晩年 ㊹

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太宰 治

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問題文

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(さるめんかんじゃ)

猿面冠者

(どんなしょうせつをよませても、はじめのにさんぎょうをはしりよみしたばかりで、)

どんな小説を読ませても、はじめのニ三行をはしり読みしたばかりで、

(もうそのしょうせつのがくやうらをみぬいてしまったかのように、はなでわらってまくをとじる)

もうその小説の楽屋裏を見抜いてしまったかのように、鼻で笑って巻を閉じる

(ごうがんふそんのおとこがいた。ここにろしあのしじんのことばがある。)

傲岸不遜の男がいた。ここに露西亜の詩人の言葉がある。

(「そもさんなにもの。されば、わざかにまねごとし。きにするがものもないゆうれいか。)

「そもさん何者。されば、わざかにまねごと師。気にするがものもない幽霊か。

(はろるどのまんとはおったもすくわっこ。たにんのくせのほんあんか。はやりことばの)

ハロルドのマント羽織った莫斯科ッ子。他人の癖の飜案か。はやり言葉の

(じしょなのか。いやさて、もじりことばのしとでもいったところじゃないかよ。」)

辞書なのか。いやさて、もじり言葉の詩とでもいったところじゃないかよ。」

(いずれそんなところかもしれぬ。このおとこは、じぶんでは、すこししやら)

いずれそんなところかも知れぬ。この男は、自分では、すこし詩やら

(しょうせつやらをよみすぎたとおもってくいている。このおとこは、しあんするときにでも)

小説やらを読みすぎたと思って悔いている。この男は、思案するときにでも

(ことばをえらんでかんがえるのだそうである。こころのなかでじぶんのことを、かれ、と)

言葉をえらんで考えるのだそうである。心のなかで自分のことを、彼、と

(よんでいる。さけによいしれて、ほとんどわれをうしなっているように)

呼んでいる。酒に酔いしれて、ほとんど我をうしなっているように

(みえるときでも、もしだれかになぐられたなら、おちついてつぶやく。)

見えるときでも、もし誰かに殴られたなら、落ちついて呟く。

(「あなた、こうかいしないように。」むいしゅきんこうしゃくのことばである。)

「あなた、後悔しないように。」ムイシュキン公爵の言葉である。

(こいをうしなったときには、どういうのであろう。そのときには、くちにだしてはいわぬ)

恋を失ったときには、どう言うのであろう。そのときには、口に出しては言わぬ

(むねのなかをかけめぐることば。「だまっていればなをよぶし、ちかよっていけば)

胸のなかを駆けめぐる言葉。「だまって居れば名を呼ぶし、近寄って行けば

(にげさるのだ。」これはめりめのつつましいじゅっかいではなかったか。)

逃げ去るのだ。」これはメリメのつつましい述懐ではなかったか。

(よる、ねどこにもぐってからねむるまで、かれは、まだかかぬかれのけっさくのもうそうに)

夜、寝床にもぐってから眠るまで、彼は、まだ書かぬ彼の傑作の妄想に

(さいなまれる。そのときには、ひくくこうさけぶ。「はなしてくれ!」これはこれ、)

さいなまれる。そのときには、ひくくこう叫ぶ。「放してくれ!」これはこれ、

(げいじゅつかのこんふぃておーる。それでは、ひとりでなにもせずにぼんやりして)

芸術家のコンフィテオール。それでは、ひとりで何もせずにぼんやりして

(いるときには、どうであろう。くちをついてでるというのである。)

いるときには、どうであろう。口をついて出るというのである。

など

(”nevermore”というどくはくが。そのようなぶんがくのふんからうまれたような)

”Nevermore”という独白が。そのような文学の糞から生まれたような

(おとこが、もししょうせつをかいたとしたなら、いったいどんなものができるだろう。)

男が、もし小説を書いたとしたなら、いったいどんなものができるだろう。

(だいいちにかんがえられることは、そのおとこは、きっとしょうせつをかけないだろうと)

