめをみはったのである。あおばのしたには、みずをうったじゃりみちが)

私はふたたび驚愕の眼を見はったのである。青葉の下には、水を打った砂利道が

(すずしげにしかれていて、しろいよそおいをしたひとみのあおいにんげんたちが、ながれるように)

涼しげに敷かれていて、白いよそおいをした瞳の青い人間たちが、流れるように

(ぞろぞろあるいている。まばゆいとりのはねをあたまにつけたおんなもいた。)

ぞろぞろ歩いている。まばゆい鳥の羽を頭につけた女もいた。

(へびのかわのふといつえをゆるやかにふってみぎひだりにびしょうをおくるおとこもいた。)

蛇の皮のふとい杖をゆるやかに振って右左に微笑を送る男もいた。

(かれはわたしのわななくどうたいをつよくだき、くちばやにささやいた。)

彼は私のわななく胴体をつよく抱き、口早に囁いた。

(「おどろくなよ。まいにちこうなのだ。」「どうなるんだ。みんなおれたちを)

「おどろくなよ。毎日こうなのだ。」「どうなるんだ。みんなおれたちを

(ねらっている。」やまでとらわれ、このしまにつくまでのわたしのむざんなけいけんがおもいだされ)

狙っている。」山で捕われ、この島につくまでの私のむざんな経験が思い出され

(わたしはしたくちびるをかみしめた。「みせものだよ。おれたちのみせものだよ。)

私は下唇を噛みしめた。「見せ物だよ。おれたちの見せ物だよ。

(だまってみていろ。おもしろいこともあるよ。」かれはせわしげにそうおしえて、)

だまって見ていろ。面白いこともあるよ。」彼はせわしげにそう教えて、

(かたてではなおもわたしのからだをだきかかえ、もういっぽうのてであちこちのにんげんを)

片手ではなおも私のからだを抱きかかえ、もう一方の手であちこちの人間を

(ゆびさしつつ、ひそひそものがたってきかせたのである。あれはひとづまといって、)

指さしつつ、ひそひそ物語って聞かせたのである。あれは人妻と言って、

(ていしゅのおもちゃになるか、ていしゅのしはいしゃになるか、ふたとおりのいきかたしか)

亭主のおもちゃになるか、亭主の支配者になるか、ふたとおりの生きかたしか

(しらぬおんなで、もしかしたらにんげんのへそというものが、あんなかたちであるかもしれぬ。)

知らぬ女で、もしかしたら人間の臍というものが、あんな形であるかも知れぬ。

など

(あれはがくしゃといって、しんだてんさいにめいわくなちゅうしゃくをつけ、うまれるてんさいを)

あれは学者と言って、死んだ天才にめいわくな註釈をつけ、生まれる天才を

(たしなめながらめしをくっているおかしなやつだが、おれはあれをみるたびに、)

たしなめながらめしを食っているおかしな奴だが、おれはあれを見るたびに、

(なんともしれずねむりたくなるのだ。あれはじょゆうといって、ぶたいにいるときよりも)

なんとも知れず眠りたくなるのだ。あれは女優と言って、舞台にいるときよりも

(すがおでいるときのほうがしばいのじょうずなばばあで、おおお、またおれのおくのむしばが)

素面でいるときのほうが芝居の上手な婆で、おおお、またおれの奥の虫歯が

(いたんできた。あれはじぬしといって、じぶんもまたろうどうしているとしじゅう)

いたんで来た。あれは地主と言って、自分もまた労働しているとしじゅう

(べんめいばかりしているしょうたんしゃだが、おれはあのおすがたをみると、はなすじづたいにしらみが)

弁明ばかりしている小胆者だが、おれはあのお姿を見ると、鼻筋づたいに虱が

(はってあるいているようなもどかしさをおぼえる。また、あそこのべんちに)

這って歩いているようなもどかしさを覚える。また、あそこのベンチに

(こしかけているしろてぶくろのおとこは、おれのいちばんいやなやつで、みろ、あいつがここへ)

腰かけている白手袋の男は、おれのいちばんいやな奴で、見ろ、あいつがここへ

(あらわれたら、もはやちゅうふに、くさくきいろいくそのたつまきがあらわれているじゃないか。)

現れたら、もはや中夫に、臭く黄色い糞の竜巻が現れているじゃないか。

(わたしはかれのじょうぜつをうつつにきいていた。わたしはべつなものをみつめていたのである。)

