晩年 51

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太宰 治

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問題文

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(やがて、あからがおのきょうじゅが、ふくらんだかばんをぶらさげてあたふたとしけんじょうへ)

やがて、あから顔の教授が、ふくらんだ鞄をぶらさげてあたふたと試験場へ

(かけこんできた。このおとこは、にほんいちのふらんすぶんがくしゃである。われは、きょう)

駆け込んできた。この男は、日本一のフランス文学者である。われは、きょう

(はじめて、このおとこをみた。なかなかのがらであって、われはかれのみけんのしわに)

はじめて、この男を見た。なかなかの柄であって、われは彼の眉間の皺に

(ふかくながらいあつをかんじた。このおとこのでしには、にほんいちのしじんとにほんいちのひょうろんかが)

不覚ながら威圧を感じた。この男の弟子には、日本一の詩人と日本一の評論家が

(いるそうな。にほんいちのしょうせつか、われはそれをおもい、ひそかにほおをほてらせた。)

いるそうな。日本一の小説家、われはそれを思い、ひそかに頬をほてらせた。

(きょうじゅがぼおるどにもんだいをかきなぐっているあいだに、われのはいごのだいがくせいたちは、)

教授がボオルドに問題を書きなぐっている間に、われの背後の大学生たちは、

(がくもんのはなしでなく、たいていまんしゅうのけいきのはなしをささやきあっているのである。)

学問の話でなく、たいてい満州の景気の話を囁き合っているのである。

(ぼおるどには、ふらんすごがごろくぎょう。きょうじゅはきょうだんのひじかけいすにだらしなくすわり、)

ボオルドには、フランス語が五六行。教授は教壇の肘掛椅子にだらしなく坐り、

(さもさもふきげんそうにいいはなった。こんなもんだいじゃらくだいしたくてもできめえ。)

さもさも不機嫌そうに言い放った。こんな問題じゃ落第したくてもできめえ。

(だいがくせいたちは、ひくくちからなくわらった。われもわらった。きょうじゅはそれからわけの)

大学生たちは、ひくく力なく笑った。われも笑った。教授はそれから訳の

(わからぬふらんすごをふたことみことつぶやき、きょうだんのつくえのうえでなにやらかきものを)

わからぬフランス語を二言三言つぶやき、教壇の机のうえでなにやら書きものを

(はじめたのである。われはふらんすごをしらぬ。どのようなもんだいがでても、)

始めたのである。われはフランス語を知らぬ。どのような問題が出ても、

(ふろおべえるはおぼっちゃんである、とかくつもりでいた。われはそばらくしさくに)

フロオベエルはお坊ちゃんである、と書くつもりでいた。われはそばらく思索に

(ふけったふりをしてめをかるくつぶったりみじかいとうはつのふけをはらいおとしたり、)

ふけったふりをして眼を軽くつぶったり短い頭髪のふけを払い落としたり、

(つめのいろあいをながめたりするのである。やがて、ぺんをとりあげてかきはじめた。)

爪の色あいを眺めたりするのである。やがて、ペンを取りあげて書きはじめた。

(ふろおべえるはおぼっちゃんである。でしのもおぱすさんはおとなである。)

フロオベエルはお坊ちゃんである。弟子のモオパスサンは大人である。

(げいじゅつのびはしょせん、しみんへのほうしのびである。このかなしいあきらめを、)

芸術の美は所詮、市民への奉仕の美である。このかなしいあきらめを、

(ふろおべえるはしらなかったしもおぱすさんはしっていた。ふろおべえるは)

フロオベエルは知らなかったしモオパスサンは知っていた。フロオベエルは

(おのれのしょじょさく、ひじりあんとわんぬのゆうわくにたいするふひょうばんのくつじょくをそそごうとして)

おのれの処女作、聖アントワンヌの誘惑に対する不評判の屈辱をそそごうとして

(いっしょうをぼうにふった。いわゆるこたくのくろうをして、いっさく、いっさくをかきおえるごとに、)

一生を棒にふった。所謂刳磔の苦労をして、一作、一作を書き終えるごとに、

など

(せひょうはともあれ、かれのくつじょくのきずはいよいよげきれつにうずき、いたみ、かれのこころの)

世評はともあれ、彼の屈辱の傷はいよいよ激烈にうずき、痛み、彼の心の

(みたされぬくうどうが、いよいよひろがり、ふかまり、そうしてしんだのである。)

満たされぬ空洞が、いよいよひろがり、深まり、そうして死んだのである。

(けっさくのげんえいにだまくらかされ、えいえんのびにみせられ、うかされ、とうとう)

傑作の幻影にだまくらかされ、永遠の美に見せられ、浮かされ、とうとう

(ひとりのきんしんはおろか、じぶんじしんをさえすくうことができなんだ。)

ひとりの近親はおろか、自分自身をさえ救うことができなんだ。

(ぼおどれえるこそは、おぼっちゃん。いじょう。せんせい、きゅうだいさせて、などとはかかない)

ボオドレエルこそは、お坊ちゃん。以上。先生、及第させて、などとは書かない

(のである。にどくりかえしてよみ、かきあやまりをみださず、それから、ひだりてに)

のである。二度くりかえして読み、書き誤りを見出さず、それから、左手に

(がいとうとぼうしをもちみぎてにそのいちまいのとうあんをもって、たちあがった。)

外套と帽子を持ち右手にそのいちまいの答案を持って、立ちあがった。

(われのうしろのしゅうさいは、われのたったために、あわてふためいていた。)

