晩年 ㉝

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太宰 治

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問題文

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(そのひのひるすぎ、ようぞうのあにがせいしょうえんについた。あには、ようぞうににてないで、)

その日のひるすぎ、葉蔵の兄が青松園についた。兄は、葉蔵に似てないで、

(りっぱにふとっていた。はかまをはいていた。いんちょうにあんないされ、ようぞうのびょうしつのまえまで)

立派にふとっていた。袴をはいていた。院長に案内され、葉蔵の病室のまえまで

(きたとき、へやのなかのようきなわらいごえをきいた。あにはしらぬふりをしていた。)

来たとき、部屋のなかの陽気な笑い声を聞いた。兄は知らぬふりをしていた。

(「ここですか?」「ええ。もうおげんきです。」いんちょうは、そうこたえながら)

「ここですか?」「ええ。もう御元気です。」院長は、そう答えながら

(どあをあけた。こすががおどろいて、べっどからとびおりた。ようぞうのかわりに)

ドアを開けた。小菅がおどろいて、ベッドから飛びおりた。葉蔵のかわりに

(ねていたのである。ようぞうとひだとは、そふぁにならんでこしかけて、とらんぷを)

寝ていたのである。葉蔵と飛騨とは、ソファに並んで腰かけて、トランプを

(していたのであったが、ふたりともいそいでたちあがった。まのは、べっどの)

していたのであったが、ふたりともいそいで立ちあがった。真野は、ベッドの

(まくらもとのいすにすわってあみものをしていたが、これも、まがわるそうにもじもじと)

枕元の椅子に坐って編物をしていたが、これも、間がわるそうにもじもじと

(あみもののどうぐをしまいかけた。「おともだちがきてくださいましたので、にぎやかです」)

網物の道具をしまいかけた。「お友だちが来て下さいましたので、賑やかです」

(いんちょうはふりかえってあにへそうささやきつつ、ようぞうのそばへあゆみよった。)

院長はふりかえって兄へそう囁きつつ、葉蔵の傍へあゆみ寄った。

(「もう、いいですね。」「ええ。」そうこたえて、ようぞうはきゅうにみじめなおもいをした)

「もう、いいですね。」「ええ。」そう答えて、葉蔵は急にみじめな思いをした

(いんちょうのめは、めがねのおくでわらっていた。「どうです。さなとりあむせいかつでも)

院長の眼は、眼鏡の奥で笑っていた。「どうです。サナトリアム生活でも

(しませんか。」ようぞうは、はじめてざいにんのひけめをおぼえたのである。)

しませんか。」葉蔵は、はじめて罪人のひけ目を覚えたのである。

(ただびしょうをもってこたえた。あにはそのあいだに、きちょうめんらしくまのとひだへ、)

ただ微笑をもって答えた。兄はそのあいだに、几帳面らしく真野と飛騨へ、

(おせわになりました、といっておじぎをして、それからこすがへまじめなかおで)

お世話になりました、と言ってお辞儀をして、それから小菅へ真面目な顔で

(たずねた。「ゆうべは、ここへとまったって?」「そう。」こすがはあたまをかきかき)

尋ねた。「ゆうべは、ここへ泊ったって?」「そう。」小菅は頭を掻き掻き

(いった。「となりのびょうしつがあいていましたので、そこへひだくんとふたりとめて)

言った。「となりの病室があいていましたので、そこへ飛騨君とふたり泊めて

(もらいました。」「じゃこんやからわたしのはたごへきたまえ。えのしまにはたごを)

もらいました。」「じゃ今夜から私の旅籠へ来給え。江の島に旅籠を

(とっています。ひださん、あなたも。」「はあ。」ひだはかたくなっていた。)

とっています。飛騨さん、あなたも。」「はあ。」飛騨はかたくなっていた。

(てにしているさんまいのとらんぷをもてあましながらへんじした。)

