晩年 ㉟

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太宰 治

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問題文

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(こよいはとまるのがこすがひとりであるし、わざわざとなりのびょうしつをかりるにもおよぶまいと)

今宵は泊るのが小菅ひとりであるし、わざわざ隣の病室を借りるにも及ぶまいと

(みんなでそうだんして、こすがもおなじびょうしつにねることにきめた。こすがはようぞうと)

みんなで相談して、小菅もおなじ病室に寝ることにきめた。小菅は葉蔵と

(ならんでそふぁにねた。みどりいろのびろーどがはられたそのそふぁには、しかけが)

ならんでソファに寝た。緑色の天鵞絨が張られたそのソファには、仕掛けが

(されてあって、あやしげながらべっどにもなるのであった。まのはまいばんそれに)

されてあって、あやしげながらベッドにもなるのであった。真野は毎晩それに

(ねていた。きょうはそのねどこをこすがにうばわれたのでびょういんのじむしつからうすべりをかり)

寝ていた。きょうはその寝床を小菅に奪われたので病院の事務室から薄縁を借り

(それをへやのせいほくのすみにしいた。そこはちょうどようぞうのあしのましたあたりであった)

それを部屋の西北の隅に敷いた。そこはちょうど葉蔵の足の真下あたりであった

(それからまのは、どこからみつけてきたのか、にまいおりのひくいびょうぶでもって)

それから真野は、どこから見つけて来たのか、二枚折のひくい屏風でもって

(そのつつましいしんじょをかこったのである。「ようじんぶかい。」こすがはねながら、)

そのつつましい寝所をかこったのである。「用心ぶかい。」小菅は寝ながら、

(そのふるぼけたびょうぶをみて、ひとりでくすくすわらった。「あきのななくさがえがかれて)

その古ぼけた屏風を見て、ひとりでくすくす笑った。「秋の七草が画かれて

(あるよ。」まのは、ようぞうのあたまのうえのでんとうをふろしきでつつんでくらくしてから、)

あるよ。」真野は、葉蔵の頭のうえの電燈を風呂敷で包んで暗くしてから、

(おやすみなさいをふたりにいい、びょうぶのかげにかくれた。ようぞうはねぐるしいおもいを)

おやすみなさいを二人に言い、屏風のかげにかくれた。葉蔵は寝ぐるしい思いを

(していた。「さむいな。」べっどのうえでてんてんした。「うん。」こすがもくちを)

していた。「寒いな。」ベッドのうえで輾転した。「うん。」小菅も口を

(とがらせてあいづちうった。「よいがさめちゃった。」まのはかるくせきをした。)

とがらせて合槌うった。「酔いがさめちゃった。」真野は軽くせきをした。

(「なにかおかけいたしましょうか。」ようぞうはめをつむってこたえた。)

「なにかお掛けいたしましょうか。」葉蔵は眼をつむって答えた。

(「ぼくか?いいよ。ねぐるしいんだ。なみのおとがみみについて。」こすがはようぞうを)

「僕か?いいよ。寝ぐるしいんだ。波の音が耳について。」小菅は葉蔵を

(ふびんだとおもった。それはまったく、おとなのかんじょうである。いうまでもないこと)

ふびんだと思った。それは全く、おとなの感情である。言うまでもないこと

(だろうけれど、ふびんなのはここにいるこのようぞうではなしに、ようぞうとおなじみの)

だろうけれど、ふびんなのはここにいるこの葉蔵ではなしに、葉蔵とおなじ身の

(うえにあったときのじぶん、もしくはそのみのうえのいっぱんてきなちゅうしょうである。)

うえにあったときの自分、もしくはその身のうえの一般的な抽象である。

(おとなは、そんなかんじょうにうまくくんれんされているので、たやすくひとにどうじょうする。)

おとなは、そんな感情にうまく訓練されているので、たやすく人に同情する。

(そして、おのれのなみだもろいことにじふをもつ。せいねんたちもまた、ときどき)

そして、おのれの涙もろいことに自負を持つ。青年たちもまた、ときどき

など

(そのようなあんいなかんじょうにひたることがある。おとなはそんなくんれんを、)

そのような安易な感情にひたることがある。おとなはそんな訓練を、

(まずこういてきにいって、おのれのせいかつとのだきょうからえたものとすれば、せいねんたちは)

まず好意的に言って、おのれの生活との妥協から得たものとすれば、青年たちは

(いったいどこからおぼえこんだものか。このようなくだらないしょうせつから?)

いったいどこから覚えこんだものか。このようなくだらない小説から?

