晩年 ㊷
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問題文
(「あそこだよ。あのいわだよ。」ようぞうはなしのきのかれえだのあいだからちらちらみえる)
「あそこだよ。あの岩だよ。」葉蔵は梨の木の枯枝のあいだからちらちら見える
(おおきなひらたいいわおをゆびさした。いわのくぼみにはところどころ、きのうのゆきが)
大きなひらたい岩を指さした。岩のくぼみにはところどころ、きのうの雪が
(のこっていた。「あそこから、はねたのだ。」ようぞうは、おどけものらしくめを)
のこっていた。「あそこから、はねたのだ。」葉蔵は、おどけものらしく眼を
(くるくるとまるくしていうのである。こすがは、だまっていた。ほんとうにへいきで)
くるくると丸くして言うのである。小菅は、だまっていた。ほんとうに平気で
(いっているのかしら、とようぞうのこころをそんたくしていた。ようぞうもへいきで)
言っているのかしら、と葉蔵のこころを忖度していた。葉蔵も平気で
(いっているのではなかったが、しかしそれをふしぜんでなくいえるほどのぎりょうを)
言っているのではなかったが、しかしそれを不自然でなく言えるほどの技倆を
(もっていたのである。「かえろうか。」ひだは、きもののすそをりょうてでぱっと)
もっていたのである。「かえろうか。」飛騨は、着物の裾を両手でぱっと
(はしょった。さんにんは、すなはまをひっかえしてあるきだした。うみはないでいた。)
はしょった。三人は、砂浜をひっかえしてあるきだした。海は凪いでいた。
(まひるのひをうけて、しろくひかっていた。ようぞうは、うみへいしをひとつほうった。)
まひるの日を受けて、白く光っていた。葉蔵は、海へ石をひとつ抛った。
(「ほっとするよ。いまとびこめば、もうなにもかももんだいでない。)
「ほっとするよ。いま飛びこめば、もうなにもかも問題でない。
(しゃっきんも、あかでみいも、こきょうも、こうかいも、けっさくも、はじも、まるきしずむも、)
借金も、アカデミイも、故郷も、後悔も、傑作も、恥も、マルキシズムも、
(それからともだちも、もりもはなも、もうどうだっていいのだ。それにきがついた)
それから友だちも、森も花も、もうどうだっていいのだ。それに気がついた
(ときは、ぼくはあのいわのうえでわらったな。ほっとするよ。」こすがは、こうふんを)
ときは、僕はあの岩のうえで笑ったな。ほっとするよ。」小菅は、昂奮を
(かくすとして、やたらにかいをひろいはじめた。「ゆうわくするなよ。」ひだはむりに)
かくすとして、やたらに貝を拾いはじめた。「誘惑するなよ。」飛騨はむりに
(わらいだした。「わるいしゅみだ。」ようぞうもわらいだした。さんにんのあしおとがさくさくと)
笑いだした。「わるい趣味だ。」葉蔵も笑いだした。三人の足音がさくさくと
(きもちよくみなのみみへひびく。「おこるなよ。いまのはちょっとこちょうがあったな。」)
気持よく皆の耳へひびく。「怒るなよ。いまのはちょっと誇張があったな。」
(ようぞうはひだとかたをふれあわせながらあるいた。「けれども、これだけは、)
葉蔵は飛騨と肩をふれ合せながらあるいた。「けれども、これだけは、
(ほんとうだ。おんながねえ、とびこむまえにどんなことをささやいたか。」)
ほんとうだ。女がねえ、飛び込むまえにどんなことを囁いたか。」
(こすがはこうきしんにもえためをずるそうにほそめ、わざとふたりからはなれてあるいた。)
小菅は好奇心に燃えた眼をずるそうに細め、わざと二人から離れて歩いた。
(「まだみみについている。いなかのことばではなしがしたいな、というのだ。おんなのくには)
「まだ耳についている。田舎の言葉で話がしたいな、と言うのだ。女の国は
