晩年 ㊿
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問題文
(ぎゃっこう ちょうちょう)
逆 行 蝶 蝶
(ろうじんではなかった。にじゅうごさいをこしただけであった。けれどもやはり)
老人ではなかった。ニ十五歳を越しただけであった。けれどもやはり
(ろうじんであった。ふつうのひとのいちねんいちねんを、このろうじんはたっぷりさんばいさんばいにして)
老人であった。ふつうの人の一年一年を、この老人はたっぷり三倍三倍にして
(くらしたのである。にど、じさつをしそこなった。そのうちのいちどはじょうしであった。)
暮らしたのである。二度、自殺をし損なった。そのうちの一度は情死であった。
(さんど、りゅうちじょうにぶちこまれた。しそうのざいにんとしてであった。ついにいっぺんも)
三度、留置場にぶちこまれた。思想の罪人としてであった。ついに一篇も
(うれなかったけれど、ひゃくへんにあまるしょうせつをかいた。しかし、それはいずれも)
売れなかったけれど、百篇にあまる小説を書いた。しかし、それはいずれも
(このろうじんのほんきでしたしわざではなかった。いわばみちくさであった。いまだにこの)
この老人の本気でした仕業ではなかった。謂わば道草であった。いまだにこの
(ろうじんのひしがれたむねをとくとくうちならし、そのこけたほおをあからめさせるのは)
老人のひしがれた胸をとくとく打ち鳴らし、そのこけた頬をあからめさせるのは
(よいどれることと、ちがったおんなをながめながらあくなきくうそうをめぐらすことと、)
酔いどれることと、ちがった女を眺めながらあくなき空想をめぐらすことと、
(ふたつであった。いや、そのふたつのおもいでである。ひしがれたむね、こけたほお、)
二つであった。いや、その二つの思い出である。ひしがれた胸、こけた頬、
(それはうそでなかった。ろうじんは、このひにしんだのである。ろうじんのながいしょうがいに)
それは嘘でなかった。老人は、この日に死んだのである。老人の永い生涯に
(おいて、うそでなかったのは、うまれたことと、しんだことと、ふたつであった。)
於いて、嘘でなかったのは、生まれたことと、死んだことと、二つであった。
(しぬるまぎわまでうそをはいていた。ろうじんはいま、びょうしょうにある。あそびからうけた)
死ぬる間際まで嘘を吐いていた。老人は今、病床にある。遊びから受けた
(びょうきであった。ろうじんにはくらしにこまらぬほどのざいさんがあった。けれどもそれは、)
病気であった。老人には暮しに困らぬほどの財産があった。けれどもそれは、
(あそびあるくのにはたりないざいさんであった。ろうじんは、いましぬることをざんねんである)
遊びあるくのには足りない財産であった。老人は、いま死ぬることを残念である
(とはおもわなかった。ほそぼそとしたくらしは、ろうじんにはりかいできないのである。)
とは思わなかった。ほそぼそとした暮しは、老人には理解できないのである。
(ふつうのにんげんはりんじゅうちかくなると、おのれのりょうのてのひらをまじまじとながめたり)
ふつうの人間は臨終ちかくなると、おのれの両のてのひらをまじまじと眺めたり
(きんしんのひとみをぼんやりみあげているものであるが、このろうじんは、たいていめを)
近親の瞳をぼんやり見あげているものであるが、この老人は、たいてい眼を
(つぶっていた。ぎゅっとかたくつぶってみたり、ゆるくあけてまぶたをぷるぷる)
つぶっていた。ぎゅっと固くつぶってみたり、ゆるくあけて瞼をぷるぷる
(よがせてみたり、おとなしくそんなことをしているだけなのである。)
よがせてみたり、おとなしくそんなことをしているだけなのである。
(ちょうちょうがみえるというのであった。あおいちょうや、くろいちょうや、しろいちょうや、きいろいちょうや、)
蝶蝶が見えるというのであった。青い蝶や、黒い蝶や、白い蝶や、黄色い蝶や、
(むらさきのちょうや、みずいろのちょうや、すうせんすうまんのちょうちょうがすぐひたいのうえをいっぱいに)
むらさきの蝶や、水色の蝶や、数千数万の蝶蝶がすぐ額のうえをいっぱいに
(むれとんでいるというのであった。わざとそういうのであった。じゅうりとおくは)
むれ飛んでいるというのであった。わざとそういうのであった。十里とおくは
