晩年 57
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問題文
(せいせんもまだむも、まだかれらのしんきょにかえってはいなかった。きと、かいものにでも)
青扇もマダムも、まだ彼等の新居に帰ってはいなかった。帰途、買い物にでも
(まわったのであろうとおもって、ぼくはそのぶようじんにもあけはなされてあったげんかんから)
まわったのであろうと思って、僕はその不用心にもあけ放されてあった玄関から
(のこのこいえへはいりこんでしまった。ここでまちぶせてやろうとかんがえたのである)
のこのこ家へはいりこんでしまった。ここで待ち伏せてやろうと考えたのである
(ふだんならばぼくも、こんならんぼうなりょうけんはおこさないのであるが、どうやら)
ふだんならば僕も、こんな乱暴な料簡は起こさないのであるが、どうやら
(かいちゅうのごえんきってのおかげですこしちょうしをくるわされていたらしいのである。)
懐中の五円切手のおかげで少し調子を狂わされていたらしいのである。
(ぼくはげんかんのさんじょうまをとおって、ろくじょうのいまへはいった。このふうふはひっこしに)
僕は玄関の三畳間をとおって、六畳の居間へはいった。この夫婦は引越しに
(ずいぶんなれているらしく、もうはや、あらかたどうぐもかたづいていて、)
ずいぶん馴れているらしく、もうはや、あらかた道具もかたづいていて、
(とこのまには、にさんりんのうすあかいはなをひらいているぼけのすやきのはちが)
床の間には、ニ三輪のうす赤い花をひらいているぼけの素焼の鉢が
(かざられていた。じくは、かりひょうそうのほくとしちせいのよんもじである。もんくもそうであるが、)
飾られていた。軸は、仮表装の北斗七星の四文字である。文句もそうであるが、
(しょたいはいっそうこっけいであった。のりばけかなにかでもってかいたものらしく、)
書体はいっそう滑稽であった。糊刷毛かなにかでもって書いたものらしく、
(ぎょうさんににくのふといもじで、そのうえめちゃくちゃににじんでいた。らっかんらしきものも)
仰山に肉の太い文字で、そのうえ滅茶苦茶ににじんでいた。落款らしきものも
(なかったけれど、ぼくはひとめでせいせんのかいたものだとだんていをくだした。)
なかったけれど、僕はひとめで青扇の書いたものだと断定を下した。
(つまりこれは、じゆうてんさいりゅうなのであろう。ぼくはおくのよじょうはんにはいった。)
つまりこれは、自由天才流なのであろう。僕は奥の四畳半にはいった。
(たんすやきょうだいがきちんとばしょをきめておかれていた。くびのほそいあしのきょだいならふの)
箪笥や鏡台がきちんと場所をきめて置かれていた。首の細い脚の巨大な裸婦の
(でっさんがいちまい、まるいがらすばりのがくぶちにおさめられ、きょうだいのすぐそばのかべに)
デッサンがいちまい、まるいガラス張りの額縁に収められ、鏡台のすぐ傍の壁に
(かけられていた。これはまだむのへやなのであろう。まだあたらしいくわのながひばちと、)
かけられていた。これはマダムの部屋なのであろう。まだ新しい桑の長火鉢と、
(それとそろいらしいくわのこぎれいなちゃだんすとがかべぎわにならべておかれていた。)
それと揃いらしい桑の小綺麗な茶箪笥とが壁際にならべて置かれていた。
(ながひばちにはてつびんがかけられ、ひがおこっていた。ぼくは、まずそのながひばちのそばに)
長火鉢には鉄瓶がかけられ、火がおこっていた。僕は、まずその長火鉢の傍に
(こしをおちつけて、たばこをすったのである。ひっこししたばかりのしんきょは、ひとを)
腰をおちつけて、煙草を吸ったのである。引越したばかりの新居は、ひとを
(かんしょうてきにするものらしい。ぼくも、あのがくぶちのえについてのふうふのそうだんや、)
感傷的にするものらしい。僕も、あの額縁の画についての夫婦の相談や、
(このながひばちのいちについてのそうろんをおもいやって、やはりせいかつのあらたまった)
この長火鉢の位置についての争論を思いやって、やはり生活のあらたまった
(おりのかいがいしいいきごみをかんじたわけであった。たばこをいっぽんすっただけで、)
折の甲斐甲斐しいいきごみを感じたわけであった。煙草を一本吸っただけで、
(ぼくはこしをうかせた。ごがつになったらたたみをかえてやろう。そんなことをおもいながら)
僕は腰を浮かせた。五月になったら畳をかえてやろう。そんなことを思いながら
(ぼくはげんかんからそとへでて、あらためてげんかんのそばのしおりどからにわのほうへまわり、)
