晩年 ㉜

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プレイ回数605難易度(4.5) 5211打 長文
太宰 治

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問題文

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(「しっぱいしたよ。」べっどのそばのそふぁにひだとならんですわっていたこすがは、)

「失敗したよ。」ベッドの傍のソファに飛騨と並んで坐っていた小菅は、

(そういいむすんで、ひだのかおと、ようぞうのかおと、それから、どあによりかかって)

そう言いむすんで、飛騨の顔と、葉蔵の顔と、それから、ドアに倚りかかって

(たっているまののかおとを、じゅんじゅんにみまわし、みんなわらっているのを)

立っている真野の顔とを、順々に見まわし、みんな笑っているのを

(みとどけてから、まんぞくげにひだのまるいみぎかたへぐったりあたまをもたせかけた。)

見とどけてから、満足げに飛騨のまるい右肩へぐったり頭をもたせかけた。

(かれらは、よくわらう。なんでもないことにでもおおごえたててわらいこける。)

彼等は、よく笑う。なんでもないことにでも大声たてて笑いこける。

(えがおをつくることは、せいねんたちにとって、いきをはきだすのとおなじくらい)

笑顔をつくることは、青年たちにとって、息を吐き出すのと同じくらい

(よういである。いつのころからそんなしゅうせいがつきはじめたのであろう。わらわなければ)

容易である。いつの頃からそんな習性がつき始めたのであろう。笑わなければ

(そんをする。わらうべきどんなささいなたいしょうをもみおとすな。ああ、これこそどんらんな)

損をする。笑うべきどんな些細な対象をも見落とすな。ああ、これこそ貪婪な

(びしょくしゅぎのはかないへんりんではなかろうか。けれどもかなしいことには、)

美食主義のはかない片鱗ではなかろうか。けれども悲しいことには、

(かれらははらのそこからわらえない。わらいくずれながらも、おのれのしせいをきにしている)

彼等は腹の底から笑えない。笑いくずれながらも、おのれの姿勢を気にしている

(かれらはまた、よくひとをわらわす。おのれをきずつけてまで、)

彼等はまた、よくひとを笑わす。おのれを傷つけてまで、

(ひとをわらわせたがるのだ。それはいずれれいのきょむのこころからはっしているので)

ひとを笑わせたがるのだ。それはいずれ例の虚無の心から発しているので

(あろうが、しかし、そのもういちまいそこになにかおもいつめたきがまえを)

あろうが、しかし、そのもういちまい底になにか思いつめた気がまえを

(すいさつできないだろうか。ぎせいのたましい。いくぶんなげやりであって、これぞという)

推察できないだろうか。犠牲の魂。いくぶんなげやりであって、これぞという

(もくてきをももたぬぎせいのたましい。かれらがたまたま、いままでのどうとくりつにはかってさえ)

目的をも持たぬ犠牲の魂。彼等がたまたま、いままでの道徳律にはかってさえ

(びだんといいえるりっぱなこうどうをなすことのあるのは、すべてこのかくされたたましいの)

美談と言い得る立派な行動をなすことのあるのは、すべてこのかくされた魂の

(ゆえである。これらは、ぼくのどくだんである。しかもしょさいのなかのもさくでない。)

ゆえである。これらは、僕の独断である。しかも書斎のなかの模索でない。

(みんなぼくじしんのにくたいからきいたしねんではある。)

みんな僕自身の肉体から聞いた思念ではある。

(ようぞうは、まだわらっている。べっどにこしかけてりょうあしをぶらぶらうごかし、)

葉蔵は、まだ笑っている。ベッドに腰かけて両脚をぶらぶら動かし、

(ほおのがあぜをきにしいしいわらっていた。こすがのはなしがそんなにおかしかったので)

頬のガアゼを気にしいしい笑っていた。小菅の話がそんなにおかしかったので

など

(あろうか。かれらがどのようなものがたりにうちきょうずるかのいちれいとして、ここへすうぎょうを)

あろうか。彼等がどのような物語にうち興ずるかの一例として、ここへ数行を

(そうにゅうしよう。こすががこのきゅうかちゅう、ふるさとのまちからさんりほどはなれたやまのなかの)

挿入しよう。小菅がこの休暇中、ふるさとのまちから三里ほど離れた山のなかの

(あるなだかいおんせんばへすきいをしにいき、そこのやどやにいっぱくした。しんや、かわやへいく)

或る名高い温泉場へスキイをしに行き、そこの宿屋に一泊した。深夜、厠へ行く

(とちゅう、ろうかでどうしゅくのわかいおんなとすれちがった。それだけのことである。)

途中、廊下で同宿のわかい女とすれちがった。それだけのことである。

(しかし、これがだいじけんなのだ。こすがにしてみれば、ちょっとすれちがっただけでも、)

しかし、これが大事件なのだ。小菅にしてみれば、鳥渡すれちがっただけでも、

(そのおんなのひとにおのれのただならぬこういんしょうをあたえてやらなければ)

