晩年 55

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プレイ回数694難易度(4.2) 5586打 長文 かな
太宰 治

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問題文

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(かれはむかしのかれならず)

彼は昔の彼ならず

(きみにこのせいかつをおしえよう。しりたいとならば、ぼくのいえのものほしばまで)

君にこの生活を教えよう。知りたいとならば、僕の家のものほし場まで

(くるとよい。そこでこっそりおしえてあげよう。ぼくのいえのものほしばは、)

来るとよい。其処でこっそり教えてあげよう。僕の家のものほし場は、

(よくちょうぼうがきくとおもわないか。こうがいのくうきは、ふかくて、しかもかるいだろう?)

よく眺望がきくと思わないか。郊外の空気は、深くて、しかも軽いだろう?

(じんかもまばらである。きをつけたまえ。きみのあしもとのいたは、くさりかけているようだ)

人家もまばらである。気をつけ給え。君の足もとの板は、腐りかけているようだ

(もっとこっちへくるとよい。はるのかぜだ。こんなぐあいに、みみたぶをちょろちょろ)

もっとこっちへ来るとよい。春の風だ。こんな工合いに、耳朶をちょろちょろ

(とくすぐりながらとおるのは、なんぷうのとくちょうである。みわたしたところ、こうがいのいえの)

とくすぐりながら通るのは、南風の特徴である。見渡したところ、郊外の家の

(やねやねは、ふぞろいだとおもわないか。きみはきっと、ぎんざかしんじゅくのでぱあとのおくじょう)

屋根屋根は、不揃いだと思わないか。君はきっと、銀座か新宿のデパアトの屋上

(ていえんのもくさくによりかかり、ほおづえついて、ちまたのひゃくまんのやねやねをぼんやり)

庭園の木柵によりかかり、頬杖ついて、巷の百万の屋根屋根をぼんやり

(みおろしたことがあるにちがいない。ちまたのひゃくまんのやねやねは、みなみな、おなじ)

見おろしたことがあるにちがいない。巷の百万の屋根屋根は、皆々、同じ

(おおきさでおなじかたちでおなじいろあいで、ひしめきあいながらかぶさりかさなり、)

大きさで同じ形で同じ色あいで、ひしめき合いながらかぶさりかさなり、

(はてはばいきんとしゃじんとでうすあかくにごらされたちまたのかすみのなかにそのはしを)

はては黴菌と車塵とでうす赤くにごらされた巷の霞のなかにその端を

(ちんぼつさせている。きみはそのやねやねのしたのひゃくまんのいちりつなせいかつをおもい、)

沈没させている。君はその屋根屋根のしたの百万の一律な生活を思い、

(めをつぶってふかいためいきをはいたにちがいないのだ。みられるとおり、こうがいの)

眼をつぶってふかい溜息を吐いたにちがいないのだ。見られるとおり、郊外の

(やねやねは、それとちがう。ひとつひとつが、そのそんざいのりゆうを、ゆったりとしゅちょうして)

屋根屋根は、それと違う。一つ一つが、その存在の理由を、ゆったりと主張して

(いるようではないか。あのほそながいえんとつは、もものゆというせんとうやのものであるが、)

いるようではないか。あの細長い煙突は、桃の湯という銭湯屋のものであるが、

(あおいけむりをかぜのながれるままにおとなしくきたかたへなびかせている。あのえんとつの)

青い煙を風のながれるままにおとなしく北方へなびかせている。あの煙突の

(ましたのあかいせいようがわらは、なんとかいうゆうめいなしょうぐんのものであって、あのへんから)

真下の紅い西洋甍は、なんとかいう有名な将軍のものであって、あのへんから

(まいよ、ようきょくのしらべがきこえるのだ。あかいかわらからしいのなみきがうねうねとみなみへ)

毎夜、謡曲のしらべが聞えるのだ。赤い甍から椎の並木がうねうねと南へ

(のびている。なみきのつきたところにしらかべがにぶくひかっている。しちやのどぞうである。)

