晩年 ㊾

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太宰 治

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問題文

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(ほどなくとうききゅうかにはいり、かれはいよいよきむずかしくなってききょうした。)

ほどなく冬期休暇にはいり、彼はいよいよ気むずかしくなって帰郷した。

(まゆねによせられたしわも、どうやらかれににあってきていた。はははそれでも、)

眉根に寄せられた皺も、どうやら彼に似合って来ていた。母はそれでも、

(れいのこうとうきょういくをしんじて、かれをほれぼれとながめるのであった。)

れいの高等教育を信じて、彼をほれぼれと眺めるのであった。

(ちちはそのあくらつぶったたいどでもってかれをむかえた。ぜんにんどうしは、とかくにくしみあう)

父はその悪辣ぶった態度でもって彼を迎えた。善人どうしは、とかく憎しみ合う

(もののようである。かれは、ちちのむごんのせせらわらいのかげに、あのしんぶんのどくしゃを)

もののようである。彼は、父の無言のせせら笑いのかげに、あの新聞の読者を

(かんじた。ちちもよんだにちがいなかった。たかがじゅうぎょうかにじゅうぎょうかのひひょうのかつじが)

感じた。父も読んだにちがいなかった。たかが十行か二十行かの批評の活字が

(こんないなかにまでどくをながしているのをしり、かれは、おのれのからだをいわかめうしに)

こんな田舎にまで毒を流しているのを知り、彼は、おのれのからだを岩か牝牛に

(したかった。そんなばあい、もしかれが、つぎのようなかぜのたよりをうけとったと)

したかった。そんな場合、もし彼が、つぎのような風の便りを受けとったと

(したなら、どうであろう。やがて、ふるさとでじゅうはちのとしをおくり、じゅうきゅうさいになった)

したなら、どうであろう。やがて、ふるさとで十八の歳を送り、十九歳になった

(がんたん、めをさましてふとまくらもとにおかれてあるじゅうまいほどのがじょうにめをとめたという)

元旦、眼をさましてふと枕元に置かれてある十枚ほどの賀状に眼をとめたという

(のである。そのうちのいちまい、さしだしにんのなもしるされてないこれははがき。)

のである。そのうちのいちまい、差出人の名も記されてないこれは葉書。

(わたし、べつにわるいことをするのでないから、わざとはがきにかくの。またそろそろ)

私、べつに悪いことをするのでないから、わざと葉書に書くの。またそろそろ

(おしょげになっておられるころとおもいます。あなたは、ちょっとしたことにでも)

おしょげになって居られるころと思います。あなたは、ちょっとしたことにでも

(すぐおしょげなさるから、わたし、あんまりすきでないの。ほこりをうしなったおとこの)

すぐおしょげなさるから、私、あんまり好きでないの。誇りをうしなった男の

(すがたなどきたないものはないとおもいます。でもあなたは、けっしてごじしんを)

すがたなど汚いものはないと思います。でもあなたは、けっして御自身を

(いじめないでくださいませ。あなたには、わるものへてむかうこころと、じょうにみちた)

いじめないで下さいませ。あなたには、わるものへ手むかう心と、情にみちた

(せかいをもとめるこころとがおありです。それは、あなたがだまっていても、とおい)

世界をもとめる心とがおありです。それは、あなたがだまっていても、遠い

(ところにいるだれかひとりがきっとしっております。あなたは、ただすこし)

ところにいる誰かひとりがきっと知って居ります。あなたは、ただすこし

(よわいだけです。よわいしょうじきなひとをみんなでかばってだいじにしてやらなければ)

弱いだけです。弱い正直なひとをみんなでかばってだいじにしてやらなければ

(いけないとおもいます。あなたはちっともゆうめいでありませんし、また、なんの)

いけないと思います。あなたはちっとも有名でありませんし、また、なんの

など

(かたがきをもおもちでございません。でもわたし、おとといぎりしゃのしんわを)