その女のひとにおのれのただならぬ好印象を与えてやらなければ

(きがすまぬのである。べつにどうしようというあてもないのだが、)

気がすまぬのである。別にどうしようというあてもないのだが、

(そのすれちがったしゅんかんに、かれはいのちをうちこんでぽおずをつくる。じんせいへほんきに)

そのすれちがった瞬間に、彼はいのちを打ちこんでポオズを作る。人生へ本気に

(なにかきたいをもつ。そのおんなのひとのあらゆるけいいをしゅんかんのうちにかんがえめぐらし、)

なにか期待をもつ。その女のひとのあらゆる経緯を瞬間のうちに考えめぐらし、

(むねのはりさけるおもいをする。かれらは、そのようないきづまるしゅんかんを、すくなくとも)

胸のはりさける思いをする。彼等は、そのような息づまる瞬間を、少くとも

(いちにちにいちどはけいけんする。だからかれらはゆだんをしない。ひとりでいるときにでも)

一日にいちどは経験する。だから彼等は油断をしない。ひとりでいるときにでも

(おのれのしせいをかざっている。こすがが、しんや、かわやへいったそのときでさえ、)

おのれの姿勢を飾っている。小菅が、深夜、厠へ行ったそのときでさえ、

(おのれのしんちょうのあおいがいとうをきちんときてろうかへでたという。こすががそのわかい)

おのれの新調の青い外套をきちんと着て廊下へ出たという。小菅がそのわかい

(おんなとすれちがったあとで、しみじみ、よかったとおもった。がいとうをきてでて)

女とすれちがったあとで、しみじみ、よかったと思った。外套を着て出て

(よかったとおもった。ほっとためいきついて、ろうかのつきあたりのおおきいかがみを)

よかったと思った。ほっと溜息ついて、廊下のつきあたりの大きい鏡を

(のぞいてみたら、しっぱいであった。がいとうのしたから、うすぎたないももひきをつけたりょうあしが)

覗いてみたら、失敗であった。外套のしたから、うす汚い股引をつけた両脚が

(にょっきとでている。「いやはや。」さすがにかるくわらいながらいうのであった。)

にょっきと出ている。「いやはや。」さすがに軽く笑いながら言うのであった。

(「とりひきはねじくれあがり、あしのけがくろぐろとみえているのさ。)

「取引はねじくれあがり、脚の毛がくろぐろと見えているのさ。

(かおはねぶくれにふくれて。」ようぞうは、ないしんそんなにわらってもいないのである。)

顔は寝ぶくれにふくれて。」葉蔵は、内心そんなに笑ってもいないのである。

(こすがのつくりばなしのようにもおもわれた。それでもおおごえでわらってやった。)

小菅のつくりばなしのようにも思われた。それでも大声で笑ってやった。

(ともがきのうにかわって、ようぞうへうちとけようとつとめてくれる、そのきごころに)

友がきのうに変って、葉蔵へ打ち解けようと努めて呉れる、その気ごころに

(たいするへんれいのつもりもあって、ことさらにわらいこけてやったのである。)

対する返礼のつもりもあって、ことさらに笑いこけてやったのである。

(ようぞうがわらったので、ひだもまのも、ここぞとわらった。ひだはあんしんしてしまった。)

葉蔵が笑ったので、飛騨も真野も、ここぞと笑った。飛騨は安心してしまった。

(もうなんでもいえるとおもった。まだまだ、とおさえたりした。)

もうなんでも言えると思った。まだまだ、と抑えたりした。

(ぐずぐずしていたのである。ちょうしにのったこすがが、かえってやすやすといってのけた)

ぐずぐずしていたのである。調子に乗った小菅が、かえって易々と言ってのけた

(「ぼくたちは、おんなじゃしっぱいするよ。ようちゃんだってそうじゃないか。」)

「僕たちは、女じゃ失敗するよ。葉ちゃんだってそうじゃないか。」

(ようぞうは、まだわらいながら、くびをかたむけた。「そうかなあ。」)

葉蔵は、まだ笑いながら、首を傾けた。「そうかなあ。」

(「そうさ。しぬてはないよ。」「しっぱいかなあ。」ひだは、うれしくてうれしくて)

「そうさ。死ぬてはないよ。」「失敗かなあ。」飛騨は、うれしくてうれしくて

(むねがときめきした。いちばんこんなんないしがきをびしょうのうちにくずしたのだ。)

胸がときめきした。いちばん困難な石垣を微笑のうちに崩したのだ。

(こんなふしぎなせいこうも、こすがのふとどきなじんとくのおかげであろうと、)

こんな不思議な成功も、小菅のふとどきな人徳のおかげであろうと、

(このねんしょうのともをぎゅっとだいてやりたいしょうどうをかんじた。ひだは、うすいまゆを)

この年少の友をぎゅっと抱いてやりたい衝動を感じた。飛騨は、うすい眉を

(はればれとひらき、どもりつついいだした。「しっぱいかどうかは、ひとくちに)

