晩年 61

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太宰 治

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問題文

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(「そうですか。どうもわざわざ。」せいせんはしんみょうにそういって、たちあがった。)

「そうですか。どうもわざわざ。」青扇は神妙にそう言って、立ちあがった。

(それからひとりごとのようにつぶやくのである。「しじゅうにのいっぱくすいせい。きのおおい)

それからひとりごとのように呟くのである。「四十二の一白水星。気の多い

(としまわりでよわります。」ぼくはころげるようにしてせいせんのいえからでて、)

としまわりで弱ります。」僕はころげるようにして青扇の家から出て、

(むちゅうでいえじをいそいだものだ。けれどすこしずつおちつくにつれて、なんだか)

夢中で家路をいそいだものだ。けれど少しずつ落ちつくにつれて、なんだか

(ばかをみたというようなきがだんだんとおこってきたのである。またいっぱい)

莫迦をみたというような気がだんだんと起って来たのである。また一杯

(くわされた。せいせんのおもいつめたようなはっきりしたくちょうも、よんじゅうにさいを)

くわされた。青扇の思い詰めたようなはっきりした口調も、四十二歳を

(それとなくつぶやいたことも、みんなたまらないほどわざとらしくきざっぽく)

それとなく呟いたことも、みんな堪らないほどわざとらしくきざっぽく

(おもわれだした。ぼくはどうもすこしあまいようだ。こんなゆるんだせいしつではやぬしは)

思われだした。僕はどうも少し甘いようだ。こんなゆるんだ性質では家主は

(とてもつとまるものではないな、とかんがえた。ぼくはそれからにさんにち、せいせんのこと)

とてもつとまるものではないな、と考えた。僕はそれからニ三日、青扇のこと

(ばかりをかんがえてくらした。ぼくもちちおやのいさんのおかげで、こうしてただ)

ばかりを考えてくらした。僕も父親の遺産のおかげで、こうしてただ

(のらくらといちにちいちにちをおくって、べつにつとめをするというきもおこらず、)

のらくらと一日一日を送って、べつにつとめをするという気も起らず、

(せいせんのはたらけたらねえというじゅっかいも、ぼくにはわからぬこともないのであるが、)

青扇の働けたらねえという述懐も、僕には判らぬこともないのであるが、

(けれどせいせんがほんとうにいまいちもんもしゅうにゅうのあてがなくてくらしているのだと)

けれど青扇がほんとうにいま一文も収入のあてがなくて暮らしているのだと

(すれば、それだけでもすでにありふれたせいしんでない。いや、せいしんなどというと)

すれば、それだけでもすでにありふれた精神でない。いや、精神などというと

(りっぱにきこえるが、とにかくそうとうずぶといこんじょうである。もうこうなったうえは、)

立派に聞えるが、とにかくそうとう図太い根性である。もうこうなったうえは、

(どうにかしてあいつのしょうたいらしいものをつきとめてやらなければあんしんできないと)

どうにかしてあいつの正体らしいものをつきとめてやらなければ安心できないと

(かんがえたのだ。ごがつがすぎて、ろくがつになっても、やはりせいせんからはなんのあいさつも)

考えたのだ。五月がすぎて、六月になっても、やはり青扇からはなんの挨拶も

(ないのであった。ぼくはまたかれのいえにでむいていかなければならなかったのである)

ないのであった。僕はまた彼の家に出むいて行かなければならなかったのである

(そのひ、せいせんはすぽおつまんらしく、えりつきのわいしゃつにしろいずぼんをはいて)

その日、青扇はスポオツマンらしく、襟付きのワイシャツに白いズボンをはいて

(なにかてれくさそうにはじらいながらでてきた。いえぜんたいがあかるいかんじであった)

何かてれくさそうに恥じらいながら出て来た。家ぜんたいが明るい感じであった

など

(ろくじょうまにとおされて、みると、へやのとこのまよりのすみにいつかいいれたのか)

六畳間にとおされて、見ると、部屋の床の間よりの隅にいつ買いいれたのか

(ねずみいろのびろーどがはられたふるものらしいそふぁがあり、しかもたたみのうえには)