(ちょうのかすみ。ひゃくまんのはばたきのおとは、まひるのあぶのうなりににていた。これはがっせんを)
蝶の霞。百万の羽ばたきの音は、真昼のあぶの唸りに似ていた。これは合戦を
(しているのであろう。つばさのふんまつが、おれたあしが、めたまが、しょっかくが、ながいしたが、)
しているのであろう。翼の粉末が、折れた脚が、眼玉が、触覚が、長い舌が、
(ふるようにおちる。たべたいものは、なんでも、といわれて、あずきかゆ、と)
降るように落ちる。食べたいものは、なんでも、と言われて、あずきかゆ、と
(こたえた。ろうじんがじゅうはっさいではじめてしょうせつというものをかいたとき、りんじゅうのろうじんが、)
答えた。老人が十八歳で始めて小説というものを書いたとき、臨終の老人が、
(あずきかゆ、をたべたいとつぶやくところのびょうしゃをなしたことがある。)
あずきかゆ、を食べたいと呟くところの描写をなしたことがある。
(あずきかゆはつくられた。それは、おかゆにゆであずきをちらして、しおでふうみをつけた)
あずきかゆは作られた。それは、お粥にゆで小豆を散らして、塩で風味をつけた
(ものであった。ろうじんのごちそうであった。めをつぶってあおむけのまま、)
ものであった。老人のごちそうであった。眼をつぶって仰向けのまま、
(ふたさじすすると、もういい、といった。ほかになにか、ととわれ、うすわらいして、)
二匙すすると、もういい、と言った。ほかになにか、と問われ、うす笑いして、
(あそびたい、とこたえた。ろうじんのひとのよいむがくではあるがりこうな、わかくうつくしいつまは)
遊びたい、と答えた。老人のひとのよい無学ではあるが利巧な、若く美しい妻は
(いならぶきんしんたちのてまえ、しっとでなく、ほおをあからめ、それからさじをにぎったまま)
居並ぶ近親たちの手前、嫉妬でなく、頬をあからめ、それから匙を握ったまま
(こえしのばせてないたという。)
声しのばせて泣いたという。
(とうぞく)
盗 賊
(ことしらくだいときまった。それでもしけんはうけるのである。かいないどりょくのうつくしさ)
ことし落第ときまった。それでも試験は受けるのである。甲斐ない努力の美しさ
(われはそのびにこころをひかれた。けさこそわれははやくおき、まったくいちねんぶりで)
われはその美に心をひかれた。今朝こそわれは早く起き、まったく一年ぶりで
(がくせいふくにうでをとおし、きっかのごもんしょうかがやくたかいおおきいてつのもんをくぐった。)
学生服に腕をとおし、菊花の御紋章かがやく高い大きい鉄の門をくぐった。
(おそるおそるくぐったのである。すぐにいちょうのなみきがある。みぎがわにじゅっぽん、)
おそるおそるくぐったのである。すぐに銀杏の並木がある。右側に十本、
(ひだりがわにもじゅっぽん、いずれもきょぼくである。はのしげるころ、このみちはうすぐらく、)
左側にも十本、いずれも巨木である。葉の繁るころ、この路はうすぐらく、
(ちかどうのようである。いまはいちまいのはもない。なみきじのつきるところ、しょうめんに)
地下道のようである。いまは一枚の葉もない。並木路のつきるところ、正面に
(あかいけしょうれんがのだいけんちくぶつ。これはこうどうである。われはこのないぶをにゅうがくしきのとき、)
赤い化粧煉瓦の大建築物。これは講堂である。われはこの内部を入学式のとき、
(ただいちどみた。じいんのごときいんしょうをうけた。いまわれは、このこうどうのとうの)
ただいちど見た。寺院の如き印象を受けた。いまわれは、この行動の塔の
(でんきどけいをふりあおぐ。しけんには、まだじゅうごふんのまがあった。たんていしょうせつかのちちおやの)
電気時計を振り仰ぐ。試験には、まだ十五分の間があった。探偵小説化の父親の
(どうぞうに、いつくしみのひとみをそそぎつつ、みぎてのだらだらざかをくだり、ていえんに)
銅像に、いつくしみの瞳をそそぎつつ、右手のだらだら坂を下り、庭園に
(でたのである。これは、むかし、さるおだいみょうのおにわであった。いけにはこいとひごいと)
出たのである。これは、むかし、さるお大名のお庭であった。池には鯉と緋鯉と
(すっぽんがいる。ごろくねんまえまでには、ひとつがいのつるがあそんでいた。いまでも)
すっぽんがいる。五六年まえまでには、ひとつがいの鶴が遊んでいた。いまでも
