晩年 ㊽

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太宰 治

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(てんさいのたんじょうからそのひげきてきなまつろにいたるまでのちょうへんしょうせつであった。)

天才の誕生からその悲劇的な末路にいたるまでの長編小説であった。

(かれは、このようにおのれのうんめいをおのれのさくひんでよげんすることがすきであった。)

彼は、このようにおのれの運命をおのれの作品で予言することが好きであった。

(かきだしにはくろうをした。こうかいた。おとこがいた。よっつのとき、かれのこころのなかに)

書きだしには苦労をした。こう書いた。男がいた。四つのとき、彼の心のなかに

(やせいのつるがすくった。つるはねっきょうてきにこうまんであった。うんぬん。しょちゅうきゅうかがおわって、)

野生の鶴が巣くった。鶴は熱狂的に高慢であった。云々。暑中休暇がおわって、

(じゅうがつのなかば、みぞれのふるよる、ようやくだっこうした。すぐまちのいんさつしょへ)

十月のなかば、みぞれの降る夜、ようやく脱稿した。すぐまちの印刷所へ

(もっていった。ちちは、かれのようきゅうどおりにだまってにひゃくえんおくってよこした。)

持って行った。父は、彼の要求どおりに黙って二百円送ってよこした。

(かれはそのかきとめをうけとったとき、やはりちちのそこいじのわるさをにくんだ。)

彼はその書留を受けとったとき、やはり父の底意地のわるさを憎んだ。

(しかるならしかるでいい、ふとっぱららしくだまっておくってよこしたのがきにくわなかった。)

叱るなら叱るでいい、太腹らしく黙って送って寄こしたのが気にくわなかった。

(じゅうにがつのおわり、「つる」はきくはんさいばん、ひゃくよぺーじのうつくしいほんとなってかれのきじょうに)

十二月のおわり、「鶴」は菊半裁判、百余頁の美しい本となって彼の机上に

(たかくつまれた。ひょうしにはわしににたみょうなとりがところせましとつばさをひろげていた。)

高く積まれた。表紙には鷲に似た妙な鳥がところせましと翼をひろげていた。

(まず、そのけんのおもなしんぶんしゃへしょめいしていちぶずつぞうていした。いっちょうめざむれば)

まず、その県のおもな新聞社へ署名して一部ずつ贈呈した。一朝めざむれば

(わがなはよにたかいそうな。かれには、ひときざみがひゃくねんせんねんのようにおもわれた。)

わが名は世に高いそうな。彼には、一刻が百年千年のように思われた。

(ごぶじゅうぶとまちじゅうのほんやにくばってあるいた。びらをはった。つるをよめ、)

五部十部と街じゅうの本屋にくばって歩いた。ビラを貼った。鶴を読め、

(つるをよめとはげしいごくをいっぱいすりこんだごすんへいほうほどのびらを、)

鶴を読めと激しい語句をいっぱい刷り込んだ五寸平方ほどのビラを、

(のりのたっぷりはいったばけつといっしょにりょうてでかかえ、わかいてんさいはまちのすみずみまで)

糊のたっぷりはいったバケツと一緒に両手で抱え、わかい天才は街の隅々まで

(かけずりまわった。そんなわけゆえ、かれはそのよくじつからまちなかのひとたちとしりあいに)

駆けずり廻った。そんな訳ゆえ、彼はその翌日から町中のひとたちと知合いに

(なってしまったのになんのふしぎもなかったはずである。かれはなおもまちをぶらぶら)

なってしまったのに何の不思議もなかった筈である。彼はなおも街をぶらぶら

(あるきながら、だれかれとなくすべてのひとともくれいをかわした。うんわるくかれのあいさつが)

歩きながら、誰かれとなくすべてのひとと目礼を交わした。運わるく彼の挨拶が

(むこうのふちゅういからそのひとにつうじなかったときや、かれがさくばんほねおって)

むこうの不注意からそのひとに通じなかったときや、彼が昨晩ほね折って

(はりつけたばかりのでんちゅうのびらがむざんにもはぎとられているのをはっけんする)

貼りつけたばかりの電柱のビラが無残にも剥ぎとられているのを発見する

など

(ときには、ことさらにぎょうさんなしかめつらをするのであった。やがてかれは、)

ときには、ことさらに仰山なしかめつらをするのであった。やがて彼は、

(そのまちでいちばんおおきいほんやにはいって、つるがうれるかと、こぞうにきいた。)

そのまちでいちばん大きい本屋にはいって、鶴が売れるかと、小僧に聞いた。

(こぞうは、まだいちぶもうれんです、とぶあいそうにこたえた。こぞうはかれこそ)