鼠いろの天鵞絨が張られた古ものらしいソファがあり、しかも畳のうえには

(たんりょくしょくのじゅうたんがしかれていた。へやのおもむきがいっぺんしていたのである。)

淡緑色の絨毯が敷かれていた。部屋のおもむきが一変していたのである。

(せいせんはぼくをそふぁにすわらせた。にわのさるすべりは、そろそろしょうじょうひのはなをひらき)

青扇は僕をソファに坐らせた。庭の百日紅は、そろそろ猩々緋の花をひらき

(かけていた。「いつも、ほんとうにあいすいません。こんどはだいじょうぶですよ。)

かけていた。「いつも、ほんとうに相すいません。こんどは大丈夫ですよ。

(しごとがみつかりました。おい、ていちゃん。」せいせんはぼくとならんでそふぁに)

しごとが見つかりました。おい、ていちゃん。」青扇は僕とならんでソファに

(こしをおろしてから、となりのへやへこえをかけたのである。すいへいふくをきたこがらなおんなが、)

腰をおろしてから、隣の部屋へ声をかけたのである。水兵服を着た小柄な女が、

(よじょうはんのほうから、ぴょこんとでてきた。まるがおのけんこうそうなほおをしたしょうじょで)

四畳半のほうから、ぴょこんと出て来た。丸顔の健康そうな頬をした少女で

(あった。めもおそれをしらぬようにきょとんとすんでいた。「おおやさんだよ。)

あった。眼もおそれを知らぬようにきょとんと澄んでいた。「おおやさんだよ。

(ごあいさつをおし。うちのおんなです。」ぼくはおやおやとおもった。せんこくのせいせんのはじらいを)

ご挨拶をおし。うちの女です。」僕はおやおやと思った。先刻の青扇の恥らいを

(ふくんだほほえみのいみがとけたのであった。「どんなおしごとでしょう?」)

ふくんだ微笑みの意味がとけたのであった。「どんなお仕事でしょう?」

(そのしょうじょがまたとなりのへやにひっこんでから、ぼくは、ことさらになまやぼを)

その少女がまた隣りの部屋にひっこんでから、僕は、ことさらに生野暮を

(よそってしごとのことをたずねてやった。きょうばかりはばかされまいぞと)

よそって仕事のことをたずねてやった。きょうばかりは化かされまいぞと

(ようじんをしていたのである。「しょうせつです。」「え?」「いいえ。むかしからわたしは、)

用心をしていたのである。「小説です。」「え?」「いいえ。むかしから私は、

(ぶんがくをべんきょうしていたのですよ。ようやくこのごろめがでたのです。じつわを)

文学を勉強していたのですよ。ようやくこのごろ芽が出たのです。実話を

(かきます。」すましこんでいた。「じつわといいますと?」ぼくはしつこくたずねた。)

書きます。」澄ましこんでいた。「実話と言いますと?」僕はしつこく尋ねた。

(「つまり、ないことをじじつあったとしてほうこくするのです。なんでもないのさ。)

「つまり、ないことを事実あったとして報告するのです。なんでもないのさ。

(なにけんなにむらなんばんちとか、たいしょうなんねんなんがつなんにちとか、そのころのしんぶんでしっているで)

何県何村何番地とか、大正何年何月何日とか、その頃の新聞で知っているで

(あろうがとかいうもんくをわすれずにいれておいてあとは、かならずないことをかきます)

あろうがとかいう文句を忘れずにいれて置いてあとは、必ずないことを書きます

(つまりしょうせつですねえ。」せいせんはかれのにいづまのことでさすがにいくぶんきおくれして)

つまり小説ですねえ。」青扇は彼の新妻のことで流石にいくぶん気おくれして

(いるのか、ぼくのしせんをさけるようにして、ながいとうはつのふけをかきおとしたりひざを)

いるのか、僕の視線を避けるようにして、長い頭髪のふけを掻き落としたり膝を

(なんどもくみなおしたりなどしながら、すこしゆうべんをふるったのである。)

なんども組み直したりなどしながら、少し雄弁をふるったのである。

(「ほんとうによいのですか。こまりますよ。」「だいじょうぶ。だいじょうぶ。ええ。」)