(みなみのはずれだよ。」「いけない!ぼくにはよすぎる。」「ほんと。きみ、ほんとう)
南のはずれだよ。」「いけない!僕にはよすぎる。」「ほんと。君、ほんとう
(だよ。ははん。それだけのおんなだ。」おおきいぎょせんがすなはまにあげられてやすんでいた)
だよ。ははん。それだけの女だ。」大きい漁船が砂浜にあげられてやすんでいた
(そのそばにちょっけいしちはっしゃくもあるようなみごとなぎょらんがふたつころがっていた。こすがは、)
その傍に直径七八尺もあるような美事な魚籃が二つころがっていた。小菅は、
(そのふねのくろいよこばらへ、ひろったかいを、ちからいっぱいになげつけた。)
その船のくろい横腹へ、拾った貝を、力いっぱいに投げつけた。
(さんにんは、ちっそくするほどきまずいおもいをしていた。もし、このちんもくが、もういっぷんかん)
三人は、窒息するほど気まずい思いをしていた。もし、この沈黙が、もう一分間
(つづいたなら、かれらはいっそきがるげにうみへみをおどらせたかもしれぬ。)
つづいたなら、彼等はいっそ気軽げに海へ身を躍らせたかも知れぬ。
(こすががだしぬけにさけんだ。「みろ、みろ。」ぜんぽうのなぎさをゆびさしたのである。)
小菅がだしぬけに叫んだ。「見ろ、見ろ。」前方の渚を指さしたのである。
(「いごうしつとろごうしつだ!」きせつはずれのしろいぱらそるをさして、ふたりのむすめが)
「い号室とろ号室だ!」季節はずれの白いパラソルをさして、二人の娘が
(こっちへそろそろあるいてきた。「はっけんだな。」ようぞうもそせいのおもいであった。)
こっちへそろそろ歩いて来た。「発見だな。」葉蔵も蘇生の思いであった。
(「はなしかけようか。」こすがは、かたあしあげて、くつのすなをふりおとし、ようぞうのかおを)
「話かけようか。」小菅は、片足あげて、靴の砂をふり落し、葉蔵の顔を
(のぞきこんだ。めいれいいっか、かけだそうというのである。「よせ、よせ。」ひだは、)
覗きこんだ。命令一下、駆けだそうというのである。「よせ、よせ。」飛騨は、
(きびしいかおをしてこすがのかたをおさえた。ぱらそるはたちどまった。しばらくなにか)
きびしい顔をして小菅の肩をおさえた。パラソルは立ちどまった。しばらく何か
(はなしあっていたが、それからくるっとこっちへせをむけて、またしずかに)
話合っていたが、それからくるっとこっちへ背をむけて、またしずかに
(あるきだした。「おいかけようか。」こんどはようぞうがはしゃぎだした。)
歩きだした。「追いかけようか。」こんどは葉蔵がはしゃぎだした。
(ひだのうつむいているかおをちらとみた。「よそう。」ひだはわびしくてならぬ。)
飛騨のうつむいている顔をちらと見た。「よそう。」飛騨はわびしくてならぬ。
(このふたりのともだちからだんだんとおのいていくおのれのしなびたちを、)
この二人の友だちからだんだん遠のいて行くおのれのしなびた血を、
(いまはっきりとかんじたのだ。せいかつからであろうか、とかんがえた。ひだのせいかつはやや)
いまはっきりと感じたのだ。生活からであろうか、と考えた。飛騨の生活はやや
(まずしかったのである。「だけど、いいなあ。」こすがはせいようふうにかたをすくめた)
まずしかったのである。「だけど、いいなあ。」小菅は西洋ふうに肩をすくめた
(なんとかしてこのばをうまくとりつくろってやろうとつとめたのである。)
なんとかしてこの場をうまく取りつくろってやろうと努めたのである。
(「ぼくたちのさんぽしているのをみて、そそられたんだよ。わかいんだものな。)
「僕たちの散歩しているのを見て、そそられたんだよ。若いんだものな。
(かわいそうだなあ。へんなここちになっちゃった。おや、かいをひろってるよ。)
