晩年 ㉛

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プレイ回数639難易度(4.5) 4200打 長文
太宰 治
順位 名前 スコア 称号 打鍵/秒 正誤率 時間(秒) 打鍵数 ミス 問題 日付
1 てんぷり 5528 A 5.6 97.7% 730.7 4133 93 62 2024/08/28

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問題文

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(さて、ぼくのしょうせつも、ようやくぼけてきたようである。ここらでいってん、)

さて、僕の小説も、ようやくぼけて来たようである。ここらで一転、

(ぱのらましきのすうこまをてんかいさせるか。おおきいことをいうでない。なにをさせても)

パノラマ式の数齣を展開させるか。おおきいことを言うでない。なにをさせても

(ぶきようなおまえが。ああ、うまくいけばよい。)

不器用なお前が。ああ、うまく行けばよい。

(あくるあさは、なごやかにはれていた。うみはないで、おおしまのふんかのけむりが、)

翌る朝は、なごやかに晴れていた。海は凪いで、大島の噴火のけむりが、

(すいへいせんのうえにしろくたちのぼっていた。よくない。ぼくはけしきをかくのがいやなのだ)

水平線の上に白くたちのぼっていた。よくない。僕は景色を書くのがいやなのだ

(いごうしつのかんじゃがめをさますと、びょうしつはこはるのひざしでいっぱいであった。)

い号室の患者が眼をさますと、病室は小春の日ざしで一杯であった。

(つきそいのかんごふと、おはようをいいかわし、すぐあさのたいおんをはかった。)

附添いの看護婦と、おはようを言い交わし、すぐ朝の体温を計った。

(ろくどよんぶあった。それから、しょくぜんのにっこうよくをしにヴぇらんだへでた。)

六度四分あった。それから、食前の日光浴をしにヴェランダへ出た。

(かんごふにそっとよこばらをこづかれるさきから、もはや、にごうしつのヴぇらんだを)

看護婦にそっと横腹を小突かれるさきから、もはや、に号室のヴェランダを

(ぬすみみしていたのである。きのうのしんかんじゃは、こんがすりのあわせをきちんときて)

盗み見していたのである。きのうの新患者は、紺絣の袷をきちんと着て

(とういすにすわり、うみをながめていた。まぶしそうにふといまゆをひそめていた。)

籐椅子に坐り、海を眺めていた。まぶしそうにふとい眉をひそめていた。

(そんなによいかおともおもえなかった。ときどきほおのがあぜをてのこうでかるく)

そんなによい顔とも思えなかった。ときどき頬のガアゼを手の甲でかるく

(たたいていた。にっこうよくようのしんだいによこたわって、うすめをあけつつそれだけを)

叩いていた。日光浴用の寝台に横わって、薄目をあけつつそれだけを

(かんさつしてから、かんごふにほんをもってこさせた。ぼばりーふじん。ふだんはこのほんを)

観察してから、看護婦に本を持って来させた。ボバリー夫人。ふだんはこの本を

(たいくつがって、ごろくぺーじもよむとなげだしてしまったものであるが、きょうはほんきに)

退屈がって、五六頁も読むと投げ出してしまったものであるが、きょうは本気に

(よみたかった。いま、これをよむのは、いかにもふさわしげであるとおもった。)

読みたかった。いま、これを読むのは、いかにもふさわしげであると思った。

(ぱらぱらとぺえじをくり、ひゃくぺーじのところあたりからよみはじめた。)

ぱらぱらとペエジを繰り、百頁のところあたりから読み始めた。

(よいいちぎょうをひろった。「えんまは、たいまつのひかりで、まよなかによめいりしたいと)

よい一行を拾った。「エンマは、炬火の光で、真夜中に嫁入りしたいと

(おもった。」ろごうしつのかんじゃも、めざめていた。にっこうよくをしにヴぇらんだへでて、)

思った。」ろ号室の患者も、目覚めていた。日光浴をしにヴェランダへ出て、

(ふとようぞうのすがたをみるなり、またびょうしつへかけこんだ。わけもなくこわかった。)