肩書きをもお持ちでございません。でも私、おとといギリシャの神話を

(にじゅうばかりよんで、たのしいものがたりをひとつみつけたのです。おおむかし、)

二十ばかり読んで、たのしい物語をひとつ見つけたのです。おおむかし、

(まだせかいのじめんはかたまっておらず、うみはながれておらず、くうきはすきとおって)

まだ世界の地面は固まって居らず、海は流れて居らず、空気は透きとおって

(おらず、みんなまざりあってこんとんとそていたころ、それでもたいようはまいあさ)

居らず、みんなまざり合って渾沌とそていたころ、それでも太陽は毎朝

(のぼるので、あるあさ、じゅーのーのじじょのにじのめがみあいりすがそれをわらい、)

のぼるので、或る朝、ジューノーの侍女の虹の女神アイリスがそれを笑い、

(たいようどの、たいようどの、まいあさごくろうね、げかいにはあなたをあおぎみたてまつる)

太陽どの、太陽どの、毎朝ごくろうね、下界にはあなたを仰ぎ見たてまつる

(くさいっぽん、いずみひとつないのに、といいました。たいようはこたえました。わしはしかし)

草一本、泉ひとつないのに、と言いました。太陽は答えました。わしはしかし

(たいようだ。たいようだからのぼるのだ。みることのできるものはみるがよい。)

太陽だ。太陽だから昇るのだ。見ることのできるものは見るがよい。

(わたし、がくしゃでもなんでもないの。これだけかくのにも、ずいぶんかんがえたし、)

私、学者でもなんでもないの。これだけ書くのにも、ずいぶん考えたし、

(なんどもなんどもしたがきしました。あなたがよいはつゆめとよいはつひのでを)

なんどもなんども下書しました。あなたがよい初夢とよい初日出を

(ごらんになって、もっともっといきることにじしんをおもちなさるよういのっている)

ごらんになって、もっともっと生きることに自信をお持ちなさるよう祈っている

(もののあることを、おしらせしたくていっしょうけんめいにかきました。こんなことを、)

もののあることを、お知らせしたくて一生懸命に書きました。こんなことを、

(だしぬけにおとこのひとにかいてやるのは、たしなみなくて、わるいことだと)

だしぬけに男のひとに書いてやるのは、たしなみなくて、わるいことだと

(おもいます。でもわたし、はずかしいことは、なんにもかきませんでした。わたし、わざと)

思います。でも私、恥かしいことは、なんにも書きませんでした。私、わざと

(わたしのなまえをかかないの。あなたはいまにきっとわたしをおわすれになってしまう)

私の名前を書かないの。あなたはいまにきっと私をお忘れになってしまう

(だろうとおもいます。おわすれになってもかまわないの。おや、わすれていました。)

だろうと思います。お忘れになってもかまわないの。おや、忘れていました。

(しんねんおめでとうございます。がんたん。)

新年おめでとうございます。元旦。

({かぜのたよりはここでおわらぬ。})

{風の便りはここで終わらぬ。}

(あなたはわたしをおだましなさいました。あなとはわたしに、だいに、だいさんのかぜのたよりをも)

あなたは私をおだましなさいました。あなとは私に、第二、第三の風の便りをも

(かかせるとやくそくしておきながら、たっぷりはがきにまいぶんのおかしながじょうのもんくを)

書かせると約束して置きながら、たっぷり葉書二枚ぶんのおかしな賀状の文句を

(かかせたきりで、わたしをしなせてしまうおつもりらしゅうございます。)

書かせたきりで、私を死なせてしまうおつもりらしゅうございます。

(れいのごしんえんなごぎんみをまたおはじめになったのでございましょうか。)

れいのご深遠なご吟味をまたおはじめになったのでございましょうか。

(わたし、こんなになるだろうということは、はじめからしっていました。でもわたし、)

私、こんなになるだろうということは、はじめから知っていました。でも私、

(ひょっとするとあのれいかんとやらがあらわれて、どうやらわたしをいかしきることが)