手にしている三枚のトランプを持てあましながら返事した。

など

(あには、なんでもなさそうにしてようぞうのほうをむいた。「ようぞう、もういいか。」)

兄は、なんでもなさそうにして葉蔵のほうを向いた。「葉蔵、もういいか。」

(「うん。」ことさらに、にがりきってみせながらうなずいた。)

「うん。」ことさらに、にがり切って見せながらうなずいた。

(あには、にわかにじょうぜつになった。「ひださん。いんちょうせんせいのおともをして、これから)

兄は、にわかに饒舌になった。「飛騨さん。院長先生のお供をして、これから

(みんなでひるめしたべにでましょうよ。わたしは、まだえのしまをみたことが)

みんなでひるめしたべに出ましょうよ。私は、まだ江の島を見たことが

(ないのですよ。せんせいにあんないしていただこうとおもって。すぐ、でかけましょう。)

ないのですよ。先生に案内していただこうと思って。すぐ、出掛けましょう。

(じどうしゃをまたせてあるのです。よいおてんきだ。」)

自動車を待たせてあるのです。よいお天気だ。」

(ぼくはこうかいしている。ふたりのおとなをとうじょうさせたばかりに、)

僕は後悔している。二人のおとなを登場させたばかりに、

(すっかりめちゃめちゃである。ようぞうとこすがとひだと、それからぼくとよにんかかって)

すっかり滅茶滅茶である。葉蔵と小菅と飛騨と、それから僕と四人かかって

(せっかくよいぐあいにもりあげた、いっぷうかわったふんいきも、このふたりの)

せっかくよい工合いにもりあげた、いっぷう変わった雰囲気も、この二人の

(おとなのために、みるかげもなくなえしなびた。ぼくは、このしょうせつをふんいきの)

おとなのために、見るかげもなく萎えしなびた。僕は、この小説を雰囲気の

(ろまんすにしたかったのである。はじめのすうぺーじでぐるぐるうずまいたふんいきを)

ロマンスにしたかったのである。はじめの数頁でぐるぐる渦巻いた雰囲気を

(つくっておいて、それをすこしずつのどかにときほぐしていきたいと)

つくって置いて、それを少しずつのどかに解きほぐして行きたいと

(いのっていたのであった。ふてぎわをかこちつつ、どうやらここまではふでをすすめて)

祈っていたのであった。不手際をかこちつつ、どうやらここまでは筆をすすめて

(きた。しかし、どほうがかいである。ゆるしてくれ!うそだ。とぼけたのだ。)

来た。しかし、土崩瓦解である。許して呉れ!嘘だ。とぼけたのだ。

(みんなぼくのわざとしたことなのだ。かいているうちに、その、ふんいきのろまんす)

みんな僕のわざとしたことなのだ。書いているうちに、その、雰囲気のロマンス

(なぞということがきはずかしくなってきた。ぼくがわざとぶちこわしたまでのこと)

なぞということが気はずかしくなって来た。僕がわざとぶちこわしたまでのこと

(なのである。もしほんとうにどほうがかいにせいこうしているのなら、それはかえって)

なのである。もしほんとうに土崩瓦解に成功しているのなら、それはかえって

(ぼくのおもうつぼだ。あくしゅみ。いまになってぼくのこころをくるしめているのは)

僕の思う壺だ。悪趣味。いまになって僕の心をくるしめているのは

(このひとことである。ひとをわけもなくいあつしようとするしつっこいこのみを)

この一言である。ひとをわけもなく威圧しようとするしつっこい好みを

(そうよぶのなら、あるいはぼくのこんなたいどもあくしゅみであろう。)

そう呼ぶのなら、或いは僕のこんな態度も悪趣味であろう。

(ぼくはまけたくないのだ。はらのなかをみすかされたくなかったのだ。)

僕は負けたくないのだ。腹のなかを見すかされたくなかったのだ。

(しかし、それは、はかないどりょくであろう。あ!さっかはみんなこういうもので)