ふと葉蔵のすがたを見るなり、また病室へ駆けこんだ。わけもなく怖かった。

など

(すぐべっどへもぐりこんでしまったのである。つきそいのははおやは、わらいながら)

すぐベッドへもぐり込んでしまったのである。附添いの母親は、笑いながら

(もうふをかけてやった。ろごうしつのむすめは、あたまからもうふをひきかぶり、そのちいさい)

毛布をかけてやった。ろ号室の娘は、頭から毛布をひきかぶり、その小さい

(くらやみのなかでめをかがやかせ、りんしつのはなしごえにみみかたむけた。「びじんらしいよ。」)

暗闇のなかで眼をかがやかせ、隣室の話声に耳傾けた。「美人らしいよ。」

(それからしのびやかなわらいごえが。ひだとこすががとまっていたのである。)

それからしのびやかな笑い声が。飛騨と小菅が泊っていたのである。

(そのとなりのあいていたびょうしつのひとつべっどにふたりでねた。こすががさきに)

その隣の空いていた病室のひとつベッドにふたりで寝た。小菅がさきに

(めをさまし、そのほそながいめをしぶくあけてヴぇらんだへでた。ようぞうのすこし)

眼を覚まし、その細長い眼をしぶくあけてヴェランダへ出た。葉蔵のすこし

(きどったぽおずをよこめでちらとみてから、そんなぽおずをとらせたもとをさがしに)

気取ったポオズを横眼でちらと見てから、そんなポオズをとらせたもとを捜しに

(くるっとひだりへくびをねじむけた。いちばんはしのヴぇらんだでわかいおんながほんを)

くるっと左へ首をねじむけた。いちばん端のヴェランダでわかい女が本を

(よんでいた。おんなのしんだいのはいけいは、こけのあるぬれたいしがきであった。)

読んでいた。女の寝台の背景は、苔のある濡れた石垣であった。

(こすがは、せいようふうにかたをきゅっとすくめて、すぐへやへひきかえし、)

小菅は、西洋ふうに肩をきゅっとすくめて、すぐ部屋へ引き返し、

(ねむっているひだをゆりおこした。「おきろ。じけんだ。」かれらはじけんを)

眠っている飛騨をゆり起した。「起きろ。事件だ。」彼等は事件を

(ねつぞうすることをよろこぶ。「ようちゃんのだいぽおず。」かれらのかいわには、「だい」という)

捏造することを喜ぶ。「葉ちゃんの大ポオズ。」彼等の会話には、「大」という

(けいようしがしばしばもちいられる。たいくつなこのよのなかに、なにかきたいできるたいしょうが)

形容詞がしばしば用いられる。退屈なこの世のなかに、何か期待できる対象が

(ほしいからであろう。ひだは、おどろいてとびおきた。「なんだ。」)

欲しいからであろう。飛騨は、おどろいてとび起きた。「なんだ。」

(こすがは、わらいながらおしえた。「しょうじょがいるんだ。ようちゃんが、それへとくいの)

小菅は、笑いながら教えた。「少女がいるんだ。葉ちゃんが、それへ得意の

(よこがおをみせているのさ。」ひだもはしゃぎだした。りょうほうのまゆをおおげさにぐっと)

横顔を見せているのさ。」飛騨もはしゃぎだした。両方の眉をおおげさにぐっと

(うえへはねあげてたずねた。「びじんか?」「びじんらしいよ。ほんのうそよみをしている」)

上へはねあげて尋ねた。「美人か?」「美人らしいよ。本の嘘読みをしている」

(ひだはふきだした。べっどにこしかけたまま、じゃけつをき、ずぼんをはいてから)

飛騨は噴きだした。ベッドに腰かけたまま、ジャケツを着、ズボンをはいてから

(さけんだ。「よし、とっちめてやろう。」とっちめるつもりはないのである。)

叫んだ。「よし、とっちめてやろう。」とっちめるつもりはないのである。

(これはただかげぐちだ。かれらはしんゆうのかげぐちをさえへいきではく。そのばのちょうしに)

これはただ陰口だ。彼等は親友の陰口をさえ平気で吐く。その場の調子に

(まかせるのである。「おおばのやつ、せかいじゅうのおんなをみんなほしがって)