私は彼の饒舌をうつつに聞いていた。私は別なものを見つめていたのである。

(もえるようなよっつのめを。あおくすんだにんげんのこどものめを。せんこくよりこのふたりの)

燃えるような四つの眼を。青く澄んだ人間の子供の眼を。先刻よりこの二人の

(こどもは、しまのがいかくにきずかれたごまいしのへいからやっとかおだけをのぞきこませ、)

子供は、島の外廓に築かれた胡麻石の塀からやっと顔だけを覗きこませ、

(むさぼるようにしまをながめまわしているのだ。ふたりながらおとこのこであろう。)

むさぼるように島を眺めまわしているのだ。二人ながら男の子であろう。

(みじかいきんぱつが、あさかぜにぱさぱさおどっている。ひとりはそばかすではなが)

短い金髪が、朝風にぱさぱさ踊っている。ひとりはそばかすで鼻が

(まっくろである。もうひとりのこは、もものはなのようなほおをしている。)

まっくろである。もうひとりの子は、桃の花のような頬をしている。

(やがてふたりは、どうじにくびをかしげてしあんした。それからはなのくろいこどもがくちびるを)

やがて二人は、同時に首をかしげて思案した。それから鼻のくろい子供が唇を

(むっととがらせ、はげしいくちょうであいてになにかみみうちした。わたしはかれのからだをりょうてで)

むっと尖らせ、烈しい口調で相手に何か耳うちした。私は彼のからだを両手で

(ゆすぶってさけんだ。「なにをいっているのだ。おしえてくれ。あのこどもたちは)

ゆすぶって叫んだ。「何を言っているのだ。教えて呉れ。あの子供たちは

(なにをいっているのだ。」かれはぎょっとしたらしく、ふっとおしゃべりをよし、)

何を言っているのだ。」彼はぎょっとしたらしく、ふっとおしゃべりを止し、

(わたしのかおとむこうのこどもたちとをみくらべた。そうして、くちをもぐもぐうごかしつつ)

私の顔と向こうの子供たちとを見較べた。そうして、口をもぐもぐ動かしつつ

(しばらくおもいにしずんだのだ。わたしはかれのそういうこんきゃくにただならぬけはいを)

暫く思いに沈んだのだ。私は彼のそういう困却にただならぬ気配を

(みてとったのである。こどもたちがわけのわからぬことばをするどくしまへはきつけて、)

見てとったのである。子供たちが訳のわからぬ言葉をするどく島へ吐きつけて、

(そろっていしべいのうえからかげをけしてしまってからも、かれはひたいにいじわるげな)

そろって石塀の上から影を消してしまってからも、彼は額に意地わるげな

(わらいをさえふくめてのろのろといいだした。)

笑いをさえ含めてのろのろと言いだした。

(「いつきてみてもかわらない、とほざいたのだよ。」かわらない。)

「いつ来て見ても変わらない、とほざいたのだよ。」変わらない。

(わたしにはいっさいがわかった。わたしのぎわくが、まんまとてきちゅうしていたのだ。かわらない。)

私には一切がわかった。私の疑惑が、まんまと的中していたのだ。変わらない。

(これはひひょうのことばである。みせものはわたしたちなのだ。)

これは批評の言葉である。見せ物は私たちなのだ。

(「そうか。すると、きみはうそをついていたのだね。」ぶちころそうとおもった。)

「そうか。すると、君は嘘をついていたのだね。」ぶち殺そうと思った。

(かれはわたしのからだにまきつけていたかたてへぎゅっとちからをこめてこたえた。)

彼は私のからだに巻きつけていた片手へぎゅっと力をこめて答えた。

(「ふびんだったから。」わたしはかれのはばのひろいむねにむしゃぶりついたのである。)

「ふびんだったから。」私は彼の幅のひろい胸にむしゃぶりついたのである。

(かれのいやらしいしんせつにたいするふんぬよりも、おのれのむちにたいするしゅうちのねんが)

彼のいやらしい親切に対する憤怒よりも、おのれの無智に対する羞恥の念が

(たまらなかった。「なくのはやめろよ。どうにもならぬ。」かれはわたしのせを)

たまらなかった。「泣くのはやめろよ。どうにもならぬ。」彼は私の背を

(かるくたたきながらも、ものうげにつぶやいた。「あのいしべいのうえにほそながいきのふだが)

かるくたたきながらも、ものうげに呟いた。「あの石塀の上に細長い木の札が

(たてられているだろう?あれたちにはうらのうすぎたなくあかちゃけたもくめだけを)