伸びている。並木のつきたところに白壁が鈍く光っている。質屋の土蔵である。

など

(さんじゅっさいをこしたばかりのこづかでれいりなおんなしゅじんがけいえいしているのだ。このひとは)

三十歳を越したばかりの小柄で怜悧な女主人が経営しているのだ。このひとは

(ぼくとみちでいきあっても、ぼくのかおをみぬふりをする。あいさつをうけたあいてのめいよを)

僕と路で行き逢っても、僕の顔を見ぬふりをする。挨拶を受けた相手の名誉を

(こりょしているのである。どぞうのうらて、つばさのこっかくのようにばさとはをひろげている)

顧慮しているのである。土蔵の裏手、翼の骨格のようにばさと葉をひろげている

(きたならしいじゅもくがごろっぽんみえる。あれはしゅろである。あのじゅもくに)

きたならしい樹木が五六ぽん見える。あれは棕櫚である。あの樹木に

(おおわれているひくいとたんやねは、さかんやのものだ。さかんやはいまろうのなかに)

覆われているひくいトタン屋根は、左官屋のものだ。左官屋はいま牢のなかに

(いる。さいくんをぶちころしたのである。さかんやのまいあさのほこりを、さいくんがきずつけた)

いる。細君をぶち殺したのである。左官屋の毎朝の誇りを、細君が傷つけた

(からであった。さかんやには、まいあさ、ぎゅうにゅうをはんごうずつのむというぜいたくなたのしみが)

からであった。左官屋には、毎朝、牛乳を半合ずつ飲むという贅沢な楽しみが

(あったのに、そのあさ、さいくんがあやまってぎゅうにゅうのびんをわった。そうしてそれをさほどの)

あったのに、その朝、細君が誤って牛乳の瓶をわった。そうしてそれをさほどの

(かしつではないとおもっていた。さかんやには、それがむらむらうらめし)

過失ではないと思っていた。左官屋には、それがむらむらうらめし

(かったのである。さいくんはそのばでいきをひきとり、さかんやはろうへいき、)

かったのである。細君はその場でいきをひきとり、左官屋は牢へ行き、

(さかんやのじゅっさいほどのむすこが、このあいだえきのばいてんのまえでしんぶんをかって)

左官屋の十歳ほどの息子が、このあいだ駅の売店のまえで新聞を買って

(よんでいた。ぼくはそのすがたをみた。けれども、ぼくのきみにしらせようとしている)

読んでいた。僕はその姿を見た。けれども、僕の君に知らせようとしている

(せいかつは、こんなつきなみのものでない。こっちへきたまえ。このひがしのほうめんの)

生活は、こんな月並みのものでない。こっちへ来給え。このひがしの方面の

(ちょうぼうは、またいちだんとよいのだ。じんかもいっそうまばらである。あのちいさな)

眺望は、また一段とよいのだ。人家もいっそうまばらである。あの小さな

(くろいはやしが、われわれのがんかいをさえぎっている。あれはすぎのはやしだ。あのなかには、)

黒い林が、われわれの眼界をさえぎっている。あれは杉の林だ。あのなかには、

(おいなりをまつったやしろがある。はやしのすそのぽっとあかるいところは、なのはなばたけであって)

お稲荷をまつった社がある。林の裾のぽっと明るいところは、菜の花畠であって

(それにつづいててまえのほうにひゃくつぼほどのあきちがみえる。りゅうというみどりのもじが)

それにつづいて手前のほうに百坪ほどの空地が見える。龍という緑の文字が

(かかれてあるかみだこがひっそりあがっている。あのかみだこからたれさがっているながい)

書かれてある神凧がひっそりあがっている。あの神凧から垂れさがっている長い

(おをみるとよい。おのはしからまっすぐにしたへせんをひいてみると、ちょうどあきちの)