僕は玄関から外へ出て、あらためて玄関の傍の枝折戸から庭のほうへまわり、
(ろくじょうまのえんがわにこしかけてせいせんふうふをまったのである。せいせんふうふは、にわのさるすべりの)
六畳間の縁側に腰かけて青扇夫婦を待ったのである。青扇夫婦は、庭の百日紅の
(みきがゆうひにあかくそまりはじめたころ、ようやくかえってきた。あんのじょう)
幹が夕日に赤く染まりはじめたころ、ようやく帰って来た。案のじょう
(かいものらしく、せいせんはほうきをいっぽんかたにかついで、まだむは、くさぐさの)
買い物らしく、青扇は箒をいっぽん肩に担いで、マダムは、くさぐさの
(かいものをつめたばけつをおもたそうにみぎてにさげていた。かれらはしおりどを)
買いものをつめたバケツを重たそうに右手にさげていた。彼等は枝折戸を
(あけてはいってきたので、すぐにぼくのすがたをみとめたのであるが、たいして)
あけてはいって来たので、すぐに僕のすがたを認めたのであるが、たいして
(おどろきもしなかった。「これは、おおやさん。いらっしゃい。」せいせんはほうきを)
驚きもしなかった。「これは、おおやさん。いらっしゃい。」青扇は箒を
(かついだままほほえんでかるくあたまをさげた。「いらっしゃいませ。」まだむもれいの)
かついだまま微笑んでかるく頭をさげた。「いらっしゃいませ。」マダムも例の
(まゆをあげて、それでもまえよりはいくぶんくつろいだようにちかとしろいはをみせ)
眉をあげて、それでもまえよりはいくぶんくつろいだようにちかと白い歯を見せ
(わらいながらあいさつした。ぼくはないしんこまったのである。しききんのことはきょうは)
笑いながら挨拶した。僕は内心こまったのである。敷金のことはきょうは
(いうまい。そばのきってについてだけたしなめてやろうとおもった。けれど、それも)
言うまい。傍の切手についてだけたしなめてやろうと思った。けれど、それも
(しっぱいしたのである。ぼくはかえってせいせんとあくしゅをかわし、そのうえ、だらしの)
失敗したのである。僕はかえって青扇と握手を交わし、そのうえ、だらしの
(ないことであるが、おたがいのためにばんざいをさえとなえたのだ。)
ないことであるが、お互いのために万歳をさえとなえたのだ。
(せいせんのすすめるがままに、ぼくはえんがわからろくじょうのいまにあがった。ぼくはせいせんと)
青扇のすすめるがままに、僕は縁側から六畳の居間にあがった。僕は青扇と
(たいざして、どういうぐあいにはなしをきりだしてよいか、それだけをかんがえていた。)
対座して、どういう工合いに話を切りだしてよいか、それだけを考えていた。
(ぼくがまだむのいれてくれたおちゃをひとくちすすったとき、せいせんはそっとたちあがって)
僕がマダムのいれてくれたお茶を一口すすったとき、青扇はそっと立ちあがって
(そうしてとなりのへやからしょうぎばんをもってきたのである。きみもしっているように)
そうして隣りの部屋から将棋盤を持って来たのである。君も知っているように
(ぼくはしょうぎのじょうずである。いちばんくらいはさしてもよいなとおもった。きゃくとろくに)
僕は将棋の上手である。一番くらいは指してもよいなと思った。客とろくに
(はなせぬうちに、だまってしょうぎばんをもちだすのは、これはしょうぎのひとりてんぐの)
話せぬうちに、だまって将棋盤を持ちだすのは、これは将棋のひとり天狗の
(よくやりたがるさほうである。それではまず、ぎゅっといわせてやろう。)
よくやりたがる作法である。それではまず、ぎゅっと言わせてやろう。
(ぼくもほほえみながら、だまってこまをならべた。せいせんのきふうはふしぎであった。)
僕も微笑みながら、だまって駒をならべた。青扇の棋風は不思議であった。
(ひどくはやいのである。こちらもそれにつられてはやくさすならば、いつのまにやら)
ひどく早いのである。こちらもそれに釣られて早く指すならば、いつの間にやら
(おうしょうをとられている。そんなきふうであった。いわばきしゅうである。)
王将をとられている。そんな棋風であった。謂わば奇襲である。
(ぼくはいくばんとなくまけて、そのうちにだんだんねっきょうしはじめたようであった。)
僕は幾番となく負けて、そのうちにだんだん熱狂しはじめたようであった。
(へやがすこしうすぐらくなったので、えんがわにでてさしつづけた。けっきょくは、じゅったいろく)
部屋が少しうすぐらくなったので、縁側に出て指しつづけた。結局は、十対六
(くらいでぼくのまけになったのであるが、ぼくもせいせんもぐったりしてしまった。)
