晩年 ㊸

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太宰 治

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問題文

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(よるのしらじらとあけはなれたころ、ふたりはもうおきてしまった。ようぞうはきょう)

夜のしらじらと明けはなれたころ、二人はもう起きてしまった。葉蔵はきょう

(たいいんするのである。ぼくは、このひのちかづくことをおそれていた。それはぐさくしゃの)

退院するのである。僕は、この日の近づくことを恐れていた。それは愚作者の

(だらしないかんしょうであろう。このしょうせつをかきながらぼくは、ようぞうをすくいたかった。)

だらしない感傷であろう。この小説を書きながら僕は、葉蔵を救いたかった。

(いや、このばいろんにばけそこねたいっぴきのどろぎつねをゆるしてもらいたかった。)

いや、このバイロンに化け損ねた一匹の泥狐を許してもらいたかった。

(それだけがくるしいなかの、ひそかなきがんであった。しかしこのひのちかづくにつれ)

それだけが苦しいなかの、ひそかな祈願であった。しかしこの日の近づくにつれ

(ぼくはまえにもましてこうりょうたるけはいのふたたびようぞうを、ぼくをしずかにおそうてきたのを)

僕は前にもまして荒涼たる気配のふたたび葉蔵を、僕をしずかに襲うて来たのを

(おぼえるのだ。このしょうせつはしっぱいである。なんのひやくもない、なんのげだつもない。)

覚えるのだ。この小説は失敗である。なんの飛躍もない、なんの解脱もない。

(ぼくはすたいるをあまりきにしすぎたようである。そのためにこのしょうせつは)

僕はスタイルをあまり気にしすぎたようである。そのためにこの小説は

(げひんにさえなっている。たくさんのいわでものことをのべた。しかも、もっと)

下品にさえなっている。たくさんの言わでものことを述べた。しかも、もっと

(じゅうようなことがらをたくさんいいおとしたようなきがする。これはきざないいかたで)

重要なことがらをたくさん言い落したような気がする。これはきざな言いかたで

(あるが、ぼくがながいきして、いくとしかのちにこのしょうせつをてにとるようなことでも)

あるが、僕が長生きして、幾年かのちにこの小説を手に取るようなことでも

(あるならば、ぼくはどんなにみじめだろう。おそらくはいちぺーじもよまぬうちに)

あるならば、僕はどんなにみじめだろう。おそらくは一頁も読まぬうちに

(ぼくはたえがたいじこけんおにおののいて、まきをふせるにきまっている。いまでさえ)

僕は耐えがたい自己嫌悪におののいて、巻を伏せるにきまっている。いまでさえ

(ぼくは、まえをよみかえすきりょくがないのだ。ああ、さっかは、おのれのすがたを)

僕は、まえを読みかえす気力がないのだ。ああ、作家は、おのれのすがたを

(むきだしにしてはいけない。それはさっかのはいぼくである。うつくしいかんじょうをもって、)

むき出しにしてはいけない。それは作家の敗北である。美しい感情を以て、

(ひとは、わるいぶんがくをつくる。ぼくはさんどこのことばをくりかえす。そして、しょうにんを)

人は、悪い文学を作る。僕は三度この言葉を繰りかえす。そして、承認を

(あたえよう。ぼくはぶんがくをしらぬ。もいちどはじめから、やりなおそうか。)

与えよう。僕は文学を知らぬ。もいちど始めから、やり直そうか。

(きみ、どこからてをつけていったらよいやら。ぼくこそ、こんとんとじそんしんとの)

君、どこから手をつけていったらよいやら。僕こそ、渾沌と自尊心との

(かたまりでなかったろうか。このしょうせつも、ただそれだけのものでなかったろうか)

かたまりでなかったろうか。この小説も、ただそれだけのものでなかったろうか

(ああ、なぜぼくはすべてにだんていをいそぐのだ。すべてのしねんにまとまりを)

ああ、なぜ僕はすべてに断定をいそぐのだ。すべての思念にまとまりを

など

(つけなければいきていけない、そんなけちなこんじょうをいったいだれからおそわった!)

