晩年 59

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太宰 治

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問題文

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(「きみをすきだ。」ぼくはそういった。「わたしもきみをすきなのだよ。」せいせんもそう)

「君を好きだ。」僕はそう言った。「私も君を好きなのだよ。」青扇もそう

(こたえたようである。「よし。ばんざい!」「ばんざい。」たしかにそんなぐあいであった)

答えたようである。「よし。万歳!」「万歳。」たしかにそんな工合いであった

(ようである。ぼくには、よいどれるとばんざいとさけびたてるあくへきがあるのだ。)

ようである。僕には、酔いどれると万歳と叫びたてる悪癖があるのだ。

(あたまがよくなかった。いや、やっぱりぼくがおちょうしものだからであろう。)

頭がよくなかった。いや、やっぱり僕がお調子ものだからであろう。

(そのままずるずるとぼくたちのおかしなつきあいがはじまったのである。)

そのままずるずると僕たちのおかしなつきあいがはじまったのである。

(でいすいしたあくるひいちにち、ぼくはきつねかたぬきにでもばかされたようなぼんやりした)

泥酔した翌る日いちにち、僕は狐か狸にでも化かされたようなぼんやりした

(きもちであった。せいせんは、どうしてもふつうでない。ぼくもこのとしになるまで、)

気持であった。青扇は、どうしても普通でない。僕もこのとしになるまで、

(まだどくしんでまいにちまいにちをぶらぶらあそんですごしているゆえ、しんるいえんじゃたちから)

まだ独身で毎日毎日をぶらぶら遊んですごしているゆえ、親類縁者たちから

(へんじんあつかいをうけていやしめられているのであるが、けれどもぼくのずのうは)

変人あつかいを受けていやしめられているのであるが、けれども僕の頭脳は

(あくまでじょうしきてきである。だきょうてきである。つうじょうのどうとくをほうじていきてきた。)

あくまで常識的である。妥協的である。通常の道徳を奉じて生きて来た。

(いわば、けんこうでさえある。それにくらべてせいせんは、どうやら、けたがはずれて)

謂わば、健康でさえある。それにくらべて青扇は、どうやら、けたがはずれて

(いるようではないか。だんじてよいしみんではないようである。ぼくはせいせんの)

いるようではないか。断じてよい市民ではないようである。僕は青扇の

(やぬしとして、かれのしょうたいのはっきりわかるまではすこしとおざかっていたほうが)

家主として、彼の正体のはっきり判るまではすこし遠ざかっていたほうが

(いろいろとつごうがよいのではあるまいか、そうもかんがえられて、それからしごにちの)

いろいろと都合がよいのではあるまいか、そうも考えられて、それから四五日の

(あいだはしらぬふりをしていた。ところが、ひっこしていっしゅうかんくらいたったころに)

あいだは知らぬふりをしていた。ところが、引越して一週間くらいたったころに

(せいせんとまたあってしまった。それがせんとうやのゆぶねのなかである。ぼくがふろの)

青扇とまた逢ってしまった。それが銭湯屋の湯槽のなかである。僕が風呂の

(ながしばにあしをふみいれたとたんに、やあ、とおおごえをあげたものがいた。)

流し場に足を踏みいれたとたんに、やあ、と大声をあげたものがいた。

(ひるすぎのふろにはほかのひとのかげがなかった。せいせんがひとりゆぶねにつかって)

ひるすぎの風呂には他のひとの影がなかった。青扇がひとり湯槽につかって

(いたのである。ぼくはあわててしまい、あがりゆのからんのまえにしゃがんで)

いたのである。僕はあわててしまい、あがり湯のカランのまえにしゃがんで

(せっけんをてのひらにぬりむすうのあわをつくった。よほどあわてていたものとみえる。)

石鹸をてのひらに塗り無数の泡を作った。よほどあわてていたものとみえる。

など

(はっときづいたけれど、ぼくはそれでもわざとゆっくり、からんからゆをだして、)

はっと気づいたけれど、僕はそれでもわざとゆっくり、カランから湯を出して、

(てのひらのあわをあらいおとし、ゆぶねへはいった。「せんばんはどうも。」ぼくはさすがに)

てのひらの泡を洗いおとし、湯槽へはいった。「先晩はどうも。」僕は流石に

(はずかしいおもいであった。「いいえ。」せいせんはすましこんでいた。)

恥かしい思いであった。「いいえ。」青扇はすましこんでいた。

(「あなた、これはきそかわのじょうりゅうですよ。」ぼくは、せいせんのひとみのほうこうによって、)

「あなた、これは木曽川の上流ですよ。」僕は、青扇の瞳の方向によって、

(かれがゆぶねのうえのぺんきがについていっているのだということをしった。)