だいいちに考えられることは、その男は、きっと小説を書けないだろうと

(いうことである。いちぎょうかいてはけし、いや、そのいちぎょうもかけぬだろう。)

言うことである。一行書いては消し、いや、その一行も書けぬだろう。

(かれには、いけないくせがあって、ふでをとるまえに、もうそのしょうせつにいわば)

彼には、いけない癖があって、筆をとるまえに、もうその小説に謂わば

(おしまいのみがきまでかけてしまうらしいのである。たいていかれは、よる、ふとんの)

おしまいの磨きまでかけてしまうらしいのである。たいてい彼は、夜、蒲団の

(なかにもぐってから、めをぱちぱちさせたり、にやにやわらったり、せきをしたり)

なかにもぐってから、眼をぱちぱちさせたり、にやにや笑ったり、せきをしたり

(ぶつぶつわけのわからぬことをつぶやいたりして、よあけちかくまでかかって)

ぶつぶつわけのわからぬことを呟いたりして、夜明けちかくまでかかって

(ひとつのたんぺんをまとめる。けっさくだとおもう。それからまたかれは、かきだしのぶんしょうを)

ひとつの短篇をまとめる。傑作だと思う。それからまた彼は、書きだしの文章を

(おきかえてみたり、むすびのもじをさいぎんみしてみたりして、そのむねのなかの)

置きかえてみたり、むすびの文字を再吟味してみたりして、その胸のなかの

(けっさくをゆっくりゆっくりなでまわしてみるのである。そのへんでねむれたら)

傑作をゆっくりゆっくり撫でまわしてみるのである。そのへんで眠れたら

(いいのであるが、いままでのけいけんからしてそんなにぐあいがよくいったことは)

いいのであるが、いままでの経験からしてそんなに工合いがよくいったことは

(いちどもなかったという。そのつぎにかれは、そのたんぺんについてのひひょうを)

いちどもなかったという。そのつぎに彼は、その短篇についての批評を

(こころみるのである。だれだれは、このようなことばでもってほめてくれる。)

こころみるのである。誰々は、このような言葉でもってほめて呉れる。

(だれだれは、わからぬながらも、このへんのいっかしょをぽつんとついて、おのれのけいがんを)

誰々は、判らぬながらも、この辺の一箇所をぽつんと突いて、おのれの慧眼を

(ほこる。けれども、おれならば、こういう。おとこは、じぶんのさくひんについての)

誇る。けれども、おれならば、こう言う。男は、自分の作品についての

(おそらくはいちばんてきかくなひょうろんをくみたてはじめる。このさくひんのゆいいつのおてんは、)

おそらくはいちばん適確な評論を組みたてはじめる。この作品の唯一の汚点は、

(などとこころのなかでつぶやくようになると、もうかれのけっさくはあとかたもなく)

などと心のなかで呟くようになると、もう彼の傑作はあとかたもなく

(きえうせている。おとこは、なおもめをぱちぱちさせながら、あまどのすきまから)

消えうせている。男は、なおも眼をぱちぱちさせながら、雨戸のすきまから

(もれてくるあかるいこうせんをながめて、すこしまぬけづらになる。そのうちにうつら)

漏れて来る明るい光線を眺めて、すこし間抜けづらになる。そのうちにうつら

(うつらまどろむのである。けれども、これはもんだいにたいしてただしくこたえていない)

うつらまどろむのである。けれども、これは問題に対してただしく答えていない

(もんだいは、もしかいたとしたなら、というのである。ここにあります、といって)

問題は、もし書いたとしたなら、というのである。ここにあります、と言って

(ぽんとむねをたたいてみせるのは、なにやらみずぎわだっていいようであるが、)

ぽんと胸をたたいて見せるのは、なにやら水際だっていいようであるが、

(きくあいてにしては、たちのわるいじょうだんとしかうけとれまい。まして、このおとこの)

