晩年 60

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太宰 治

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問題文

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(「きのしたさんはあれでやはりなにかかんがえているのでしょう。それなら、ほんとの)

「木下さんはあれでやはり何か考えているのでしょう。それなら、ほんとの

(きゅうそくなんてないわけですね。なまけてはいないのです。ふろにはいっている)

休息なんてないわけですね。なまけてはいないのです。風呂にはいっている

(ときでも、つめをきっているときでも。」「まあ。だからいたわってやれと)

ときでも、爪を切っているときでも。」「まあ。だからいたわってやれと

(おっしゃるの?」ぼくには、それがそうとうむきなちょうしにきこえたので、いくぶんせせら)

おっしゃるの?」僕には、それが相当むきな調子に聞えたので、いくぶんせせら

(わらいのいみをこめて、なにかけんかでもしたのですか、とはんもんしてやった。)

笑いの意味をこめて、なにか喧嘩でもしたのですか、と反問してやった。

(「いいえ。」まだむはおかしそうにしていた。けんかをしたのにちがいないのだ。)

「いいえ。」マダムは可笑しそうにしていた。喧嘩をしたのにちがいないのだ。

(しかも、いまはせいせんをまちこがれているのにきまっている。)

しかも、いまは青扇を待ちこがれているのにきまっている。

(「しつれいしましょう。ああ。またまいります。」ゆうやみがせまっていて、)

「しつれいしましょう。ああ。またまいります。」夕闇がせまっていて、

(さるすべりのみきだけが、やわらかにうきあがってみえた。ぼくはにわのしおりどにてをかけ、)

百日紅の幹だけが、軟らかに浮きあがって見えた。僕は庭の枝折戸に手をかけ、

(ふりむいてまだむにもいちどあいさつした。まだむは、ぽつんとしろくえんがわにたって)

振りむいてマダムにもいちど挨拶した。マダムは、ぽつんと白く縁側に立って

(いたが、ていねいにおじぎをかえした。ぼくはこころのうちで、このふうふはあいしあって)

いたが、ていねいにお辞儀を返した。僕は心のうちで、この夫婦は愛し合って

(いるのだ、とわびしげにつぶやいたことである。あいしあっているということは)

いるのだ、とわびしげに呟いたことである。愛し合っているということは

(しりえたものの、せいせんのなにものであるかは、どうもぼくにはよくつかめなかったので)

知り得たものの、青扇の何者であるかは、どうも僕にはよくつかめなかったので

(なんでもないかねもちのきどりやなのであろうか、いずれにもせよ、ぼくはこんな)

なんでもない金持ちの気取りやなのであろうか、いずれにもせよ、僕はこんな

(おとこにうっかりいえをかしたことをこうかいしはじめたのだ。そのうちに、ぼくのふきつの)

男にうっかり家を貸したことを後悔しはじめたのだ。そのうちに、僕の不吉の

(よかんが、そろそろとあたってきたのであった。みつきがすぎても、よつきがすぎても)

予感が、そろそろとあたって来たのであった。三月が過ぎても、四月が過ぎても

(せいせんからなんのおとさたもないのである。いえのたいしゃくにかんするさまざまのしょうしょもなにひとつ)

青扇からなんの音沙汰もないのである。家の貸借に関する様様の証書も何ひとつ

(とりかわさず、しききんのことももちろんそのままになっていた。しかしぼくは、ほかの)

取りかわさず、敷金のことも勿論そのままになっていた。しかし僕は、ほかの

(やぬしみたいに、しょうしょのことなどにうるさくかかわりあうのがいやなたちだし、)

家主みたいに、証書のことなどにうるさくかかわり合うのがいやなたちだし、

(またしききんだとてそれをほかへまわしてきんりなんかをえることはきらいで、)

また敷金だとてそれをほかへまわして金利なんかを得ることはきらいで、

など

(せいせんもいったようにちょきんのようなものであるから、それは、まあ、どうでも)

青扇も言ったように貯金のようなものであるから、それは、まあ、どうでも

(よかった。けれどもやちんをいれてくれないのには、よわったのである。)