小僧は、まだ一部も売れんです、とぶあいそうに答えた。小僧は彼こそ

(ちょしゃであることをしらぬらしかった。かれはしょげずに、いやこれからうれると)

著者であることを知らぬらしかった。彼はしょげずに、いやこれから売れると

(おもうよ、となにげなさそうによげんしておいて、ほんやをたちさった。)

思うよ、となにげなさそうに予言して置いて、本屋を立ち去った。

(そのよる、かれは、さすがにいくぶんわずらわしくなったれいのえしゃくをくりかえしつつ、)

その夜、彼は、流石に幾分わずらわしくなった例の会釈を繰りかえしつつ、

(がっこうのりょうにかえってきたのである。それほどかがやかしいじんせいのかどでの、だいいちやに、)

学校の寮に帰って来たのである。それほど輝かしい人生の門出の、第一夜に、

(つるははやくもはずかしめられた。かれがゆうしょくをとりにりょうのしょくどうへ、ひとあしふみこむや、)

鶴は早くも辱められた。彼が夕食をとりに寮の食堂へ、ひとあし踏みこむや、

(わっというりょうせいたちのいようなかんせいをきいた。かれらのしょくたくで「つる」がわだいに)

わっという寮生たちの異様な喚声を聞いた。彼等の食卓で「鶴」が話題に

(されていたにちがいないのである。かれはつつましげにふしめをつかいながら、)

されていたにちがいないのである。彼はつつましげに伏目をつかいながら、

(しょくどうのすみのいすにこしをおろした。それから、ひくくせきばらいしてかつれつの)

食堂の隅の椅子に腰をおろした。それから、ひくくせきばらいしてカツレツの

(さらをつついたのである。かれのすぐみぎがわにすわっていたりょうせいがいちまいのゆうかんを)

皿をつついたのである。彼のすぐ右側に坐っていた寮生がいちまいの夕刊を

(かれのほうへのべてよこした。ごろくにんさきのりょうせいからじゅんじゅんにてわたしされて)

彼のほうへのべて寄こした。五六人さきの寮生から順々に手わたしされて

(きたものらしい。かれはかつれつをゆっくりかみかえしつつ、そのゆうかんへぼんやり)

来たものらしい。彼はカツレツをゆっくり嚙み返しつつ、その夕刊へぼんやり

(めをてんじた。「つる」といういちじがかれのめをいた。ああ。おのれのしょじょさくのひょうばんを)

眼を転じた。「鶴」という一字が彼の眼を射た。ああ。おのれの処女作の評判を

(はじめてきく、このつきさされるようなおののき。かれは、それでも、あわてて)

はじめて聞く、このつきさされるようなおののき。彼は、それでも、あわてて

(そのゆうかんをてにとるようなことはしなかった。ないふとふおくでもって)

その夕刊を手にとるようなことはしなかった。ナイフとフオクでもって

(かつれつをきりさきながら、おちついてそのひひょうを、ちらちらはしりよみ)

カツレツを切り裂きながら、落ちついてその批評を、ちらちらはしり読み

(するのであった。ひひょうはしめんのひだりのすみにちいさくくまれていた。)

するのであった。批評は紙面のひだりの隅に小さく組まれていた。

(このしょうせつはてっとうてつび、かんねんてきである。にくたいのあるじんぶつがひとりとして)

この小説は徹頭徹尾、観念的である。肉体のある人物がひとりとして

(えがかれていない。すべて、すりがらすごしにみえるゆがんだかげぼうしである。)

描かれていない。すべて、すり硝子越しに見えるゆがんだ影法師である。

(ことにしゅじんこうのおもいあがったききかいかいのげんどうは、らくちょうのおおいえんさいくろぺじあと)

殊に主人公の思いあがった奇々怪々の言動は、落丁の多いエンサイクロペジアと

(まったくにている。このしょうせつのしゅじんこうは、あしたにはげえてをきどり、ゆうべには)

全く似ている。この小説の主人公は、あしたにはゲエテを気取り、ゆうべには

(くらいすとをゆいいつのきょうしとし、せかいじゅうのあらゆるぶんごうのえっせんすをもって)

クライストを唯一の教師とし、世界中のあらゆる文豪のエッセンスを持って

(いるのだそうで、そのしょうねんじだいにひとめみたしょうじょをしぬほどしたい、せいねんじだいに)

いるのだそうで、その少年時代にひとめ見た少女を死ぬほどしたい、青年時代に

(ふたたびそのしょうじょとめぐりあい、げろのでるほどけんおするのであるが、)