(「まのさん、なにかはなしをきかせてよ。おもしろいはなしがない?」ようぞうのきもちを)

「真野さん、なにか話を聞かせてよ。面白い話がない?」葉蔵の気持ちを

(てんかんさせてやろうというおせっかいから、こすがはまのへあまったれた。)

転換させてやろうというおせっかいから、小菅は真野へ甘ったれた。

(「さあ。」まのはびょうぶのかげから、わらいごえといっしょにただそうこたえてよこした。)

「さあ。」真野は屏風のかげから、笑い声と一緒にただそう答えてよこした。

(「すごいはなしでもいいや。」かれらはいつも、せんりつしたくてうずうずしている。)

「すごい話でもいいや。」彼等はいつも、戦慄したくてうずうずしている。

(まのは、なにかかんがえているらしく、しばらくへんじをしなかった。「ひみつですよ」)

真野は、なにか考えているらしく、しばらく返事をしなかった。「秘密ですよ」

(そうまえおきをして、こえしのばせてわらいだした。「かいだんでございますよ、)

そうまえおきをして、声しのばせて笑いだした。「怪談でございますよ、

(こすがさん、だいじょうぶ?」「ぜひ、ぜひ。」ほんきだった。まのがかんごふに)

小菅さん、だいじょうぶ?」「ぜひ、ぜひ。」本気だった。真野が看護婦に

(なりたての、じゅうきゅうのなつのできごと。やはりおんなのことでじさつをはかったせいねんが、)

なりたての、十九の夏のできごと。やはり女のことで自殺を謀った青年が、

(はっけんされて、あるびょういんにしゅうようされ、それへまのがつきそった。かんじゃはやくひんを)

発見されて、ある病院に収容され、それへ真野が附添った。患者は薬品を

(もちいているのであった。からだいちめんに、むらさきいろのはんてんがちらばっていた。)

もちいているのであった。からだいちめんに、紫色の斑点がちらばっていた。

(たすかるみこみがなかったのである。ゆうがたいちど、いしきをかいふくした。そのときかんじゃは)

助かる見込がなかったのである。夕方いちど、意識を快復した。そのとき患者は

(まどのそとのいしがきをつたってあそんでいるたくさんのちいさいいそがにをみて、)

窓のそとの石垣を伝ってあそんでいるたくさんの小さい磯蟹を見て、

(きれいだなあ、といった。そのへんのかにはいきながらにこうらがあかいのである。)

きれいだなあ、と言った。その辺の蟹は生きながらに甲羅が赤いのである。

(なおったらとっていえへもっていくのだ、といいのこしてまたいしきをうしなった。)

なおったら捕って家へ持って行くのだ、と言い残してまた意識をうしなった。

(そのよる、かんじゃはせんめんきへにはい、はきものをしてしんだ。くにもとからみうちのものが)

その夜、患者は洗面器へ二杯、吐きものをして死んだ。国元から身うちのものが

(くるまで、まのはそのびょうしつにせいねんとふたりでいた。いちじかんほどは、がまんして)

来るまで、真野はその病室に青年とふたりでいた。一時間ほどは、がまんして

(びょうしつのすみのいすにすわっていた。うしろにかすかなものおとをきいた。)

病室のすみの椅子に坐っていた。うしろに幽かな物音を聞いた。

(じっとしていると、またきこえた。こんどは、はっきりきこえた。)

じっとしていると、また聞えた。こんどは、はっきり聞こえた。

(あしおとらしいのである。おもいきってふりむくと、すぐうしろにあかいちいさなかにがいた)

足音らしいのである。思い切って振りむくと、すぐうしろに赤い小さな蟹がいた

(まのはそれをみつめつつ、なきだした。「ふしぎですわねえ。ほんとうにかにが)

真野はそれを見つめつつ、泣きだした。「不思議ですわねえ。ほんとうに蟹が

(いたのでございますの。いきたかに、わたし、そのときは、かんごふをよそうと)

いたのでございますの。生きた蟹、私、そのときは、看護婦をよそうと

(おもいましたわ。わたしがひとりはたらかなくても、うちではけっこうくらしてゆけるの)

思いましたわ。私がひとり働かなくても、うちではけっこう暮らしてゆけるの

(ですし。おとうさんにそういって、うんとわらわれましたけれど。こすがさん、)

ですし。お父さんにそう言って、うんと笑われましたけれど。小菅さん、

(どう?」「すごいよ。」こすがは、わざとふざけたようにしてさけぶのである。)