くらいで僕の負けになったのであるが、僕も青扇もぐったりしてしまった。
(せいせんは、しょうぶちゅうはまったくむくちであった。しっかとあぐらのこしをおちつけて、)
青扇は、勝負中は全く無口であった。しっかとあぐらの腰をおちつけて、
(つまりななめにかまえていた。「おなじくらいですな。」かれはこまをはこにしまいこみ)
つまり斜めにかまえていた。「おなじくらいですな。」彼は駒を箱にしまいこみ
(ながら、まじめにつぶやいた。「よこになりませんか。あああ。つかれましたね。」)
ながら、まじめに呟いた。「横になりませんか。あああ。疲れましたね。」
(ぼくはしつれいしてあしをのばした。あたまのうしろがちきちきいたんだ。せいせんもしょうぎばんを)
僕は失礼して脚をのばした。頭のうしろがちきちき痛んだ。青扇も将棋盤を
(わきへのけて、えんがわへながながとねそべった。そうしてゆうやみにつつまれはじめた)
わきへのけて、縁側へながながと寝そべった。そうして夕闇に包まれはじめた
(にわをほおづえついてながめながら、「おや。かげろう!」ひくくさけんだ。)
庭を頬杖ついて眺めながら、「おや。かげろう!」ひくく叫んだ。
(「ふしぎですねえ。ごらんなさいよ。いまじぶん、かげろうが。」)
「不思議ですねえ。ごらんなさいよ。いまじぶん、かげろうが。」
(ぼくも、えんがわにはいつくばって、にわのしめったくろつちのうえをすかしてみた。)
僕も、縁側に這いつくばって、庭のしめった黒土のうえをすかして見た。
(はっときづいた。まだようけんをひとこともいわぬうちに、しょうぎをさしたり、)
はっと気づいた。まだ要件をひとことも言わぬうちに、将棋を指したり、
(かげろうをさがしたりしているおのれのぼけかげんにきづいたのである。)
かげろうを捜したりしているおのれの呆け加減に気づいたのである。
(ぼくはあわててすわりなおした。「きのしたさん。こまりますよ。」そういって、)
僕はあわてて坐り直した。「木下さん。困りますよ。」そう言って、
(れいののしぶくろをふところからだしたのである。「これは、いただけません。」)
例の熨斗袋を懐から出したのである。「これは、いただけません。」
(せいせんはなぜかぎょっとしたらしくかおつきをかえてたちあがった。ぼくもみがまえた。)
青扇はなぜかぎょっとしたらしく顔つきを変えて立ちあがった。僕も身構えた。
(「なにもございませんけれど。」まだむがえんがわへでてきてぼくのかおをのぞいた。)
「なにもございませんけれど。」マダムが縁側へ出て来て僕の顔を覗いた。
(へやにはでんとうがぼんやりともっていたのである。「そうか。そうか。」)
部屋には電燈がぼんやりともっていたのである。「そうか。そうか。」
(せいせんは、せかせかしたちょうしでなんどもうなずきながら、まゆをひそめ、なにかとおい)
青扇は、せかせかした調子でなんども首肯きながら、眉をひそめ、何か遠い
(ものをみているようであった。「それでは、さきにごはんをたべましょう。)
ものを見ているようであった。「それでは、さきにごはんをたべましょう。
(おはなしは、それからゆっくりいたしましょうよ。」ぼくはこのうえめしの)
お話は、それからゆっくりいたしましょうよ。」僕はこのうえめしの
(ごちそうになど、なりたくなかったのであるが、とにかくこののしぶくろの)
ごちそうになど、なりたくなかったのであるが、とにかくこの熨斗袋の
(しまつだけはつけたいとおもい、まだむについてへやへはいった。)
始末だけはつけたいと思い、マダムについて部屋へはいった。
(それがよくなかったのである。さけをのんだのだ。まだむにいっぱいすすめられた)
それがよくなかったのである。酒を呑んだのだ。マダムに一杯すすめられた
(ときには、これはこまったことになったとおもった。けれどもにはいさんはいと)
ときには、これは困ったことになったと思った。けれども二杯三杯と
(のむにつれて、ぼくはしだいしだいにおちついてきたのである。はじめせいせんの)
のむにつれて、僕はしだいしだいに落ちついて来たのである。はじめ青扇の
(じゆうてんさいりゅうをからかうつもりで、とこのじくものをふりかえってみて、)
自由天才流をからかうつもりで、床の軸物をふりかえって見て、
(これがじゆうてんさいりゅうですかな、とたずねたものだ。するとせいせんは、よいですこし)
これが自由天才流ですかな、と尋ねたものだ。すると青扇は、酔いですこし
(あからんだめのほとりをいっそうぽっとあかくして、くるしそうにわらいだした。)
赤らんだ眼のほとりをいっそうぽっと赤くして、苦しそうに笑いだした。