尾を見るとよい。尾の端からまっすぐに下へ線をひいてみると、ちょうど空地の

(とうほくのすみにおちるだろう?きみはもはや、そのかしょにあるいどをみつめている。)

東北の隅に落ちるだろう?君はもはや、その箇所にある井戸を見つめている。

(いや、いどのみずをすいあげぽんぷでくみだしているわかいおんなをみつめている。)

いや、井戸の水を吸上喞筒で汲みだしている若い女を見つめている。

(それでよいのだ。はじめからぼくは、あのおんなをきみにみせたかったのである。)

それでよいのだ。はじめから僕は、あの女を君に見せたかったのである。

(まっしろいえぷろんをかけている。あれはまだむだ。みずをくみおわって、)

まっ白いエプロンを掛けている。あれはマダムだ。水を汲みおわって、

(ばけつをみぎのてにもって、そうしてよろよろとあるきだす。どのいえへはいるだろう)

バケツを右の手に持って、そうしてよろよろと歩きだす。どの家へはいるだろう

(あきちのひがしがわには、ふといもうそうちくがにさんじゅっぽんむらがってはえている。みていたまえ)

空地の東側には、ふとい孟宗竹がニ三十本むらがって生えている。見ていたまえ

(おんなは、あのもうそうちくのあいだをくぐって、それから、ふっとすがたをかきけす。)

女は、あの孟宗竹のあいだをくぐって、それから、ふっと姿をかき消す。

(それ。ぼくのいったとおりだろう?みえなくなった。けれどきにすることはない。)

それ。僕の言ったとおりだろう?見えなくなった。けれど気にすることはない。

(ぼくはあのおんなのゆくさきをしっている。もうそうちくのうしろは、なんだかぼんやり)

僕はあの女の行くさきを知っている。孟宗竹のうしろは、なんだかぼんやり

(あかいだろう。こうばいがにほんあるのだ。つぼみがふくらみはじめたにちがいない。)

赤いだろう。紅梅が二本あるのだ。蕾がふくらみはじめたにちがいない。

(あのうすあかいかすみのしたに、くろいにほんがわらのやねがみえる。あのやねだ。あのやねの)

あのうすあかい霞の下に、黒い日本甍の屋根が見える。あの屋根だ。あの屋根の

(したに、いまのおんなと、それからかのじょのていしゅとがねおきしている。なんのきもない)

したに、いまの女と、それから彼女の亭主とが寝起している。なんの奇もない

(やねのしたに、しらせておきたいせいかつがある。ここへすわろう。)

屋根のしたに、知らせて置きたい生活がある。ここへ坐ろう。

(あのいえはがんらい、ぼくのものだ。さんじょうとよじょうはんとろくじょうと、みまある。まどりもよいし)

あの家は元来、僕のものだ。三畳と四畳半と六畳と、三間ある。間取りもよいし

(ひあたりもわるくないのだ。じゅうさんつぼのひろさのうらにわがついていて、あのにほんの)

日当たりもわるくないのだ。十三坪のひろさの裏庭がついていて、あの日本の

(こうばいがうえられてあるほかに、かなりのおおきさのさるすべりもあれば、きりしまつつじが)

紅梅が植えられてあるほかに、かなりの大きさの百日紅もあれば、霧島躑躅が

(ごかぶほどもある。さくねんのなつには、げんかんのそばになんてんしょくをうえてやった。)

五株ほどもある。昨年の夏には、玄関の傍に南天燭を植えてやった。

(それでやちんがじゅうはちえんである。たかすぎるとはおもわぬ。にじゅうしごえんくらい)

それで家賃が十八円である。高すぎるとは思わぬ。二十四五円くらい

(もらいたいのであるが、えきからすこしとおいゆえ、そうもなるまい。たかすぎるとは)

貰いたいのであるが、駅から少し遠いゆえ、そうもなるまい。高すぎるとは

(おもわぬ。それでもいちねん、ためている。あのいえのやちんは、もともと、そっくりぼくの)

