晩年 53

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太宰 治

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問題文

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(わたしはすでにろっぽんのとっくりをからにしたことを、ちくちくくいはじめたのである。)

私はすでに六本の徳利をからにしたことを、ちくちく悔いはじめたのである。

(もっともっとよいたかった。こよいのかんきをさらさらにこちょうして)

もっともっと酔いたかった。こよいの歓喜をさらさらに誇張して

(みたかったのである。あとよんほんしかのめぬ。それではたりない。たりないのだ。)

みたかったのである。あと四本しか呑めぬ。それでは足りない。足りないのだ。

(ぬすもう。このういすきいをぬすもう。じょきゅうたちは、わたしがきんせんのためにぬすむのでは)

盗もう。このウイスキイを盗もう。女給たちは、私が金銭のために盗むのでは

(なく、よげんしゃらしいとっぴなじょうだんとみてとって、かえってかっさいをおくるだろう。)

なく、予言者らしい突飛な冗談と見てとって、かえって喝采を送るだろう。

(このひゃくしょうもまた、よいどれのわるふざけとしてくしょうをもらすくらいのところで)

この百姓もまた、酔いどれの悪ふざけとして苦笑をもらすくらいのところで

(あろう。ぬすめ!わたしはてをのばし、となりのてえぶるのそのういすきいのこっぷを)

あろう。盗め!私は手をのばし、隣のテエブルのそのウイスキイのコップを

(とりあげ、おちついてのみほした。かっさいはおこらなかった。しずかになった。)

とりあげ、おちついて呑みほした。喝采は起らなかった。しずかになった。

(ひゃくしょうはわたしのほうをむいてたちあがった。そとへでろ。そういって、いりぐちのほうへ)

百姓は私のほうをむいて立ちあがった。外へ出ろ。そういって、入口のほうへ

(あるきはじめたわたしも、にやにやわらいながらひゃくしょうのあとについてあるいた。)

歩きはじめた・私も、にやにや笑いながら百姓のあとについて歩いた。

(きんいろのがくぶちにおさめられてあるかがみをとおりすがりにちらとのぞいた。)

金色の額縁におさめられてある鏡を通りすがりにちらと覗いた。

(わたしは、ゆったりしたびじょうふであった。かがみのおくそこには、いっしゃくににしゃくのわらいがおが)

私は、ゆったりした美丈夫であった。鏡の奥底には、一尺に二尺の笑い顔が

(しずんでいた。わたしはこころのへいせいをとりもどした。じしんありげに、もすりんの)

沈んでいた。私は心の平静をとりもどした。自信ありげに、モスリンの

(かあてんをぱっとはじいた。thehimawariときいろいろおまじが)

カアテンをぱっとはじいた。THE HIMAWARIと黄色いロオマ字が

(かかれてあるしかくのけんとうのしたで、わたしたちはたちどまった。じょきゅうよにんは、うすぐらい)

書かれてある四角の軒燈の下で、私たちは立ちどまった。女給四人は、薄暗い

(かどぐちにしろいかおをよっつうかせていた。わたしたちはつぎのようなそうろんをはじめたのである)

門口に白い顔を四つ浮かせていた。私たちは次のような争論をはじめたのである

(あまりばかにするなよ。 ばかにしたのじゃない。あまえたのさ。いいじゃないか)

あまり馬鹿にするなよ。 馬鹿にしたのじゃない。甘えたのさ。いいじゃないか

(おれはひゃくしょうだ。あまえられて、はらがたつ。)

おれは百姓だ。甘えられて、腹がたつ。

(わたしはひゃくしょうのかおをみなおした。みじかいかくがりにしたちいさいあたまと、うすいまゆと、ひとえまぶたの)

私は百姓の顔を見直した。短い角刈りにした小さい頭と、うすい眉と、一重瞼の

(さんぱくがんと、あおくろいひふであった。みたけはわたしよりたしかにごすんひくかった。)

三白眼と、蒼黒い皮膚であった。身丈は私より確かに五寸ひくかった。

など

(わたしは、あくまでちゃかしてしまおうとおもった。)

私は、あくまで茶化してしまおうと思った。

(ういすきいがのみたかったのさ。おいしそうだったからな。)

ウイスキイが呑みたかったのさ。おいしそうだったからな。

(おれだってのみたかった。ういすきいがおしいのだ。それだけだ。)

おれだって呑みたかった。ウイスキイが惜しいのだ。それだけだ。

(きみはしょうじきだ。かわいい。 なまいきいうな。たかががくせいじゃないか。)

君は正直だ。可愛い。 生意気いうな。たかが学生じゃないか。

(つらにおしろいをぬたくりやがって。)

つらにおしろいをぬたくりやがって。

(ところがぼくは、えきしゃだということになっている。よげんしゃだよ。おどろいたろう。)

ところが僕は、易者だということになっている。予言者だよ。驚いたろう。

(よったふりなんかするな。てをついてあやまれ。)

酔ったふりなんかするな。手をついてあやまれ。

(ぼくをりかいするにはなによりもゆうきがいる。いいことばじゃないか。)

僕を理解するには何よりも勇気が要る。いい言葉じゃないか。

(ぼくはふりいどりっひにいちぇだ。)

僕はフリイドリッヒ・ニイチェだ。

(わたしはじょきゅうたちのとめてくれるのを、いまかいまかとまっていた。じょきゅうたちは)

私は女給たちのとめて呉れるのを、いまかいまかと待っていた。女給たちは

(しかし、そろってつめたいかおしてわたしのなぐられるのをまっていた。そのうちにわたしは)

しかし、そろって冷たい顔して私の殴られるのを待っていた。そのうちに私は

(なぐられた。みぎのこぶしがよこからぐんととんできたので、わたしはくびすじをすばやく)