彼が湯槽のうえのペンキ画についていっているのだということを知った。

(「ぺんきがのほうがよいのですよ。ほんとうのきそがわよりはね。いいえ。)

「ペンキ画のほうがよいのですよ。ほんとうの木曽川よりはね。いいえ。

(ぺんきがだからよいのでしょう。」そういいながらぼくをふりかえってみて)

ペンキ画だからよいのでしょう。」そう言いながら僕をふりかえってみて

(ほほえんだ。「ええ。」ぼくもほほえんだ。かれのことばのいみがわからなかったのである)

微笑んだ。「ええ。」僕も微笑んだ。彼の言葉の意味がわからなかったのである

(「これでもくろうしたものですよ。りょうしんのあるえですね。これをえがいた)

「これでも苦労したものですよ。良心のある画ですね。これを画いた

(ぺんきやのやつ、このふろへは、けっしてきませんよ。」「くるのじゃない)

ペンキ屋の奴、この風呂へは、決して来ませんよ。」「来るのじゃない

(ないでしょうか。じぶんのえをながめながら、しずかにおゆにひたっていると)

ないでしょうか。自分の画を眺めながら、しずかにお湯にひたっていると

(いうのもわるくないでしょう。」ぼくのそういったようなことばはどうやらせいせんの)

いうのもわるくないでしょう。」僕のそういったような言葉はどうやら青扇の

(ぶべつをかったらしくかれは、さあ、といったきりで、じぶんのりょうてのてのこうを)

侮蔑を買ったらしく彼は、さあ、と言ったきりで、自分の両手の手の甲を

(そろっとならべ、じゅうまいのつめをながめていた。せいせんは、さきにふろからでた。)

そろっと並べ、十枚の爪を眺めていた。青扇は、さきに風呂から出た。

(ぼくはゆぶねのおゆにひたりながら、だついじょうにいるせいせんをそれとなくみていた。)

僕は湯槽のお湯にひたりながら、脱衣場にいる青扇をそれとなく見ていた。

(きょうはねずみいろのつむぎのあわせをきている。かれがあまりにもながくじぶんのすがたをかがみに)

きょうは鼠いろの紬の袷を着ている。彼があまりにも永く自分のすがたを鏡に

(うつしてみているのには、おどろかされた。やがて、ぼくもふろからでたので)

うつしてみているのには、おどろかされた。やがて、僕も風呂から出たので

(あるが、せいせんは、だついじょうのすみのいすにひっそりすわってたばこをくゆらしながらぼくを)

あるが、青扇は、脱衣場の隅の椅子にひっそり坐って煙草をくゆらしながら僕を

(まっていてくれた。ぼくはなんだかいきぐるしいきもちがした。ふたりいっしょにせんとうやを)

待っていてくれた。僕はなんだか息苦しい気持ちがした。ふたり一緒に銭湯屋を

(でて、みちみちかれはこんなことをつぶやいた。「はだかのすがたをみないうちは)

出て、みちみち彼はこんなことを呟いた。「はだかのすがたを見ないうちは

(きをゆるせないのです。いいえ。おとことおとこのあいだのことですよ。」)

気を許せないのです。いいえ。男と男のあいだのことですよ。」

(そのひ、ぼくはさそわれるがままに、またせいせんのもとをおとずれた。とちゅう、せいせんとわかれ)

その日、僕は誘われるがままに、また青扇のもとを訪れた。途中、青扇とわかれ

(いったんぼくのいえへよりとうはつのていれなどをすこしして、それからやくそくしたとおり、)

一旦僕の家へ寄り頭髪の手入れなどを少しして、それから約束したとおり、

(すぐにせいせんのうちへでかけたのである。けれどもせいせんはいなかったのだ。)

すぐに青扇のうちへ出かけたのである。けれども青扇はいなかったのだ。

(まだむがひとりいた。いりひのあたるえんがわでゆうかんをよんでいたのである。)

マダムがひとりいた。入日のあたる縁側で夕刊を読んでいたのである。

(ぼくはげんかんのわきのしおりどをあけて、こにわをつききり、えんさきにたった。)

僕は玄関のわきの枝折戸をあけて、小庭をつき切り、縁先に立った。

(いないのですか、ときいてみると、「ええ。」しんぶんからめをはなさずそうこたえた。)

いないのですか、と聞いてみると、「ええ。」新聞から眼を離さずそう答えた。

(したくちびるをつよくかんで、ふきげんであった。「まだふろからかえらないのですか?」)

下唇をつよく噛んで、不機嫌であった。「まだ風呂から帰らないのですか?」

(「そう。」「はて。ぼくとふろでいっしょになりましてね。あそびにこいと)