立てられているだろう?あれたちには裏の薄汚く赤ちゃけた木目だけを

(みせているが、あのおもてには、なんとかかれてあるか。にんげんたちはそれを)

見せているが、あのおもてには、なんと書かれてあるか。人間たちはそれを

(よむのだよ。みみのひかるのがにほんのさるだ、とかかれてあるのさ。)

読むのだよ。耳の光るのが日本の猿だ、と書かれてあるのさ。

(いや、もしかしたら、もっとひどいぶじょくがかかれてあるのかもしれないよ。」)

いや、もしかしたら、もっとひどい侮辱が書かれてあるのかも知れないよ。」

(わたしはききたくもなかった。かれのうでからのがれ、かれきのもとへとんでいった。)

私は聞きたくもなかった。彼の腕からのがれ、枯木のもとへ飛んで行った。

(のぼった。こずえにしがみつき、しまのぜんぼうをみわたしたのである。にほんはすぐにたかく)

のぼった。梢にしがみつき、島の全貌を見渡したのである。日本はすぐに高く

(あがって、しまのここかしこからしろいもやがほやほやとたっていた。)

上って、島のここかしこから白い靄がほやほやと立っていた。

(ひゃっぴきものさるは、あおぞらのしたでのどかにひなたぼっこしてあそんでいた。わたしは、たきぐちの)

百匹もの猿は、青空の下でのどかに日向ぼっこして遊んでいた。私は、滝口の

(そばでじっとうずくまっているかれにこえをかけた。「みんなしらないのか。」)

傍でじっとうずくまっている彼に声をかけた。「みんな知らないのか。」

(かれはわたしのかおをみずにしたからこたえてよこした。)

彼は私の顔を見ずに下から答えてよこした。

(「しるものか。しっているのは、おそらく、おれときみとだけだよ。」)

「知るものか。知っているのは、おそらく、おれと君とだけだよ。」

(「なぜにげないのだ。」「きみはにげるつもりか。」「にげる。」)

「なぜ逃げないのだ。」「君は逃げるつもりか。」「逃げる。」

(あおば。じゃりみち。ひとのながれ。「こわくないか。」わたしはぐっとめをつぶった。)

青葉。砂利道。人の流れ。「こわくないか。」私はぐっと眼をつぶった。

(いってはいけないことばをかれはいったのだ。はたはたとみみをかすめてとおるかぜのおとに)

言ってはいけない言葉を彼は言ったのだ。はたはたと耳をかすめて通る風の音に

(まじって、ひくいうたごえがひびいていた。かれがうたっているのだろうか。めがあつい。)

まじって、低い歌声が響いていた。彼が歌っているのだろうか。眼が熱い。

(さっきわたしをきからおとしたのは、このうただ。わたしはめをつぶったまま)

さっき私を木から落としたのは、この歌だ。私は眼をつぶったまま

(みみかたむけたのである。「よせ、よせ。おりてこいよ。ここはいいところだよ。)

耳傾けたのである。「よせ、よせ。降りて来いよ。ここはいいところだよ。

(ひがあたるし、きがあるし、みずのおとがきこえるし、それにだいいち、)

日が当たるし、木があるし、水の音が聞こえるし、それにだいいち、

(めしのしんぱいがいらないのだよ。」かれのそうよぶこえをとおくからのようにきいた。)

めしの心配がいらないのだよ。」彼のそう呼ぶ声を遠くからのように聞いた。

(それからひくいわらいごえ。ああ。このゆうわくはしんじつににている。あるいはしんじつかも)

それからひくい笑い声。ああ。この誘惑は真実に似ている。あるいは真実かも

(しれぬ。わたしはこころのなかでおおきくよろめくものをおぼえたのである。けれども、)

知れぬ。私は心のなかで大きくよろめくものを覚えたのである。けれども、

(けれどもちは、やまでそだったわたしのばかなちは、やはりしつようにさけぶのだ。いな!)

けれども血は、山で育った私の馬鹿な血は、やはり執拗に叫ぶのだ。 否!

(せんはっぴゃくきゅうじゅうろくねん、ろくがつのなかば、ろんどんはくぶつかんふぞくどうぶつえんのじむしょに、)

一八九六年、六月のなかば、ロンドン博物館付属動物園の事務所に、

(にほんざるのとんそうがほうぜられた。しかも、いっぴきでなかった。にひきである。)

日本猿の遁走が報ぜられた。しかも、一匹出なかった。二匹である。

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