「ほんとうによいのですか。困りますよ。」「大丈夫。大丈夫。ええ。」

(ぼくのことばをさえぎるようにしてだいじょうぶをくりかえし、そうしてほがらかに)

僕の言葉をさえぎるようにして大丈夫を繰りかえし、そうしてほがらかに

(わらっていた。ぼくは、しんじた。そのとき、さきのしょうじょがこうちゃのぎんぼんをささげて)

笑っていた。僕は、信じた。そのとき、さきの少女が紅茶の銀盆をささげて

(はいってきたのだ。「あなた、ごらんなさい。」せいせんはこうちゃのちゃわんをうけとって)

はいって来たのだ。「あなた、ごらんなさい。」青扇は紅茶の茶碗を受けとって

(ぼくにてわたしじぶんのちゃわんをうけとりしなに、そういってうしろをふりむいた。)

僕に手渡し自分の茶碗を受けとりしなに、そう言ってうしろを振りむいた。

(とこのまには、もうほくとしちせいのかけじくがなくなっていて、たかさがいっしゃくくらいのせっこうの)

床の間には、もう北斗七星の掛軸がなくなっていて、高さが一尺くらいの石膏の

(きょうぞうがひとつおかれてあった。きょうぞうのかたわらには、けいとうのはながさいていた。)

胸像がひとつ置かれてあった。胸像のかたわらには、鶏頭の花が咲いていた。

(しょうじょはみみのつけねまであかくなったかおをさびたぎんぼんではんぶんかくし、ひとみのちゃいろな)

少女は耳の附け根まであかくなった顔を錆びた銀盆で半分かくし、瞳の茶色な

(おおきいめをさらにおおきくしてかれをにらんだ。せいせんはそのしせんをかたてではらいのける)

おおきい眼を更におおきくして彼を睨んだ。青扇はその視線を片手で払いのける

(ようにしながら、「そのきょうぞうのひたいをごらんください。よごれているでしょう?)

ようにしながら、「その胸像の額をごらんください。よごれているでしょう?

(しようがないんです。」しょうじょはめにもとまらぬくらいのすばやさでへやから)

仕様がないんです。」少女は眼にもとまらぬくらいの素早さで部屋から

(とびでた。「どうしたのです。」こともなげにわらっていた。ぼくはいやなきがした)

飛び出た。「どうしたのです。」こともなげに笑っていた。僕はいやな気がした

(「なに。ていこのむかしのあれのきょうぞうなんだそうです。たったひとつのよめいり)

「なに。てい子のむかしのあれの胸像なんだそうです。たったひとつの嫁入り

(どうぐですよ。きすするのです。」こともなげにわらっていた。ぼくはいやなきがした)

道具ですよ。キスするのです。」こともなげに笑っていた。僕はいやな気がした

(「おいやのようですね。けれどもよのなかはこんなぐあいになっているのです。)

「おいやのようですね。けれども世の中はこんな工合いになっているのです。

(しようがありませんよ。みているとかんしんにはなをまいにちとりかえます。きのうは)

仕様がありませんよ。見ていると感心に花を毎日とりかえます。きのうは

(だりあでした。おとといはほたるぐさでした。いや、あまりりすだったかな。)

ダリアでした。おとといは蛍草でした。いや、アマリリスだったかな。

(こすもすだったかしら。」このてだ。こんなちょうしにまたうかうかのせられたなら)

コスモスだったかしら。」この手だ。こんな調子にまたうかうか乗せられたなら

(まえのようにかたすかしをくらわされるのである。そうきづいたゆえ、ぼくはいじわるく)

前のように肩すかしを食わされるのである。そう気づいたゆえ、僕は意地悪く

(かかって、それにとりあってやらなかったのだ。「いや、おしごとのほうは、)

かかって、それにとりあってやらなかったのだ。「いや、お仕事のほうは、

(もうはじめているのですか?」「ああ、それは、」こうちゃをひとくちすすった。)