はればれとひらき、吃りつつ言いだした。「失敗かどうかは、ひとくちに

(いえないとおもうよ。だいいちげんいんがわからん。」まずいなあ、とおもった。)

言えないと思うよ。だいいち原因が判らん。」まずいなあ、と思った。

(すぐこすががたすけてくれた。「それはわかってる。ひだとだいぎろんをしたんだ。)

すぐ小菅が助けて呉れた。「それは判ってる。飛騨と大議論をしたんだ。

(ぼくはしそうのいきづまりからだとおもうよ。ひだはこいつ、もったいぶってね、)

僕は思想の行きづまりからだと思うよ。飛騨はこいつ、もったいぶってね、

(ほかにある、なんていうんだ。」かんぱつをいれずひだはおうじた。「それもある)

他にある、なんて言うんだ。」間髪をいれず飛騨は応じた。「それもある

(だろうが、それだけじゃないよ。つまりほれていたのさ。いやなおんなとしぬはずが)

だろうが、それだけじゃないよ。つまり惚れていたのさ。いやな女と死ぬ筈が

(ない。」ようぞうになにもおくそくされたくないこころから、ことばをえらばずにいそいで)

ない。」葉蔵になにも憶測されたくない心から、言葉をえらばずにいそいで

(いったのであるが、それはかえっておのれのみみにさえむじゃきにひびいた。)

言ったのであるが、それはかえっておのれの耳にさえ無邪気にひびいた。

(おおできだ、とひそかにほっとした。ようぞうはながいまつげをふせた。きょごう。らんだ。あゆ。)

大出来だ、とひそかにほっとした。葉蔵は長い睫を伏せた。虚傲。懶惰。阿諛。

(こうかつ。あくとくのす。ひろう。ふんぬ。さつい。がりがり。ぜいじゃく。ぎまん。びょうどく。ごたごたと)

狡猾。悪徳の巣。疲労。忿怒。殺意。我利我利。脆弱。欺瞞。病毒。ごたごたと

(かれのむねをゆすぶった。いってしまおうかとおもった。わざとしょげかえってつぶやいた)

彼の胸をゆすぶった。言ってしまおうかと思った。わざとしょげかえって呟いた

(「ほんとうは、ぼくにもわからないのだよ。なにもかもげんいんのようなきがして。」)

「ほんとうは、僕にも判らないのだよ。なにもかも原因のような気がして。」

(「わかる。わかる。」こすがはようぞうのことばのおわらぬさきからうなずいた。)

「判る。判る。」小菅は葉蔵の言葉の終わらぬさきから首肯いた。

(「そんなこともあるな。きみ、かんごふがいないよ。きをきかせたのかしら。」)

「そんなこともあるな。君、看護婦がいないよ。気をきかせたのかしら。」

(ぼくはまえにもいいかけておいたが、かれらのぎろんは、おたがいのしそうをこうかんする)

僕はまえにも言いかけて置いたが、彼等の議論は、お互いの思想を交換する

(よりは、そのばのちょうしをいごこちよくととのうるためになされる。なにひとつ)

よりは、その場の調子を居心地よくととのうるためになされる。なにひとつ

(しんじつをいわぬ。けれどもしばらくきいているうちには、おもわぬひろいものを)

真実を言わぬ。けれどもしばらく聞いているうちには、思わぬ拾いものを

(することがある。かれらのきどったことばのなかに、ときどきびっくりするほど)

することがある。彼等の気取った言葉のなかに、ときどきびっくりするほど

(すなおなひびきのかんぜられることがある。ふよういにもらすことばこそ、)

素直なひびきの感ぜられることがある。不用意にもらす言葉こそ、

(ほんとうらしいものをふくんでいるのだ。ようぞうはいま、なにもかも、と)

ほんとうらしいものをふくんでいるのだ。葉蔵はいま、なにもかも、と

(つぶやいたのであるが、これこそかれがうっかりはいてしまったほんねではなかろうか。)

呟いたのであるが、これこそ彼がうっかり吐いてしまった本音ではなかろうか。

(かれらのこころのなかには、こんとんと、それから、わけのわからぬはんぱつとだけがある)

彼等のこころのなかには、渾沌と、それから、わけのわからぬ反撥とだけがある

(あるいは、じそんしんだけ、といってよいかもしれぬ。しかもほそくとぎすまされた)

或いは、自尊心だけ、と言ってよいかも知れぬ。しかも細くとぎすまされた

(じそんしんである。どのようなびふうにでもふるえおののく。ぶじょくをうけたと)

自尊心である。どのような微風にでもふるえおののく。侮辱を受けたと

(おもいこむやいなや、しなんかなともだえる。ようぞうがおのれのじさつのげんいんを)

思いこむやいなや、死なん哉ともだえる。葉蔵がおのれの自殺の原因を

(たずねられてとうわくするのもむりがないのである。なにもかもである。)

たずねられて当惑するのも無理がないのである。なにもかもである。

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