可愛そうだなあ。へんな心地になっちゃった。おや、貝をひろってるよ。
(ぼくのまねをしていやがる。」ひだはおもいなおしてほほえんだ。ようぞうのわびるような)
僕の真似をしていやがる。」飛騨は思い直して微笑んだ。葉蔵のわびるような
(ひとみとぶつかった。ふたりながらほおをあからめた。わかっている。)
瞳とぶつかった。二人ながら頬をあからめた。判っている。
(おたがいがいたわりたいこころでいっぱいなんだ。かれらはよわきをいつくしむ。)
お互いがいたわりたい心でいっぱいなんだ。彼等は弱きをいつくしむ。
(さんにんは、ほのあたたかいうみかぜにふかれ、とおくのぱらそるをながめつつあるいた。)
三人は、ほの温い海風に吹かれ、遠くのパラソルを眺めつつあるいた。
(はるかりょうよういんのしろいたてもののしたには、まのがかれらのかえりをまってたっている。)
はるか療養院の白い建物のしたには、真野が彼等の帰りを待って立っている。
(ひくいかどばしらによりかかり、まぶしそうにみぎてをひたいへかざしている。)
ひくい門柱によりかかり、まぶしそうに右手を額へかざしている。
(さいごのよるに、まのはうかれていた。ねてからも、おのれのつつましいかぞくの)
最後の夜に、真野は浮かれていた。寝てからも、おのれのつつましい家族の
(ことや、りっぱなそせんのことをながながとしゃべった。ようぞうはよるのふけるとともに)
ことや、立派な祖先のことをながながとしゃべった。葉蔵は夜のふけるとともに
(むっつりしてきた。やはり、まののほうへせをむけて、きのないへんじをしながら)
むっつりして来た。やはり、真野のほうへ背をむけて、気のない返事をしながら
(ほかのことをおもっていた。まのは、やがておのれのめのうえのきずについて)
ほかのことを思っていた。真野は、やがておのれの眼のうえの傷について
(はなしだしたのである。「わたしがみっつのとき、」なにげなくかたろうと)
話しだしたのである。「私が三つのとき、」なにげなく語ろうと
(したらしかったが、しくじった。こえがのどへひっからまる。)
したらしかったが、しくじった。声が喉へひっからまる。
(「らんぷをひっくりかえして、やけどしたんですって。ずいぶん、ひがんだ)
「ランプをひっくりかえして、やけどしたんですって。ずいぶん、ひがんだ
(ものでございますのよ。しょうがっこうへあがっていたじぶんには、このきず、)
ものでございますのよ。小学校へあがっていたじぶんには、この傷、
(もっともっとおおきかったんですの。がっこうのおともだちはわたしを、ほたる、ほたる。」)
もっともっと大きかったんですの。学校のお友だちは私を、ほたる、ほたる。」
(すこしとぎれた。「そうよぶんです。わたし、そのたんびに、きっとかたきを)
すこしとぎれた。「そう呼ぶんです。私、そのたんびに、きっとかたきを
(うとうとおもいましたわ。ええ、ほんとうにそうおもったわ。えらくなろうと)
討とうと思いましたわ。ええ、ほんとうにそう思ったわ。えらくなろうと
(おもいましたの。」ひとりでわらいだした。「おかしいですのねえ。えらくなれる)
思いましたの。」ひとりで笑いだした。「おかしいですのねえ。えらくなれる
(もんですか。めがねかけましょうかしら。めがねかけたら、このきずがすこし)
もんですか。眼鏡かけましょうかしら。眼鏡かけたら、この傷がすこし
(かくれるんじゃないかしら。」「よせよ。かえっておかしい。」ようぞうは)
かくれるんじゃないかしら。」「よせよ。かえっておかしい。」葉蔵は
(おこってでもいるように、だしぬけにくちをはさんだ。おんなにあいじょうをかんじたとき、)
怒ってでもいるように、だしぬけに口を挟んだ。女に愛情を感じたとき、
(わざとじゃけんにしてやるこふうさを、かれもやはりもっているのであろう。)