われのうしろの秀才は、われの立ったために、あわてふためいていた。

(われのせこそは、このおとこのぼうふうりんになっていたのだ。ああ。そのうさぎににた)

われの背こそは、この男の防風林になっていたのだ。ああ。その兎に似た

(あいらしいしゅうさいのとうあんには、しんしんさっかのなまえがしるされていたのである。)

愛らしい秀才の答案には、新進作家の名前が記されていたのである。

(われはこのゆうめいなしんしんさっかのろうばいをふびんにおもいつつ、かのじじむさげなきょうじゅに)

われはこの有名な新進作家の狼狽を不憫に思いつつ、かのじじむさげな教授に

(いみありげにいちれいして、おのがこたえあんをていしゅつした。われはしずしずとしけんじょうを、)

意味ありげに一礼して、おのが答案を提出した。われはしずしずと試験場を、

(でるがはやいかころげおちるようにかいだんをかけおりた。こがいへでて、わかいとうぞくは)

出るが早いかころげ落ちるように階段を駆け降りた。戸外へ出て、わかい盗賊は

(うらがなしきおもいをした。このゆうしゅうはなにものだ。どこからやってきやがった。)

うら悲しき思いをした。この憂愁は何者だ。どこからやって来やがった。

(それでも、がいとうのかたをはりぐんぐんとおおまたつかっていちょうのなみきにはさまれた)

それでも、外套の肩を張りぐんぐんと大股つかって銀杏の並木にはさまれた

(ひろいじゃりみちをあるきながら、くうふくのためだ、とこたえたのである。)

ひろい砂利道を歩きながら、空腹のためだ、と答えたのである。

(にじゅうきゅうばんのちかに、だいしょくどうがある。われは、そこへとほをすすめた。)

二十九番の地下に、大食堂がある。われは、そこへと歩をすすめた。

(くうふくのだいがくせいたちは、ちかしつのだいしょくどうからあふれ、いりぐちよりしてちょうだのごときれつを)

空腹の大学生たちは、地下室の大食堂からあふれ、入口よりして長蛇の如き列を

(つくり、ちじょうにはみでて、れつのおのぶぶんは、いちょうのなみきのあたりにまで)

つくり、地上にはみ出て、列の尾の部分は、銀杏の並木のあたりにまで

(たっしていた。ここでは、じゅうごせんでかなりのちゅうしょくがえられるのである。)

達していた。ここでは、十五銭でかなりの昼食が得られるのである。

(いっちょうほどのながさであった。われはとうぞく。きたいのすねもの。かつてげいじゅつかはひとを)

一丁ほどの長さであった。われは盗賊。希代のすね者。かつて芸術家は人を

(ころさぬ。かつてげいじゅつかはものをぬすまぬ。おのれ。ちゃちなこりこうのなかま。)

殺さぬ。かつて芸術家はものを盗まぬ。おのれ。ちゃちな小利巧の仲間。

(だいがくせいたちをどんどんおしのけ、ようようしょくどうのいりぐちにたどりつく。いりぐちには)

大学生たちをどんどん押しのけ、ようよう食堂の入口にたどりつく。入口には

(ちいさいはりがみがあって、それにはこうかきしたためられていた。)

小さい貼紙があって、それにはこう書きしたためられていた。

(きょう、みなさまのしょくどうも、はばかりながらそうぎょうまんさんかねんのひをむかえました。)

きょう、みなさまの食堂も、はばかりながら創業満三箇年の日をむかえました。

(それをしゅくふくするないいもあり、わずかではございますが、ほうしさせていただきたく)

それを祝福する内意もあり、わずかではございますが、奉仕させていただきたく

(ぞんじます。そのほうしのしなじなが、いりぐちのすみのがらすだなのなかにかざられている。)

存じます。その奉仕の品品が、入口の隅の硝子棚のなかに飾られている。

(あかいくるまえびはぱせりのはのかげにいこい、ゆでたまごをはんぶんにきっただんめんには、)

赤い車海老はパセリの葉の蔭に憩い、ゆで卵を半分に切った断面には、

(あおいかんてんの「ひさし」というもじが、はいからにくずされてえがかれていた。)

青い寒天の「壽」という文字が、ハイカラにくずされて画かれていた。

(こころみに、しょくどうのなかをのぞくと、ほうしのしなじなのきょうおうにあずかっているだいがくせいたちの)

試みに、食堂のなかを覗くと、奉仕の品品の饗応にあずかっている大学生たちの

(くろいみつりんのなかをしろいえぷろんかけたきゅうじのしょうじょたちが、くぐりぬけ)

黒い密林のなかを白いエプロンかけた給仕の少女たちが、くぐりぬけ

(すりぬけしてひらひらまいとんでいるのである。ああ、てんじょうにはばんこくき。)

すりぬけしてひらひら舞い飛んでいるのである。ああ、天井には万国旗。

(だいがくのちかににおうあおいはな、こそばゆいどくけしだ。よきひにきあわせたものかな。)

大学の地下に匂う青い花、こそばゆい毒消しだ。よき日に来合わせたもの哉。

(ともにいわわむ。ともにいわわむ。とうぞくはらくようのごとくはらはらとたいきゃくし、ちじょうに)

ともに祝わむ。ともに祝わむ。盗賊は落葉の如くはらはらと退却し、地上に

(まいあがり、ちょうだのしっぽにからだをいれ、みるみるすがたをかきけした。)

舞いあがり、長蛇のしっぽにからだをいれ、みるみるすがたをかき消した。

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