つけなければ生きて行けない、そんなけちな根性をいったい誰から教わった!

(かこうか。せいしょうえんのさいごのあさをかこう。なるようにしかならぬのだ。)

書こうか。青松園の最後の朝を書こう。なるようにしかならぬのだ。

(まのはうらやまへけしきをみにようぞうをさそった。「とてもけしきがいいんですのよ。)

真野は裏山へ景色を見に葉蔵を誘った。「とても景色がいいんですのよ。

(いまならきっとふじがみえます。」ようぞうはまっくろいようもうのえりまきをくびにまとい、)

いまならきっと富士が見えます。」葉蔵はまっくろい羊毛の襟巻を首に纏い、

(まのはかんごふくのうえにまつばのもようのあるはおりをきこみ、あかいけいとのしょおるを)

真野は看護服のうえに松葉の模様のある羽織を着込み、赤い毛糸のショオルを

(かおがうずまるほどぐるぐるまいて、いっしょにりょうよういんのうらにわへげたはいてでた。)

顔がうずまるほどぐるぐる巻いて、いっしょに療養院の裏庭へ下駄はいて出た。

(にわのすぐほっぽうには、あかつちのたかいがけがそそりたっていて、それへせまいてつの)

庭のすぐ北方には、赭土のたかい崖がそそり立っていて、それへせまい鉄の

(はしごがいっぽんかかっているのであった。まのがさきに、そのはしごを)

梯子がいっぽんかかっているのであった。真野がさきに、その梯子を

(すばしこいあしどりでするするのぼった。うらやまにはかれくさがふかくしげっていて、)

すばしこい足どりでするするのぼった。裏山には枯れ草が深くしげっていて、

(しもがいちめんにおりていた。まのはりょうてのゆびさきへしろいいきをはきかけてあたためつつ)

霜がいちめんにおりていた。真野は両手の指さきへ白い息を吐きかけて温めつつ

(はしるようにしてやまみちをのぼっていった。やまみちはゆるいけいしゃをもってくねくねと)

はしるようにして山路をのぼっていった。山路はゆるい傾斜をもってくねくねと

(まがっていた。ようぞうも、しもをふみふみそのあとをおった。こおったくうきへ)

曲がっていた。葉蔵も、霜を踏み踏みそのあとを追った。凍った空気へ

(たのしげにくちぶえをふきこんだ。だれひとりいないやま。どんなことでもできるのだ。)

たのしげに口笛を吹きこんだ。誰ひとりいない山。どんなことでもできるのだ。

(まのにそんなわるいけねんをもたせたくなかったのである。くぼちへおりた。)

真野にそんなわるい懸念を持たせたくなかったのである。窪地へ降りた。

(ここにもかれたかやがしげっていた。まのはたちどまった。ようぞうもごろっぽはなれて)

ここにも枯れた茅がしげっていた。真野は立ちどまった。葉蔵も五六歩はなれて

(たちどまった。すぐわきにしろいてんとのこやがあるのだ。まのはそのこやを)

立ちどまった。すぐわきに白いテントの小屋があるのだ。真野はその小屋を

(ゆびさしていった。「これ、にっこうよくじょう。けいしょうのかんじゃさんたちが、はだかでここへ)

指さして言った。「これ、日光浴場。軽症の患者さんたちが、はだかでここへ

(あつまるのよ。ええ、いまでも。」てんとにもしもがひかっていた。「のぼろう。」)

集るのよ。ええ、いまでも。」テントにも霜がひかっていた。「登ろう。」

(なぜとはしらずきがせくのだ。まのは、またかけだした。ようぞうもつづいた。)

なぜとは知らず気がせくのだ。真野は、また駆け出した。葉蔵もつづいた。

(からまつのほそいなみきじがさしかかった。ふたりはつかれて、ぶらぶらとあるき)

落葉松の細い並木路がさしかかった。ふたりはつかれて、ぶらぶらと歩き

(はじめた。ようぞうはかたであらくいきをしながら、おおごえではなしかけた。「きみ、おしょうがつは)