(このくさむらにはへびがいる。がんやのがものわたりどりも、このいけでそのはねをやすめる。)
この草むらには蛇がいる。鴈や野鴨の渡り鳥も、この池でその羽を休める。
(ていえんは、ほんとうはにひゃくつぼにもたりないひろさなのであるが、みたところ)
庭園は、ほんとうは二百坪にも足りないひろさなのであるが、見たところ
(せんつぼほどのひろさなのだ。すぐれたぞうえんじゅつのしかけである。われはちはんのくまざさの)
千坪ほどのひろさなのだ。すぐれた造園術のしかけである。われは池畔の熊笹の
(うえにこしをおろし、せをかしのこぼくのねかぶにもたせ、りょうあしをながながとぜんぽうに)
うえに腰をおろし、背を樫の古木の根株にもたせ、両脚をながながと前方に
(なげだした。こみちをへだててだいしょうでこぼこのいわがならび、そのかげからひろびろと)
なげだした。小径をへだてて大小凸凹の岩がならび、そのかげからひろびろと
(いけがひろがっている。どんてんのしたのいけのめんはしろくひかり、さざなみのしわをくすぐったげに)
池がひろがっている。曇天の下の池の面は白く光り、小波の皺をくすぐったげに
(たたんでいた。みぎあしをひだりあしのうえにかるくのせてから、われはつぶやく。われはとうぞく。)
畳んでいた。右足を左足のうえに軽くのせてから、われは呟く。われは盗賊。
(まえのこみちをだいがくせいたちがいちれつにならんでとおる。ひきもきらず、ぞろぞろと)
まえの小径を大学生たちが一列に並んで通る。ひきもきらず、ぞろぞろと
(ながれるようにとおるのである。いずれは、ふるさとのじまんのこ。えらばれた)
流れるように通るのである。いずれは、ふるさとの自慢の子。えらばれた
(しゅうさいたち。のおとのおなじぶんしょうをよみ、それをみんなみんなのだいがくせいが、)
秀才たち。ノオトのおなじ文章を読み、それをみんなみんなの大学生が、
(いちりつにあんきしようとつとめていた。われは、ぽけっとからたばこをとりだし、)
一律に暗記しようと努めていた。われは、ポケットから煙草を取りだし、
(いっぽん、くちにくわえた。まっちがないのである。ひをかりしてくれ。)
一本、口にくわえた。マッチがないのである。火を借して呉れ。
(ひとりのびなんのだいがくせいをえらんでこえをかけてやった。うすみどりしょくのがいとうに)
ひとりの美男の大学生をえらんで声をかけてやった。うすみどり色の外套に
(くるまった、そのだいがくせいはたちどまり、のおとからめをはなさず、くわえていた)
くるまった、その大学生は立ちどまり、ノオトから眼をはなさず、くわえていた
(きんぐちのたばこをわれにあたえた。あたえてそのままのろのろとあゆみさった。だいがくにも)
金口の煙草をわれに与えた。与えてそのままのろのろと歩み去った。大学にも
(われにひってきするおとこがある。われはそのきんぐちのがいこくたばこからおのがやすきたばこにひを)
われに匹敵する男がある。われはその金口の外国煙草からおのが安煙草に火を
(うつして、おもむろにたちあがり、きんぐちのたばこをちからこめてじべたへなげすて)
うつして、おもむろに立ちあがり、金口の煙草を力こめて地べたへ投げ捨て
(くつのうらでにくしみにくしみふみにじった。それから、ゆったりしけんじょうへ)
靴の裏でにくしみにくしみ踏みにじった。それから、ゆったり試験場へ
(あらわれたのである。しけんじょうでは、ひゃくにんにあまるだいがくせいたちが、すべてうしろへ)
現れたのである。試験場では、百人にあまる大学生たちが、すべてうしろへ
(うしろへとしりごみしていた。ぜんぽうのせきにすわるならば、おもうがままにとうあんを)
うしろへと尻込みしていた。前方の席に坐るならば、思うがままに答案を
(かけまいとけねんしているのだ。われはしゅうさいらしくさいぜんれつのせきにこしをおろし、)
書けまいと懸念しているのだ。われは秀才らしく最前列の席に腰をおろし、
(すこしゆびさきをふるわせつつたばこをふかした。われはつくえのしたでしらべるのおとも)
少し指先をふるわせつつ煙草をふかした。われは机のしたで調べるノオトも
(なければ、たがいにこごえでそうだんしあうひとりのゆうじんもないのである。)
なければ、互いに小声で相談し合うひとりの友人もないのである。