聞く相手にしては、たちのわるい冗談としか受けとれまい。まして、この男の

(むねは、へんぺいきょうといってうまれながらにみにくくおしつぶされたかたちなのであるから、)

胸は、扁平胸といって生まれながらに醜くおしつぶされた形なのであるから、

(けっさくはむねのうちにありますというかれのそのせいいっぱいのことばも、いよいよげいが)

傑作は胸のうちにありますという彼のそのせいいっぱいの言葉も、いよいよ芸が

(ないことになる。こんなことからしても、かれがいちぎょうもかけぬだろうというかいとうの)

ないことになる。こんなことからしても、彼が一行も書けぬだろうという解答の

(どんなにあんいであるかがわかるのである。もしかいたとしたなら、というのである)

どんなに安易であるかが判るのである。もし書いたとしたなら、というのである

(もんだいをもっとかんがえよくするために、かれのどうしてもしょうせつをかかねばならぬ)

問題をもっと考えよくするために、彼のどうしても小説を書かねばならぬ

(ぐたいてきなかんきょうをかんたんにこしらえあげてみてもよい。たとえばこのおとこは、しばしば)

具体的な環境を簡単にこしらえあげてみてもよい。たとえばこの男は、しばしば

(がっこうをらくだいし、いまはかれのふるさとのひとたちに、たからもの、というかげぐちを)

学校を落第し、いまは彼のふるさとのひとたちに、たからもの、という蔭口を

(きかれているみぶんであって、ことしいちねんでがっこうをそつぎょうしなければ、かれのいえの)

きかれている身分であって、ことし一年で学校を卒業しなければ、彼の家の

(ほうでもしんせきのものたちへのてまえ、つきづきのそうきんをていしするというあんばいに)

ほうでも親戚のものたちへの手前、月々の送金を停止するというあんばいに

(なっていたとする。またかりにそのおとこが、ことしいちねんでそつぎょうできそうも)

なっていたとする。また仮にその男が、ことし一年で卒業できそうも

(ないばかりか、どだいそつぎょうしようとするはらがなかったとしたなら、どうであろう)

ないばかりか、どだい卒業しようとする腹がなかったとしたなら、どうであろう

(もんだいをさらにかんがえよくするために、このおとこがいまどくしんでないということにしよう)

問題をさらに考えよくするために、この男がいま独身でないということにしよう

(しごねんもまえからのさいたいしゃである。しかもかれのそのつまというのは、とにかく)

四五年もまえからの妻帯者である。しかも彼のその妻というのは、とにかく

(そだちのいやしいおんなで、かれはこのけっこんによって、おばひとりをのぞいたほかの)

育ちのいやしい女で、彼はこの結婚によって、叔母ひとりを除いたほかの

(すべてのにくしんにすてられたという。つきなみのろまんすをにおわせておいてもよい。)

すべての肉親に捨てられたという。月並みのロマンスを匂わせて置いてもよい。

(さて、このようなきょうぐうのおとこが、やがてくるじいくのせいかつのために、どうしても)

さて、このような境遇の男が、やがて来る自鬻の生活のために、どうしても

(しょうせつをかかねばいけなくなったとする。しかし、これもとうとつである。)

小説を書かねばいけなくなったとする。しかし、これも唐突である。

(らんぼうでさえある。せいかつのためには、かならずしもしょうせつをかかねばいけないときまって)

乱暴でさえある。生活のためには、必ずしも小説を書かねばいけないときまって

(おらぬ。ぎゅうにゅうはいたつにでもなればいいじゃないか。しかし、それはかんたんに)

居らぬ。牛乳配達にでもなればいいじゃないか。しかし、それは簡単に

(はんばくされうる。のりかかったふね、というひとことでもってじゅうぶんであろう。)

反駁され得る。乗りかかった船、という一言でもって充分であろう。

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