よかった。けれども屋賃をいれてくれないのには、弱ったのである。

(ぼくはそれでもいつつきまではしらぬふりをしてすごしてやった。それはぼくのむとんちゃくと)

僕はそれでも五月までは知らぬふりをしてすごしてやった。それは僕の無頓着と

(かんだいからきているというぐあいにせつめいしたいところであるが、ほんとうをいえば)

寛大から来ているという工合いに説明したいところであるが、ほんとうを言えば

(ぼくにはせいせんがこわかったのである。せいせんのことをおもえば、なんともしれぬ)

僕には青扇がこわかったのである。青扇のことを思えば、なんとも知れぬ

(けむったさをかんじるのである。あいたくなかった。どうせあってはなしを)

けむったさを感じるのである。逢いたくなかった。どうせ逢って話を

(つけなければならないとはわかっていたが、それでもいっすんのがれに、あしたあしたと)

つけなければならないとは判っていたが、それでも一寸のがれに、明日明日と

(のばしているのであった。つまりはぼくのはくしじゃっこうのゆえであろう。)

のばしているのであった。つまりは僕の薄志弱行のゆえであろう。

(ごがつのおわり、ぼくはとうとうおもいきってせいせんのうちへたずねていくことにした。)

五月のおわり、僕はとうとう思い切って青扇のうちへ訪ねていくことにした。

(あさはやくでかけたのである。ぼくはいつでもそうであるが、おもいたつと、いっこくも)

朝はやくでかけたのである。僕はいつでもそうであるが、思い立つと、一刻も

(はやくそのようじをすましてしまわなければきがすまぬのである。いってみると、)

早くその用事をすましてしまわなければ気がすまぬのである。行ってみると、

(げんかんがまだしまっていた。ねているらしいのだ。わかいふうふのねごみを)

玄関がまだしまっていた。寝ているらしいのだ。わかい夫婦の寝ごみを

(しゅうげきするなど、いやであったから、ぼくはそのままひきかえしてきたのである。)

襲撃するなど、いやであったから、僕はそのまま引返して来たのである。

(いらいらしながらいえのにわきのていれなどをして、やっとひるごろになってから)

いらいらしながら家の庭木の手入れなどをして、やっと昼頃になってから

(ぼくはまたでかけたのだ。まだしまっていたのである。こんどはぼくもにわのほうへ)

僕はまたでかけたのだ。まだしまっていたのである。こんどは僕も庭のほうへ

(まわってみた。にわのごかぶのきりしまつつじのはなはそれぞれはちのすのようにさきこごって)

まわってみた。庭の五株の霧島躑躅の花はそれぞれ蜂の巣のように咲きこごって

(いた。こうばいははながちってしまっていてあおあおしたはをひろげ、さるすべりはえだえだの)

いた。紅梅は花が散ってしまっていて青青した葉をひろげ、百日紅は枝々の

(ももからささくれのようなひょろひょろしたわかばをはやしていた。あまどもしまって)

股からささくれのようなひょろひょろした若葉を生やしていた。雨戸もしまって

(いた。ぼくはかるくふたつみっつとをたたき、きのしたさん、きのしたさん、とひくくよんだ。)

いた。僕は軽く二つ三つ戸をたたき、木下さん、木下さん、とひくく呼んだ。

(しんとしているのである。ぼくはあまどのすきまからこっそりなかをのぞいてみた。)

しんとしているのである。僕は雨戸のすきまからこっそりなかを覗いてみた。

(いくつになってもにんげんには、すきみのきょうみがあるものなのであろう。まっくらで)

いくつになっても人間には、すき見の興味があるものなのであろう。まっくらで

(なんにもみえなかった。けれどだれやらろくじょうのいまにねているようなけはいだけは)

なんにも見えなかった。けれど誰やら六畳の居間に寝ているような気はいだけは

(さっすることができた。ぼくはあまどからからだをはなし、もいちどよぼうかどうかを)

察することができた。僕は雨戸からからだを離し、もいちど呼ぼうかどうかを

(かんがえたのであるが、けっきょくそのまま、またぼくのいえへひきかえしてきたのである。)