ふたたびその少女とめぐり逢い、げろの出るほど嫌悪するのであるが、

(これはいずればいろんきょうあたりのほんあんであろう。しかもちせつなちょくやくである。)

これはいずれバイロン卿あたりの翻案であろう。しかも稚拙な直訳である。

(だいいちさくしゃはげえてをもくらいすとをもただかたとしてのがいねんでだけ)

だいいち作者はゲエテをもクライストをもただ型としての概念でだけ

(りょうかいしているようである。さくしゃは、ふぁうすとのいちぺーじも、ぺんてずいれえあの)

了解しているようである。作者は、ファウストの一頁も、ペンテズイレエアの

(ひとまくも、おそらくは、よんだことがないのではあるまいか。しつれい。ことにこの)

一幕も、おそらくは、読んだことがないのではあるまいか。失礼。ことにこの

(しょうせつのまつびには、けをむしられたつるのばさばさしたはばたきのおとをびょうしゃしている)

小説の末尾には、毛をむしられた鶴のばさばさした羽ばたきの音を描写している

(のであるが、さくしゃはあるいはこのびょうしゃによって、どくしゃにかんぺきのいんしょうをあたえ、)

のであるが、作者は或いはこの描写に依って、読者に完璧の印象を与え、

(けっさくのげんわくをかんじさせようとしたらしいが、わたしたちは、ただ、このきけいてきな)

傑作の幻惑を感じさせようとしたらしいが、私たちは、ただ、この畸形的な

(つるのみにくさにかおをそむけるばかりである。)

鶴の醜さに顔をそむける計りである。

(かれはかつれつをきりきざんでいた。へいきに、へいきに、とこころがければこころがけるほど)

彼はカツレツを切りきざんでいた。平気に、平気に、と心掛ければ心掛けるほど

(おのれのどうさがへまになった。かんぺきのいんしょう。けっさくのげんわく。これがいたかった。)

おのれの動作がへまになった。完璧の印象。傑作の幻惑。これが痛かった。

(こえたててわらおうか。ああ。かおをふせたままの、そのときのじゅっぷんかんで、かれはじゅうねんも)

声たてて笑おうか。ああ。顔を伏せたままの、そのときの十分間で、彼は十年も

(としおいた。このこころなきちゅうこくは、いったいどんなおとこがしてくれたものか、かれにも)

年老いた。この心なき忠告は、いったいどんな男がして呉れたものか、彼にも

(いまもってわからぬのだが、かれはこのくつじょくをくさびとして、さまざまのふこうにそうぐう)

いまもって判らぬのだが、彼はこの屈辱をくさびとして、さまざまの不幸に遭遇

(しはじめた。ほかのしんぶんしゃもやっぱり「つる」をほめてはくれなかったし、)

しはじめた。ほかの新聞社もやっぱり「鶴」をほめては呉れなかったし、

(ゆうじんたちもまた、せひょうどおりにかれをあしらい、かれをよぶにつるというちょうるいのなで)

友人たちもまた、世評どおりに彼をあしらい、彼を呼ぶに鶴という鳥類の名で

(もってした。わかいぐんしゅうは、えいゆうのしっきゃくにもびんかんである。ほんははずかしくて)

以てした。わかい群衆は、英雄の失脚にも敏感である。本は恥ずかしくて

(いえないほどきんしょうのぶすうしかうれなかった。まちをとおるひとたちは、もとより)

言えないほど僅少の部数しか売れなかった。街をとおる人たちは、もとより

(あかのたにんにちがいなかった。かれはまいよまいよ、まちのつじつじのびらをひそかに)

あかの他人にちがいなかった。彼は毎夜毎夜、まちの辻々のビラをひそかに

(はいでまわった。ちょうへんしょうせつ「つる」は、そのないようのものがたりとおなじくひげきてきなけつまつを)

剥いで廻った。長編小説「鶴」は、その内容の物語とおなじく悲劇的な結末を

(つげられたけれど、かれのこころのなかにすくっているやせいのつるは、それでも、)

告げられたけれど、彼の心のなかに巣くっている野生の鶴は、それでも、

(なまなまとつばさをのばし、げいじゅつのふかかいをたんじたり、せいかつのけんたいをかこったり、)

なまなまと翼をのばし、芸術の不可解を嘆じたり、生活の倦怠を託ったり、

(そのこうりょうのげんじつのなかでおもうさまおうのうしんぎんすることをおぼえたわけである。)

その荒涼の現実のなかで思うさま懊悩呻吟することを覚えたわけである。

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