晩年 ㊴
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問題文
(「ぼくのともだちはみんなよいだろう?」ようぞうは、わざとまののほうへせをむけて)
「僕の友だちはみんなよいだろう?」葉蔵は、わざと真野のほうへ脊をむけて
(ねていた。そのよるから、まのがもとのように、そふぁのべっどへねることに)
寝ていた。その夜から、真野がもとのように、ソファのベッドへ寝ることに
(なったのである。「ええ。こすがさんとおっしゃるかた、」しずかにねがえりを)
なったのである。「ええ。小菅さんとおっしゃるかた、」しずかに寝がえりを
(うった。「おもしろいかたですねえ。」「ああ。あれで、まだわかいのだよ。)
打った。「面白いかたですねえ。」「ああ。あれで、まだ若いのだよ。
(ぼくとみっつちがうのだから、にじゅうにだ。ぼくのしんだおとうととおなじとしだ。あいつ、)
僕と三つちがうのだから、ニ十二だ。僕の死んだ弟と同じとしだ。あいつ、
(ぼくのわるいとこばかりまねしていやがる。ひだはえらいのだ。もうひとりまえ)
僕のわるいとこばかり真似していやがる。飛騨はえらいのだ。もうひとりまえ
(だよ。しっかりしている。」しばらくまをおいて、こごえでつけくわえた。)
だよ。しっかりしている。」しばらく間を置いて、小声で附け加えた。
(「ぼくがこんなことをやらかすたんびにいっしょうけんめいでぼくをいたわるのだ。ぼくたちに)
「僕がこんなことをやらかすたんびに一生懸命で僕をいたわるのだ。僕たちに
(むりしてちょうしをあわせているのだよ。ほかのことにはつよいがぼくたちにだけ)
むりして調子を合わせているのだよ。ほかのことにはつよいが僕たちにだけ
(おどおどするのだ。だめだ。」まのはこたえなかった。)
おどおどするのだ。だめだ。」真野は答えなかった。
(「あのおんなのことをはなしてあげようか。」やはりまのへせをむけたまま、)
「あの女のことを話してあげようか。」やはり真野へ脊をむけたまま、
(つとめてのろのろとそういった。なにかきまずいおもいをしたときに、それを)
つとめてのろのろとそう言った。なにか気まずい思いをしたときに、それを
(さけるほうをしらず、がむしゃらにそのきまずさをてっていさせてしまわなければ)
避ける法を知らず、がむしゃらにその気まずさを徹底させてしまわなければ
(かなわぬかなしいしゅうせいをようぞうはもっていた。「くだらんはなしなんだよ。」)
かなわぬ悲しい習性を葉蔵は持っていた。「くだらん話なんだよ。」
(まのがなんともいわぬさきからようぞうはかたりはじめた。「もうだれかから)
真野がなんとも言わぬさきから葉蔵は語りはじめた。「もう誰かから
(きいただろう。そのというのだ。ぎんざのばあにつとめていたのさ。ほんとうに、)
聞いただろう。園というのだ。銀座のバアにつとめていたのさ。ほんとうに、
(ぼくはそこのばあへさんど、いやよんどしかいかなかったよ。ひだもこすがもこのおんなの)
僕はそこのバアへ三度、いや四度しか行かなかったよ。飛騨も小菅もこの女の
(ことだけはしらなかったのだからな。ぼくもおしえなかったし。」よそうか。)
ことだけは知らなかったのだからな。僕も教えなかったし。」よそうか。
(「くだらないのだよ。おんなはせいかつのくのためにしんだのだ。しぬるまぎわまで、)
「くだらないのだよ。女は生活の苦のために死んだのだ。死ぬる間際まで、
(ぼくたちは、おたがいにまったくちがったことをかんがえていたらしい。そのはうみへ)
僕たちは、お互いにまったくちがったことを考えていたらしい。園は海へ
(とびこむまえに、あなたはうちのせんせいににているなあ、なんていいやがった。)
飛び込むまえに、あなたはうちの先生に似ているなあ、なんて言いやがった。
(ないえんのおっとがあったのだよ。にさんねんまえまでしょうがっこうのせんせいをしていたのだって。)
内縁の夫があったのだよ。ニ三年まえまで小学校の先生をしていたのだって。
(ぼくは、どうして、あのひととしのうとしたのかなあ。やっぱりすきだったのだ)
僕は、どうして、あのひとと死のうとしたのかなあ。やっぱり好きだったのだ
(ろうね。」もうかれのことばをしんじてはいけない。かれらは、どうしてこんなにじぶんを)
ろうね。」もう彼の言葉を信じてはいけない。彼等は、どうしてこんなに自分を
(かたるのがへたなのだろう。「ぼくは、これでもさよくのしごとをしていたのだよ。)
語るのが下手なのだろう。「僕は、これでも左翼の仕事をしていたのだよ。
(びらをまいたり、でもをやったり、がらにないことをしていたのさ。こっけいだ。)
ビラを撒いたり、デモをやったり、柄にないことをしていたのさ。滑稽だ。
(でも、ずいぶんつらかったよ。われはせんかくしゃなりというえいこうにそそのかされた)
でも、ずいぶんつらかったよ。われは先覚者なりという栄光にそそのかされた
(だけのことだ。がらじゃないのだ。どんなにもがいても、くずれていくだけじゃ)
だけのことだ。柄じゃないのだ。どんなにもがいても、崩れていくだけじゃ
(ないか。ぼくなんかは、いまにこじきになるかもしれないね。いえがはさんでもしたら、)
ないか。僕なんかは、いまに乞食になるかも知れないね。家が破産でもしたら、
(そのひからくうにこまるのだもの。なにひとつしごとができないし、まあ、)
その日から食うに困るのだもの。なにひとつ仕事ができないし、まあ、
(こじきだろうな。」ああ、いえばいうほどおのれがうそつきでふしょうじきなきがして)
乞食だろうな。」ああ、言えば言うほどおのれが嘘つきで不正直な気がして
(くるこのおおきなふこう!「ぼくはしゅくめいをしんじるよ。じたばたしない。ほんとうはぼく、)
来るこの大きな不幸!「僕は宿命を信じるよ。じたばたしない。ほんとうは僕、
(えをかきたいのだ。むしょうにかきたいよ。」あたまをごしごしかいて、わらった。)
画をかきたいのだ。むしょうにかきたいよ。」頭をごしごし掻いて、笑った。
(「よいえがかけたらねえ。」よいえがかけたらねえ、といった。しかもわらって)
「よい画がかけたらねえ。」よい画がかけたらねえ、と言った。しかも笑って
(それをいった。せいねんたちは、むきになっては、なにもいえない。)
それを言った。青年たちは、むきになっては、何も言えない。
(ことにほんねを、わらいでごまかす。)
ことに本音を、笑いでごまかす。