ひょっとするとあの霊感とやらがあらわれて、どうやら私を生かしきることが

(できるのではないかしら、とあなたのためにもわたしのためにもそればかりをいのって)

できるのではないかしら、とあなたのためにも私のためにもそればかりを祈って

(いました。やっぱりだめなのね。まだおわかいからかしら。いいえ、なんにも)

いました。やっぱり駄目なのね。まだお若いからかしら。いいえ、なんにも

(おっしゃいますな。いくさにまけたたいしょうは、だまっているもんのだそうで)

おっしゃいますな。いくさに負けた大将は、だまっているもんのだそうで

(ございます。ひとのはなしによりますと「へるまんとどろてあ」も「のがも」も)

ございます。人の話に依りますと「ヘルマンとドロテア」も「野鴨」も

(「あらし」も、みんなそのさくしゃのばんねんにかかれたものだそうでございます。)

「あらし」も、みんなその作者の晩年に書かれたものだそうでございます。

(ひとにいこいをあたえ、こうみょうをなげてやるようなさくひんをかくのにさいのうだけでは)

ひとに憩いを与え、光明を投げてやるような作品を書くのに才能だけでは

(いけないようです。もしも、あなたがこれからじゅうねんにじゅうねんとこのにくさげな)

いけないようです。もしも、あなたがこれから十年二十年とこのにくさげな

(よのなかにどうかしてきょかきどりでいきとおして、それから、もいちどわすれずに)

世のなかにどうかして炬火きどりで生きとおして、それから、もいちど忘れずに

(わたしをおよびくだされたなら、わたし、どんなにうれしいでしょう。きっときっと)

私をお呼びくだされたなら、私、どんなにうれしいでしょう。きっときっと

(まいります。やくそくしてよ。さようなら。あら、あなたはこのげんこうをやぶるおつもり?)

参ります。約束してよ。さようなら。あら、あなたはこの原稿を破るおつもり?

(およしなさいませ。このようなぶんがくにどくされた、もじりことばのしとでも)

およしなさいませ。このような文学に毒された、もじり言葉の詩とでも

(いったようなおとこが、もししょうせつをかいたとしたなら、まずざっとこんなものだと)

いったような男が、もし小説を書いたとしたなら、まずざっとこんなものだと

(そしらぬふりしてかきくわえでもしておくと、あんがい、よのなかのひとたいは、)

素知らぬふりして書き加えでもして置くと、案外、世のなかのひとたいは、

(あなたのわたしをころしっぷりがいいといって、かっさいをおくるかもしれません。)

あなたの私を殺しっぷりがいいと言って、喝采を送るかも知れません。

(あなたのよろめくおすがたがさだめしおおうけでございましょう。そして、)

あなたのよろめくおすがたがさだめし大受けでございましょう。そして、

(おかげでわたしのゆびさきもそれからあしも、もうさんびょうとたたぬうちに、みるみるつめたく)

おかげで私の指さきもそれから脚も、もう三秒とたたぬうちに、みるみる冷く

(なるでございましょう。ほんとうはいかっていないの。だってあなたは)

なるでございましょう。ほんとうは怒っていないの。だってあなたは

(わるくないし、いいえ、りくつはないんだ。ふっとすきなの。あああ。)

わるくないし、いいえ、理屈はないんだ。ふっと好きなの。あああ。

(あなた、しあわせはそとから?さようなら、ぼっちゃん。もっとあくにんにおなり。)

あなた、仕合せは外から?さようなら、坊ちゃん。もっと悪人におなり。

(おとこはかきかけのげんこうようしにめをおとしてしばらくかんがえてから、だいをさるめんかんじゃとした)

男は書きかけの原稿用紙に眼を落してしばらく考えてから、題を猿面冠者とした

(それはどうにもならないほどしっくりにあったぼひょうである、とおもったからであった)

それはどうにもならない程しっくり似合った墓標である、と思ったからであった

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