殴られた。右のこぶしが横からぐんと飛んで来たので、私は首筋を素早く

(くすめた。じっけんほどふっとんだ。わたしのはくせんのぼうしがみがわりになって)

くすめた。十間ほどふっとんだ。私の白線の帽子が身がわりになって

(くれたのである。わたしはほほえみつつ、わざとゆっくりそのぼうしをひろいに)

呉れたのである。私は微笑みつつ、わざとゆっくりその帽子を拾いに

(あるきはじめた。まいにちまいにちのみぞれのために、みちはとろとろとけていた。)

歩きはじめた。毎日毎日のみぞれのために、道はとろとろ溶けていた。

(しゃがんで、どろにまみれたぼうしをひろったとたん、わたしはにげようとかんがえた。)

しゃがんで、泥にまみれた帽子を拾ったとたん、私は逃げようと考えた。

(ごえんたすかる。べつのところで、もいちどのむのだ。わたしはにあしさんあしはしった。)

五円たすかる。別のところで、もいちど呑むのだ。私はニあし三あし走った。

(すべった。あおむきにひっくりかえった。ふみつぶされたあまがえるのすがたににていたようで)

滑った。仰向きにひっくりかえった。踏みつぶされた雨蛙の姿に似ていたようで

(あった。じしんのぶざまさが、わたしをすこしりっぷくさせたのである。てぶくろもうわぎも)

あった。自身のぶざまさが、私を少し立腹させたのである。手袋も上衣も

(ずぽんもそれからまんとも、どろまみれになっている。わたしはのろのろとおきあがり)

ズポンもそれからマントも、泥まみれになっている。私はのろのろと起きあがり

(あたまをあげてひゃくしょうのもとへひきかえした。ひゃくしょうは、じょきゅうたちにとりかこまれ、)

頭をあげて百姓のもとへ引返した。百姓は、女給たちに取りかこまれ、

(まもられていた。だれひとりみかたがない。そのかくしんがわたしのきょうぼうさを)

まもられていた。誰ひとり見方がない。その確信が私の兇暴さを

(よびさましたのである。おれいをしたいのだ。せせらわらってそういってから、)

呼びさましたのである。お礼をしたいのだ。せせら笑ってそう言ってから、

(わたしはてぶくろをぬぎすて、もっとこうかなまんとをさえどろのなかへかなぐりすてた。)

私は手袋を脱ぎ捨て、もっと高価なマントをさえ泥のなかへかなぐり捨てた。

(わたしはじしんのおおじだいなせりふとみぶりにややまんぞくしていた。だれかとめてくれ。)

私は自身の大時代なせりふとみぶりにやや満足していた。誰かとめて呉れ。

(ひゃくしょうは、もそもそといぬのけがわのどうぎをぬぎ、それをわたしにたばこをめぐんでくれた)

百姓は、もそもそと犬の毛皮の胴着を脱ぎ、それを私に煙草をめぐんで呉れた

(びじんのじょきゅうにてわたして、それからふところのなかへかたてをいれた。きたないまねをするな。)

美人の女給に手渡して、それから懐のなかへ片手をいれた。汚い真似をするな。

(わたしはみがまえて、そうちゅういしてやった。ふところからいっぽんのぎんてきがでた。ぎんてきはけんとうの)

私は身構えて、そう注意してやった。懐から一本の銀笛が出た。銀笛は軒燈の

(あかりにきらきらはんしゃした。ぎんてきはふたりのていしゅをうしなったちゅうねんのじょきゅうにてわたされた。)

灯にきらきら反射した。銀笛はふたりの亭主を失った中年の女給に手渡された。

(ひゃくしょうのこのよさが、わたしをむちゅうにさせたのだ。それはしょうせつのうえでなく、しんじつ、)

百姓のこのよさが、私を夢中にさせたのだ。それは小説のうえでなく、真実、

(わたしはこのひゃくしょうをころそうとおもった。でろ。そうさけんで、わたしはひゃくしょうのむこうずねを)

私はこの百姓を殺そうと思った。出ろ。そう叫んで、私は百姓の向う臑を

(ちからいっぱいにけりあげた。けたおして、それからすんださんぱくがんをくりぬく。)

力いっぱいに蹴りあげた。蹴たおして、それから澄んだ三白眼をくり抜く。

(どろぐつはむなしくそらをけったのである。わたしはじしんのぶかっこうにきづいた。)

泥靴はむなしく空を蹴ったのである。私は自身の不格好に気づいた。

(かなしくおもった。ほのあたたかいこぶしが、わたしのひだりのめからおおきいはなにかけて)

悲しく思った。ほのあたたかいこぶしが、私の左の眼から大きい鼻にかけて

(めいちゅうした。めからまっかなほのおがふきでた。わたしはそれをみた。わたしはよろめいた)

命中した。眼からまっかな焔が噴き出た。私はそれを見た。私はよろめいた

(ふりをした。みぎのみみたぶからほおにかけてぴしゃっとひらてがめいちゅうした。)

ふりをした。右の耳朶から頬にかけてぴしゃっと平手が命中した。

(わたしはどろのなかにりょうてをついた。とっさのうちにひゃくしょうのかたあしをがぶとかんだ。)

私は泥のなかに両手をついた。とっさのうちに百姓の片脚をがぶと嚙んだ。

(あしはかたかった。ろぼうのはこやなぎのくいであった。わたしはどろにうつぶして、いまこそ)

脚は固かった。路傍の白楊の杙であった。私は泥にうつぶして、いまこそ

(おいおいこえをたててなこうなこうとあせったけれど、)

おいおい声をたてて泣こう泣こうとあせったけれど、

(あわれ。いってきのなみだもでなかった。)

あわれ。一滴の涙も出なかった。

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