まかせるのである。「大庭のやつ、世界じゅうの女をみんな欲しがって

(いるんだ。」すこしたって、ようぞうのびょうしつからおおぜいのわらいごえがどっとおこり、)

いるんだ。」すこし経って、葉蔵の病室から大勢の笑い声がどっとおこり、

(そのびょうとうのぜんぶにひびきわたった。いごうしつのかんじゃは、ほんをぱちんととじて、)

その病棟の全部にひびき渡った。い号室の患者は、本をぱちんと閉じて、

(ようぞうのヴぇらんだのほうをいぶかしげにながめた。ヴぇらんだにはあさひをうけて)

葉蔵のヴェランダの方をいぶかしげに眺めた。ヴェランダには朝日を受けて

(ひかっているしろいとういすがひとつのこされてあるきりで、だれもいなかった。)

光っている白い籐椅子がひとつのこされてあるきりで、誰もいなかった。

(そのとういすをみつめながら、うつらうつらまどろんだ。ろごうしつのかんじゃは、)

その籐椅子を見つめながら、うつらうつらまどろんだ。ろ号室の患者は、

(わらいごえをきいて、ふっともうふからかおをだし、まくらもとにたっているははおやとおだやかな)

笑い声を聞いて、ふっと毛布から顔を出し、枕元に立っている母親とおだやかな

(びしょうをかわした。へごうしつのだいがくせいは、わらいごえでめをさました。だいがくせいには、)

微笑を交した。へ号室の大学生は、笑い声で眼を覚ました。大学生には、

(つきそいのひともなかったし、げしゅくやずまいのような、のんきなくらしを)

附添いのひともなかったし、下宿屋ずまいのような、のんきな暮しを

(しているのであった。わらいごえはきのうのしんかんじゃのむろからなのだときづいて、)

しているのであった。笑い声はきのうの新患者の室からなのだと気づいて、

(そのあおぐろいかおをあからめた。わらいごえをふきんしんともおもわなかった。)

その蒼黒い顔をあからめた。笑い声を不謹慎とも思わなかった。

(かいふくきのかんじゃにとくゆうのかんだいなこころから、むしろようぞうのげんきのよいらしいのに)

恢復期の患者に特有の寛大な心から、むしろ葉蔵の元気のよいらしいのに

(あんしんしたのである。ぼくは、さんりゅうさっかでないだろうか。どうやら、うっとり)

安心したのである。僕は、三流作家でないだろうか。どうやら、うっとり

(しすぎたようである。ぱのらましきなどとがらでもないことをくわだて、)

しすぎたようである。パノラマ式などと柄でもないことを企て、

(とうとうこんなにやにさがった。いや、まちたまえ。こんなしっぱいもあろうかと、)

とうとうこんなにやにさがった。いや、待ち給え。こんな失敗もあろうかと、

(まえもってよういしていたことばがある。うつくしいかんじょうをもって、ひとは、わるいぶんがくをつくる)

まえもって用意していた言葉がある。美しい感情を以て、人は、悪い文学を作る

(つまりぼくの、こんなにうっとりしすぎたのも、ぼくのこころがそれだけあくまてきで)

つまり僕の、こんなにうっとりしすぎたのも、僕の心がそれだけ悪魔的で

(ないからである。ああ、このことばをかんがえだしたおとこにさいわいあれ。)

ないからである。ああ、この言葉を考え出した男にさいわいあれ。

(なんというちょうほうなことばであろう。けれどもさっかは、いっしょうがいのうちにたった)

なんという重宝な言葉であろう。けれども作家は、一生涯のうちにたった

(いちどしかこのことばをつかわれぬ。どうもそうらしい。いちどは、あいきょうである。)

いちどしかこの言葉を使われぬ。どうもそうらしい。いちどは、愛嬌である。

(もしきみが、にどさんどとくりかえして、このことばをたてにとるなら、)

もし君が、二度三度とくりかえして、この言葉を楯にとるなら、

(どうやらきみはみじめなことになるらしい。)

どうやら君はみじめなことになるらしい。

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