「そう。」「はて。僕と風呂で一緒になりましてね。遊びに来いと

(おっしゃったものですから。」「あてになりませんのでございますよ。」)

おっしゃったものですから。」「あてになりませんのでございますよ。」

(はずかしそうにわらって、ゆうかんのぺえじをくった。「それではしつれいいたします」)

恥かしそうに笑って、夕刊のペエジを繰った。「それではしつれいいたします」

(「あら。すこしおまちになったら?おちゃでもめしあがれ。」まだむはゆうかんを)

「あら。すこしお待ちになったら?お茶でもめしあがれ。」マダムは夕刊を

(たたんでぼくのほうへのべてよこした。ぼくはえんがわにこしをおろした。にわのこうばいのつぶつぶの)

畳んで僕のほうへのべてよこした。僕は縁側に腰をおろした。庭の紅梅の粒粒の

(つぼみは、ふくらんでいた。「きのしたをしんようしないほうがよござんすよ。」だしぬけに)

蕾は、ふくらんでいた。「木下を信用しないほうがよござんすよ。」だしぬけに

(みみのそばでそうささやかれて、ぎょっとした。まだむはぼくにおちゃをすすめた。)

耳のそばでそう囁かれて、ぎょっとした。マダムは僕にお茶をすすめた。

(「なぜですか?」ぼくはまじめであった。「だめなんですの。」かたほうのまゆを)

「なぜですか?」僕はまじめであった。「だめなんですの。」片方の眉を

(きゅっとあげてちいさいためいきをついたのである。ぼくはあやうくしっしょうしかけた。)

きゅっとあげて小さい溜息を吐いたのである。僕は危うく失笑しかけた。

(せいせんがひごろ、へんなじきょうのたいだにふけっているのをまねて、このおんなも、)

青扇が日頃、へんな自矜の怠惰にふけっているのを真似て、この女も、

(なにかしらとくいなさいのうのあるおっとにかしずくことのくろうをそれとなく)

なにかしら特異な才能のある夫にかしずくことの苦労をそれとなく

(ほこっているのにちがいないとおもったのである。そうかいなうそをつくものかなと)

誇っているのにちがいないと思ったのである。爽快な嘘を吐くものかなと

(ぼくはないしんおかしかった。けれどこれしきのうそにはぼくもまけてはいないのである。)

僕は内心おかしかった。けれどこれしきの嘘には僕も負けてはいないのである。

(「でたらめは、てんさいのとくしつのひとつだといわれていますけれど。そのしゅんかんしゅんかんの)

「出鱈目は、天才の特質のひとつだと言われていますけれど。その瞬間瞬間の

(しんじつだけをいうのです。ひょうへんということばがありますね。わるくいえば)

真実だけを言うのです。豹変という言葉がありますね。わるくいえば

(おぽちゅにすとです。」「てんさいだなんて。まさか。」まだむは、ぼくのおちゃの)

オポチュニストです。」「天才だなんて。まさか。」マダムは、僕のお茶の

(のみさしをにわにすてて、かわりをいれた。ぼくはゆあがりのせいで、のどがかわいて)

飲みさしを庭に捨てて、代りをいれた。僕は湯あがりのせいで、のどが乾いて

(いた。あついばんちゃをすすりながら、どうしててんさいでないことをいいきれるか、と)

いた。熱い番茶をすすりながら、どうして天才でないことを言い切れるか、と

(ついきゅうしてみた。はじめから、すこしでもせいせんのしょうたいらしいものをさぐりだそうと)

追求してみた。はじめから、少しでも青扇の正体らしいものをさぐり出そうと

(かかっていたわけである。「いばるのですの。」そういうへんじであった。)

かかっていたわけである。「威張るのですの。」そういう返事であった。

(「そうですか。」ぼくはわらってしまった。このおんなもせいせんとおなじように、)

「そうですか。」僕は笑ってしまった。この女も青扇とおなじように、

(うんとりこうかうんとばかかどちらかであろう。とにかくはなしにならないと)

うんと利巧かうんと莫迦かどちらかであろう。とにかく話にならないと

(おもったのだ。けれどぼくは、まだむがせいせんをかなりあいしているらしいという)

思ったのだ。けれど僕は、マダムが青扇をかなり愛しているらしいという

(ことだけはしりえたつもりであった。たそがれのもやにぼかされていくにわをながめながら)

ことだけは知り得たつもりであった。黄昏の靄にぼかされて行く庭を眺めながら

(ぼくはわずかのだきょうをまだむにあんじしてやった。)

僕はわずかの妥協をマダムに暗示してやった。

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