わざとじゃけんにしてやる古風さを、彼もやはり持っているのであろう。
(「そのままでいいのだ。めだちはしないよ。もうねむったらどうだろう。)
「そのままでいいのだ。目立ちはしないよ。もう眠ったらどうだろう。
(あしたははやいのだよ。」まのは、だまった。あしたわかれてしまうのだ。)
あしたは早いのだよ。」真野は、だまった。あした別れてしまうのだ。
(おや、たにんだったのだ。はじをしれ。はじをしれ。わたしはわたしなりにほこりをもとう。)
おや、他人だったのだ。恥を知れ。恥を知れ。私は私なりに誇りを持とう。
(せきをしたりためいきついたり、それからばたんばたんとらんぼうにねがえりを)
せきをしたり溜息ついたり、それからばたんばたんと乱暴に寝返りを
(うったりした。ようぞうはそしらぬふりをしていた。なにをあんじつつあるかは、)
うったりした。葉蔵は素知らぬふりをしていた。なにを案じつつあるかは、
(いえぬ。ぼくたちはそれより、なみのおとやかもめのこえにみみかたむけよう。そしてこのよっかかんの)
言えぬ。僕たちはそれより、浪の音や鷗の声に耳傾けよう。そしてこの四日間の
(せいかつをはじめからおもいおこそう。みずからをげんじつしゅぎしゃとしょうしているひとは)
生活をはじめから思い起こそう。みずからを現実主義者と称している人は
(いうかもしれぬ。このよっかかんはぽんちにみちていたと。それならばこたえよう。)
言うかも知れぬ。この四日間はポンチに満ちていたと。それならば答えよう。
(おのれのげんこうが、へんしゅうしゃのつくえのうえでおおかたどびんしきのやくめをしてくれた)
おのれの原稿が、編集者の机のうえでおおかた土瓶敷きの役目をしてくれた
(らしく、くろいおおきなやきあとをつけられておくりかえされたこともぽんち。)
らしく、黒い大きな焼跡をつけられて送り返されたこともポンチ。
(おのれのつまのくらいかこをせめ、いっきいちゆうしたこともぽんち。しちやののれんを)
おのれの妻のくらい過去をせめ、一喜一憂したこともポンチ。質屋の暖簾を
(くぐるのに、それでもまくらもとをかきあわせ、おのれのおちぶれをみせまいと)
くぐるのに、それでも枕元を掻き合せ、おのれのおちぶれを見せまいと
(ふうさいただしたこともぽんち。ぼくたちじしん、ぽんちのせいかつをおくっている。)
風采ただしたこともポンチ。僕たち自身、ポンチの生活を送っている。
(そのようなげんじつにひしがれたおとこのむりにしめすがまんのたいど。きみはそれをりかいできぬ)
そのような現実にひしがれた男のむりに示す我慢の態度。君はそれを理解できぬ
(ならば、ぼくはきみとはえいえんにたにんである。どうせぽんちならよいぽんち。)
ならば、僕は君とは永遠に他人である。どうせポンチならよいポンチ。
(ほんとうのせいかつ。ああ、それはとおいことだ。ぼくは、せめて、ひとのじょうにみちみちた)
ほんとうの生活。ああ、それは遠いことだ。僕は、せめて、人の情にみちみちた
(このよっかかんをゆっくりゆっくりなつかしもう。たったよっかかんのおもいでの、)
この四日間をゆっくりゆっくりなつかしもう。たった四日間の思い出の、
(ああ、いっしょうがいにまさることがある。まののおだやかなねいきがきこえた。)
ああ、一生涯にまさることがある。真野のおだやかな寝息が聞こえた。
(ようぞうはわきかえるおもいにたえかねた。まののほうへねがえりをうとうとして、)
葉蔵は湧きかえる思いに堪えかねた。真野のほうへ寝がえりを打とうとして、
(ながいからだをくねらせたら、はげしいこえをみみもとへささやかれた。)
長いからだをくねらせたら、はげしい声を耳もとへささやかれた。
(やめろ!ほたるのしんらいをうらぎるな。)
やめろ!ほたるの信頼を裏切るな。