どう?」「すごいよ。」小菅は、わざとふざけたようにして叫ぶのである。

(「そのびょういんていうのは?」「わたしね、おおばさんのときも、びょういんからのよびだしを)

「その病院ていうのは?」「私ね、大庭さんのときも、病院からの呼び出しを

(ことわろうかとおもいましたのよ。こわかったですからねえ。でも、きてみてあんしん)

断ろうかと思いましたのよ。こわかったですからねえ。でも、来て見て安心

(しましたわ。このとおりのおげんきで、はじめからごふじょうへ、ひとりでいくなんて)

しましたわ。このとおりのお元気で、はじめから御不浄へ、ひとりで行くなんて

(おっしゃるんでございますもの。」「いや、びょういんさ。ここのびょういんじゃないかね」)

おっしゃるんでございますもの。」「いや、病院さ。ここの病院じゃないかね」

(まのは、すこしまをおいてこたえた。「ここです。ここなんでございますのよ。)

真野は、すこし間を置いて答えた。「ここです。ここなんでございますのよ。

(でも、それはひみつにしておいてくださいましね。しんようにかかわりましょうから。」)

でも、それは秘密にして置いて下さいましね。信用にかかわりましょうから。」

(ようぞうはねとぼけたようなこえをだした。「まさか、このへやじゃないだろうな。」)

葉蔵は寝とぼけたような声を出した。「まさか、この部屋じゃないだろうな。」

(「いいえ。」「まさか、」こすがもくちまねした。「ぼくたちがゆうべねたべっどじゃ)

「いいえ。」「まさか、」小菅も口真似した。「僕たちがゆうべ寝たベッドじゃ

(ないだろうな?」まのはわらいだした。「いいえ。だいじょうぶでございますわよ)

ないだろうな?」真野は笑いだした。「いいえ。だいじょうぶでございますわよ

(そんなにおきになさるんだったら、わたし、いわなければよかった。」)

そんなにお気になさるんだったら、私、言わなければよかった。」

(「いごうしつだ。」こすがはそっとあたまをもたげた。「まどからいしがきのみえるのは、)

「い号室だ。」小菅はそっと頭をもたげた。「窓から石垣の見えるのは、

(あのへやよりほかにないよ。いごうしつだ。きみ、しょうじょのいるへやだよ。かわいそうに」)

あの部屋よりほかにないよ。い号室だ。君、少女のいる部屋だよ。可愛そうに」

(「おさわぎなさらず、おやすみなさいましよ。うそなんですよ。つくりばなし)

「お騒ぎなさらず、おやすみなさいましよ。嘘なんですよ。つくり話

(なんですよ。」ようぞうはべつなことをかんがえていた。そののゆうれいをおもっていたのである。)

なんですよ。」葉蔵は別なことを考えていた。園の幽霊を思っていたのである。

(うつくしいすがたをむねにえがいていた。ようぞうは、しばしばこのようにあっさりしている。)

美しい姿を胸に画いていた。葉蔵は、しばしばこのようにあっさりしている。

(かれらにとってかみということばは、まのぬけたじんぶつにあたえられるやゆとこういの)

彼等にとって神という言葉は、間の抜けた人物に与えられる揶揄と好意の

(まじったなんでもないだいめいしにすぎぬのだが、それはかれらがあまりにかみへ)

まじったなんでもない代名詞にすぎぬのだが、それは彼等があまりに神へ

(せっきんしているからかもしれぬ。こんなぐあいにかるがるしくいわゆる「かみのもんだい」に)

接近しているからかも知れぬ。こんな工合いに軽々しく所謂「神の問題」に

(ふれるなら、きっとしょくんは、せんぱくとかあんいとかいうことばでもってきびしいひなんを)

ふれるなら、きっと諸君は、浅薄とか安易とかいう言葉でもってきびしい非難を

(するのであろう。ああ、ゆるしたまえ。どんなまずしいさっかでも、おのれのしょうせつの)

するのであろう。ああ、許し給え。どんなまずしい作家でも、おのれの小説の

(しゅじんこうをひそかにかみへちかづけたがっているものだ。されば、いおう。かれこそかみに)

主人公をひそかに神へ近づけたがっているものだ。されば、言おう。彼こそ神に

(にている。ちょうあいのとり、ふくろうをたそがれのそらにとばしてこっそりわらって)

似ている。寵愛の鳥、梟を黄昏の空に飛ばしてこっそり笑って

(ながめているちえのめがみのみねるヴぁに。)

眺めている智慧の女神のミネルヴァに。

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