考えたのであるが、結局そのまま、また僕の家へひきかえして来たのである。

(のぞいたというこうかいからのきおくれが、ぼくをそんなにしおしおひきかえさせた)

覗いたという後悔からの気おくれが、僕をそんなにしおしお引返させた

(らしいのだ。いえへかえってみると、ちょうどらいきゃくがあって、そのひととふたつみっつの)

らしいのだ。家へ帰ってみると、ちょうど来客があって、そのひとと二つ三つの

(ようだんをきめているうちに、ひもくれた。きゃくをおくりだしてから、ぼくはまたさんどめの)

用談をきめているうちに、日も暮れた。客を送りだしてから、僕はまた三度目の

(ほうもんをくわだてたのである。まさかまだねているわけはあるまいとかんがえた。)

訪問を企てたのである。まさかまだ寝ているわけはあるまいと考えた。

(せいせんのうちにはあかりがついていて、げんかんもあいていた。こえをかけると、だれ?)

青扇のうちにはあかりがついていて、玄関もあいていた。声をかけると、誰?

(というせいせんのかすれたへんじがあった。「ぼくです。」「ああ、おおやさん。)

という青扇のかすれた返事があった。「僕です。」「ああ、おおやさん。

(おあがり。」ろくじょうのいまにいるらしかった。うちのくうきが、なんだかいんきくさい)

おあがり。」六畳の居間にいるらしかった。うちの空気が、なんだか陰気くさい

(のである。げんかんにたったままでろくじょうまのほうをくびかしげてのぞくと、せいせんは、)

のである。玄関に立ったままで六畳間のほうを頸かしげて覗くと、青扇は、

(どてらすがたでねどこをそそくさととりかたづけていた。ほのぐらいでんとうのしたのせいせんの)

どてら姿で寝床をそそくさと取りかたづけていた。ほのぐらい電燈の下の青扇の

(かおは、おやとおもったほどふけてみえた。「もうおやすみですか。」「え。いいえ)

顔は、おやと思ったほど老けて見えた。「もうおやすみですか。」「え。いいえ

(かまいません。いちにちいっぱいねているのです。ほんとうに。こうしてねていると)

かまいません。一日いっぱい寝ているのです。ほんとうに。こうして寝ていると

(いちばんかねがかからないものですから。」そんなことをいいいい、どうやら)

いちばん金がかからないものですから。」そんなことを言い言い、どうやら

(へやをかたづけてしまったらしく、はしるようにしてげんかんへでてきた。)

部屋をかたづけてしまったらしく、走るようにして玄関へ出て来た。

(「どうも、しばらくです。」ぼくのかおをろくろくみもせず、すぐうつむいて)

「どうも、しばらくです。」僕の顔をろくろく見もせず、すぐうつむいて

(しまった。「やちんはとうぶんだめですよ。」だしぬけにいったのである。)

しまった。「屋賃は当分だめですよ。」だしぬけに言ったのである。

(ぼくはさすがにむっとした。わざとへんじをしなかった。「まだむがにげました。」)

僕は流石にむっとした。わざと返事をしなかった。「マダムが逃げました。」

(げんかんのしょうじによりそってしずかにしゃがみこんだ。でんとうのあかりをはいめんから)

玄関の障子によりそってしずかにしゃがみこんだ。電燈のあかりを背面から

(うけているのでせいせんのかおはただまっくろにみえるのである。「どうしてです。」)

受けているので青扇の顔はただまっくろに見えるのである。「どうしてです。」

(ぼくはどきっとしたのだ。「きらわれましたよ。ほかにおとこができたのでしょう。)

僕はどきっとしたのだ。「きらわれましたよ。ほかに男ができたのでしょう。

(そんなおんななのです。」いつもににずことばのちょうしがはきはきしていた。)

そんな女なのです。」いつもに似ず言葉の調子がはきはきしていた。

(「いつごろです。」ぼくはげんかんのしきだいにこしをおろした。「さあ。せんげつのちゅうじゅんごろ)