もうはじめているのですか?」「ああ、それは、」紅茶を一口すすった。

(「そろそろはじめていますけれど、だいじょうぶですよ。わたしはほんとうは、ぶんがくしょせい)

「そろそろはじめていますけれど、大丈夫ですよ。私はほんとうは、文学書生

(なんですからね。」ぼくはこうちゃのちゃわんのおきどころをさがしながら、「でもあなたの)

なんですからね。」僕は紅茶の茶碗の置きどころを捜しながら、「でもあなたの

(ほんとうは、あてになりませんからね。ほんとうは、というそんなことばで)

ほんとうは、あてになりませんからね。ほんとうは、というそんな言葉で

(またひとつうそのうわぬりをしているようで。」「や、これはいたい。そうぽんぽん)

またひとつ嘘の上塗りをしているようで。」「や、これは痛い。そうぽんぽん

(じじつをつきたがるものじゃないな。わたしはね、むかしもりおうがい、ごぞんじでしょう?)

事実を突きたがるものじゃないな。私はね、むかし森鴎外、ご存じでしょう?

(あのせんせいについていたものですよ。あのせいねんというしょうせつのしゅじんこうはわたしなのです」)

あの先生についていたものですよ。あの青年という小説の主人公は私なのです」

(これはぼくにもいがいであった。ぼくもそのしょうせつはよほどまえにいちどよんだことが)

これは僕にも意外であった。僕もその小説は余程まえにいちど呼んだことが

(あって、あのかそけきろまんちしずむは、ながくぼくのこころをとらえはなさなかったもの)

あって、あのかそけきロマンチシズムは、永く僕の心をとらえ離さなかったもの

(であるが、けれどもあのなかのあまりにもよるずにきれいすぎるしゅじんこうにもでるが)

であるが、けれどもあのなかのあまりにもよるずに綺麗すぎる主人公にモデルが

(あったとはしらなかったのである。ろうじんのあたまででっちあげられたせいねんであるから)

あったとは知らなかったのである。老人の頭ででっちあげられた青年であるから

(こんなにきれいすぎたのであろう。ほんとうのせいねんはさいきやださんもつよく、)

こんなに綺麗すぎたのであろう。ほんとうの青年は猜忌や打算もつよく、

(もっといきぐるしいものなのに、とぼくにとってふまんでもあったあのすいれんのような)

もっと息苦しいものなのに、と僕にとって不満でもあったあの水連のような

(せいねんは、それではこのせいせんだったのか。そうこうふんしかけたけれど、すぐいやいや)

青年は、それではこの青扇だったのか。そう興奮しかけたけれど、すぐいやいや

(とようじんしたのである。「はじめてききました。でもあれは、しつれいですが、もっと)

と用心したのである。「はじめて聞きました。でもあれは、失礼ですが、もっと

(おっとりしたおぼっちゃんのようでしたけれど。」「これは、ひどいなあ。」)

おっとりしたお坊ちゃんのようでしたけれど。」「これは、ひどいなあ。」

(せいせんはぼくがもちあぐんでいたこうちゃのちゃわんをそっととりあげ、じぶんのといっしょに)

青扇は僕が持ちあぐんでいた紅茶の茶碗をそっと取りあげ、自分のと一緒に

(そふぁのしたへかたづけた。「あのじだいには、あれでよかったのです。でもいまでは)

ソファの下へかたづけた。「あの時代には、あれでよかったのです。でも今では

(あのせいねんも、こんなになってしまうのです。わたしだけではないとおもうのですが。」)

あの青年も、こんなになってしまうのです。私だけではないと思うのですが。」

(ぼくはせいせんのかおをみなおした。「それはつまりちゅうしょうしていっているのでしょうか。」)

僕は青扇の顔を見直した。「それはつまり抽象して言っているのでしょうか。」

(「いいえ。」せいせんはいぶかしそうにぼくのひとみをのぞいた。「わたしのことをいっているの)

「いいえ。」青扇はいぶかしそうに僕の瞳を覗いた。「私のことを言っているの

(ですけれど?」ぼくはまたまたれんびんににたじょうをかんじたのである。)

ですけれど?」僕はまたまた憐憫に似た情を感じたのである。

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