思わぬ。それでも一年、ためている。あの家の家賃は、もともと、そっくり僕の

(おこづかいになるはずなのであるが、おかげで、このいちねんかんというもの、ぼくはさまざまの)

お小使いになる筈なのであるが、おかげで、この一年間というもの、僕は様様の

(つきあいにかたみのせまいおもいをした。いまのおとこにかしたのは、さくねんのさんがつである)

つきあいに肩身のせまい思いをした。いまの男に貸したのは、昨年の三月である

(うらにわのきりしまつつじがようやくわかめをだしかけていたころであった。そのまえには、)

裏庭の霧島躑躅がようやく若芽を出しかけていた頃であった。そのまえには、

(むかしすいえいのせんしゅとしてゆうめいであったあるぎんこういんが、そのわかいさいくんと)

むかし水泳の選手として有名であった或る銀行員が、その若い細君と

(ふたりきりですまっていた。ぎんこういんはきのよわよわしげなおとこで、さけものまず、)

ふたりきりで住まっていた。銀行員は気の弱弱しげな男で、酒ものまず、

(たばこものまず、どうやらおんなずきであった。それがもとで、よくふうふげんかを)

煙草ものまず、どうやら女好きであった。それがもとで、よく夫婦喧嘩を

(するのである。けれどもやちんだけはきちんきちんとおさめたのだから、)

するのである。けれども家賃だけはきちんきちんと納めたのだから、

(ぼくはそのひとについてあまりわるくいえない。ぎんこういんは、あしかけさんねんいてくれた)

僕はそのひとに就いてあまり悪く言えない。銀行員は、あしかけ三年いて呉れた

(なごやのしてんへさせんされたのである。ことしのねんがじょうには、ゆりとかいう)

名古屋の支店へ左遷されたのである。ことしの年賀状には、百合とかいう

(おんなのこのなまえとそれからふうふのなまえとみっつならべてかかれていた。)

女の子の名前とそれから夫婦の名前と三つならべて書かれていた。

(ぎんこういんのまえには、さんじゅっさいくらいのびいるがいしゃのぎしにかしていた。ははおやといもうとの)

銀行員のまえには、三十歳くらいのビイル会社の技師に貸していた。母親と妹の

(さんにんぐらしで、いっかそろってぶあいそうであった。ぎしは、ふくそうにむとんちゃくなおとこで、)

三人暮らしで、一家そろって無愛想であった。技師は、服装に無頓着な男で、

(いつもあおいなつぱふくをきていて、しかもよいしみんであったようである。ははおやはしろい)

いつも青い菜葉服を着ていて、しかもよい市民であったようである。母親は白い

(とうはつをみじかくかくがりにして、きひんがあった。いもうとははたちぜんごのこがらなやせたおんなで、)

頭髪を短く角刈りにして、気品があった。妹は二十歳前後の小柄な痩せた女で、

(やがすりもようのめいせんをこのんできていた。あんなかていを、つつましやかとよぶので)

矢絣模様の銘仙を好んで着ていた。あんな家庭を、つつましやかと呼ぶので

(あろう。ほぼはんとしくらいすまって、それからしながわのほうへこしていったけれど、)

あろう。ほぼ半年くらい住まって、それから品川のほうへ越していったけれど、

(そのあとのしょうそくをしらない。ぼくにとっては、そのとうじこそなにかとふまんもあったので)

その後の消息を知らない。僕にとっては、その当時こそ何かと不満もあったので

(あるが、いまになってかんがえてみると、あのぎしにしろ、またすいえいせんしゅにしろ、)

あるが、いまになって考えてみると、あの技師にしろ、また水泳選手にしろ、

(よいぶるいのたなこであったのである。ぞくにいうたなこうんがよかったわけだ。)

よい部類の店子であったのである。俗にいう店子運がよかったわけだ。

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