しかし、それは、はかない努力であろう。あ!作家はみんなこういうもので

(あろうか。こくはくするのにもことばをかざる。ぼくはひとでなしでなかろうか。)

あろうか。告白するのにも言葉を飾る。僕はひとでなしでなかろうか。

(ほんとうのにんげんらしいせいかつが、ぼくにできるかしら。こうかきつつもぼくはぼくの)

ほんとうの人間らしい生活が、僕にできるかしら。こう書きつつも僕は僕の

(ぶんしょうをきにしている。なにもかもさらけだす。ほんとうは、ぼくはこのしょうせつの)

文章を気にしている。なにもかもさらけ出す。ほんとうは、僕はこの小説の

(ひとこまひとこまのびょうしゃのあいだに、ぼくというおとこのかおをださせて、いわでものことを)

一齣一齣の描写の間に、僕という男の顔を出させて、言わでものことを

(ひとくさりのべさせたのにも、ずるいかんがえがあってのことなのだ。ぼくは、それを)

ひとくさり述べさせたのにも、ずるい考えがあってのことなのだ。僕は、それを

(どくしゃにきづかせずに、あのぼくでもって、こっそりとくいなにゅあんすをさくひんに)

読者に気づかせずに、あの僕でもって、こっそり特異なニュアンスを作品に

(もりたかったのである。それはにほんにまだないはいからなさくふうであると)

もりたかったのである。それは日本にまだないハイカラな作風であると

(うぬぼれていた。しかし、はいぼくした。いや、ぼくはこのはいぼくのこくはくをも、このしょうせつの)

自惚れていた。しかし、敗北した。いや、僕はこの敗北の告白をも、この小説の

(ぷらんのなかにかぞえていたはずである。できればぼくは、もすこしあとでそれを)

プランのなかにかぞえていた筈である。できれば僕は、もすこしあとでそれを

(いいたかった。いや、このことばをさえ、ぼくははじめからよういしていたような)

言いたかった。いや、この言葉をさえ、僕ははじめから用意していたような

(きがする。ああ、もうぼくをしんずるな。ぼくのいうことをひとこともしんずるな。)

気がする。ああ、もう僕を信ずるな。僕の言うことをひとことも信ずるな。

(ぼくはなぜしょうせつをかくのだろう。しんしんさっかとしてのえいこうがほしいのか。)

僕はなぜ小説を書くのだろう。新進作家としての栄光がほしいのか。

(もしくはかねがほしいのか。しばいけをぬきにしてこたえろ。どっちもほしいと。)

もしくは金がほしいのか。芝居気を抜きにして答えろ。どっちもほしいと。

(ほしくてならぬと。ああ、ぼくはまだしらじらしいうそをはいている。)

ほしくてならぬと。ああ、僕はまだしらじらしい嘘を吐いている。

(このようなうそには、ひとはうっかりひっかかる。うそのうちでもひれつなうそだ。)

このような嘘には、ひとはうっかりひっかかる。嘘のうちでも卑劣な嘘だ。

(ぼくはなぜしょうせつをかくのだろう。こまったことをいいだしたものだ。しかたがない。)

僕はなぜ小説を書くのだろう。困ったことを言いだしたものだ。仕方がない。

(おもわせぶりみたいでいやではあるが、かりにひとことこたえておこう。「ふくしゅう。」)

思わせぶりみたいでいやではあるが、仮に一言こたえて置こう。「復讐。」

(つぎのびょうしゃへうつろう。ぼくはしじょうのげいじゅつかである。げいじゅつひんではない。)

つぎの描写へうつろう。僕は市場の芸術家である。芸術品ではない。

(ぼくのあのいやらしいこくはくも、ぼくのこのしょうせつになにかのにゅあんすをもたらして)

僕のあのいやらしい告白も、僕のこの小説になにかのニュアンスをもたらして

(くれたら、それはもっけのさいわいだ。)

呉れたら、それはもっけのさいわいだ。

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