「いつごろです。」僕は玄関の式台に腰をおろした。「さあ。先月の中旬ごろ

(だったでしょうか。あがらない?」「いいえ。きょうはほかにようじもあるし。」)

だったでしょうか。あがらない?」「いいえ。きょうは他に用事もあるし。」

(ぼくにはすこしすすきぎみがわるかったのである。「はずかしいことでしょうけれど、)

僕には少し薄気味がわるかったのである。「恥ずかしいことでしょうけれど、

(わたしは、おんなのおやもとからのしおくりでせいかつしていたのです。それがこんなになって。」)

私は、女の親元からの仕送りで生活していたのです。それがこんなになって。」

(せかせかいいつづけるせいせんのたいどに、いっこくもはやくきゃくをおいかえそうとしている)

せかせか言いつづける青扇の態度に、一刻もはやく客を追いかえそうとしている

(きがまえをみてとった。ぼくはわざわざたもとからたばこをとりだし、まっちが)

気がまえを見てとった。僕はわざわざ袂から煙草をとりだし、マッチが

(ありませんか?といってやったのである。せいせんはだまってかってもとのほうへたって)

ありませんか?と言ってやったのである。青扇はだまって勝手元のほうへ立って

(いって、おおばこのとくようまっちをもってきた。「なぜはたらかないのかしら?」)

行って、大箱の徳用マッチを持って来た。「なぜ働かないのかしら?」

(ぼくはたばこをくゆらしながら、いまからゆっくりはなしこんでやろうとひそかにけつい)

僕は煙草をくゆらしながら、いまからゆっくり話込んでやろうとひそかに決意

(していた。「はたらけないからです。さいのうがないのでしょう。」あいかわらず)

していた。「働けないからです。才能がないのでしょう。」相変わらず

(てきぱきしたごちょうであった。「じょうだんじゃない。」「いいえ。はたらけたらねえ。」)

てきぱきした語調であった。「冗談じゃない。」「いいえ。働けたらねえ。」

(ぼくはせいせんがおもいのほかにすなおなかたぎをもっていることをしったのである。)

僕は青扇が思いのほかに素直な気質を持っていることを知ったのである。

(むねもつまったけれど、このままかれにどうじょうしていては、やちんのことがどうにも)

胸もつまったけれど、このまま彼に同情していては、屋賃のことがどうにも

(ならぬのだ。ぼくはおのれのきもちをはげました。「それではこまるじゃないですか)

ならぬのだ。僕はおのれの気持ちをはげました。「それでは困るじゃないですか

(ぼくのほうもこまるし、あなただっていつまでもこうしているわけにはいきますまい」)

僕のほうも困るし、あなただっていつまでもこうしている訳にはいきますまい」

(すいかけのたばこをどまへなげつけた。あかいひばながせめんとのたたきにぱっと)

吸いかけの煙草を土間へ投げつけた。赤い火花がセメントのたたきにぱっと

(ちりひろがって、きえた。「ええ。それは、なんとかします。あてがあります。)

散りひろがって、消えた。「ええ。それは、なんとかします。あてがあります。

(あなたにはかんしゃしています。もうすこしまっていただけないでしょうか。)

あなたには感謝しています。もうすこし待っていただけないでしょうか。

(もうすこし。」ぼくはにほんめのたばこをくわえ、またまっちをすった。さっきから)

もうすこし。」僕は二本目の煙草をくわえ、またマッチをすった。さっきから

(きにかかっていたせいせんのかおをそのまっちのあかりでちらとのぞいてみることが)

気にかかっていた青扇の顔をそのマッチのあかりでちらと覗いてみることが

(できた。ぼくはおもわずぽろっと、もえるまっちをとりおとしたのである。)

できた。僕は思わずぽろっと、燃えるマッチをとり落したのである。

(あっきのつらをみたからであった。「それでは、いずれまたまいります。ないものは)

悪鬼の面を見たからであった。「それでは、いずれまた参ります。ないものは

(ちょうだいいたしません。」ぼくはいますぐここからのがれたかった。)

頂戴いたしません。」僕はいますぐここからのがれたかった。

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