はじめた。葉蔵は肩であらく息をしながら、大声で話かけた。「君、お正月は

(ここでするのか。」ふりむきもせず、やはりおおごえでこたえてよこした。)

ここでするのか。」振りむきもせず、やはり大声で答えてよこした。

(「いいえ。とうきょうへかえろうとおもいます。」「じゃ、ぼくのとこへあそびにきたまえ。)

「いいえ。東京へ帰ろうと思います。」「じゃ、僕のとこへ遊びに来たまえ。

(ひだもこすがもまいにちのようにぼくのとこへきているのだ。まさかろうやでおしょうがつを)

飛騨も小菅も毎日のように僕のとこへ来ているのだ。まさか牢屋でお正月を

(おくるようなこともあるまい。きっとうまくいくだろうとおもうよ。」)

送るようなこともあるまい。きっとうまく行くだろうと思うよ。」

(まだみぬけんじのすがすがしいわらいがおをさえ、むねにえがいていたのである。)

まだ見ぬ検事のすがすがしい笑い顔をさえ、胸に画いていたのである。

(ここでむすべたら!ふるいおおやはこのようなところで、いみありげにむすぶ。しかし、)

ここで結べたら!古い大家はこのようなところで、意味ありげに結ぶ。しかし、

(ようぞうもぼくも、おそらくはしょくんも、このようなごまかしのなぐさめに、もはやあきて)

葉蔵も僕も、おそらくは諸君も、このようなごまかしの慰めに、もはや厭きて

(いる。おしょうがつもろうやもけんじも、ぼくたちにはどうでもよいことなのだ。)

いる。お正月も牢屋も検事も、僕たちにはどうでもよいことなのだ。

(ぼくたちはいったい、けんじのことなどをはじめからきにかけていたのだろうか。)

僕たちはいったい、検事のことなどをはじめから気にかけていたのだろうか。

(ぼくたちはただ、やまのちょうじょうにいきついてみたいのだ。そこになにがある。なにがあろう)

僕たちはただ、山の頂上に行きついてみたいのだ。そこに何がある。何があろう

(いささかのきたいをそれにのみつないでいる。ようようちょうじょうにたどりつく。)

いささかの期待をそれにのみつないでいる。ようよう頂上にたどりつく。

(ちょうじょうはかんたんにじならしされ、じゅっつぼほどのあかつちがむきだされていた。)

頂上は簡単に地ならしされ、十坪ほどの赩土がむきだされていた。

(すまんなかにまるたのひくいあずまやがあり、にわいしのようなものまで、あちこちに)

すまんなかに丸太のひくいあずまやがあり、庭石のようなものまで、あちこちに

(すえられていた。すべてついしもをかぶっている。「だめ。ふじがみえないわ。」)

据えられていた。すべてつい霜をかぶっている。「駄目。富士が見えないわ。」

(まのははなさきをまっかにしてさけんだ。「このへんに、くっきりみえますのよ。」)

真野は鼻さきをまっかにして叫んだ。「この辺に、くっきり見えますのよ。」

(うらのくもったそらをゆびさした。あさひはまだでていないのである。ふしぎないろをした)

裏の曇った空を指さした。朝日はまだ出ていないのである。不思議な色をした

(きれぎれのくもが、わきたってはよどみ、よどんではまたゆるゆるとながれていた。)

きれぎれの雲が、沸きたっては澱み、澱んではまたゆるゆると流れていた。

(そよかぜがほおをきる。ようぞうは、はるかにうみをみおろした。すぐあしもとから)

そよ風が頬を切る。葉蔵は、はるかに海を見おろした。すぐ足もとから

(さんじゅうじょうものだんがいになっていて、えのしまがまくだりにちいさくみえた。ふかいあさぎりの)

三十丈もの断崖になっていて、江の島が真下に小さく見えた。ふかい朝霧の

(おくそこに、かいすいがゆらゆらうごいていた。そして、いな、それだけのことである。)

奥底に、海水がゆらゆらうごいていた。そして、否、それだけのことである。

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